松鶴家千とせ・宮田羊かん

松鶴家千とせ・宮田羊かん

 人 物

 松鶴家しょかくや とせ
 ・本 名 小谷津 英雄
 ・生没年 1938年1月9日~2022年2月17日
 ・出身地 三重県 四日市市

 宮田みやた ようかん
 ・本 名 佐藤 昭三
 ・生没年 1939年12月25日~ご健在
 ・出身地 宮城県 仙台市

来歴

 来 歴

 宮田羊かん・松鶴家千とせは戦後活躍した漫才師。なかなか達者なコンビであったが、割かし早く別れてしまった。千とせは後年漫談家となり、『わかるかなあ~』という独特の漫談で爆発的な人気を集め、宮田羊かんは鶯谷で店を開き成功を収めた。

 管理人は、両人に会ったことがある。千とせ氏が2022年2月17日亡くなった事を受けて、この記事を追悼として掲載する。ご冥福をお祈り申し上げます。

 二人の生涯は、田崎健太氏のインタビュー本『全身芸人』に詳しい。まことに名著というべき一冊である。他にも取り上げられた芸人の生きざまも詳しいので、一読をおすすめする。

 この本の中に大体の自伝が書かれている。今回はその聞書きをベースに当人から伺った話などを混ぜて構築した。

松鶴家千とせの前歴

 千とせは、長らく満州出身、福島県育ちというのが定説になっていたが、田崎健太氏の調査と千とせの戸籍の提出によって、「三重県四日市市出身」という事実が判明した。その経緯は『全身芸人』に詳しい。

 ただ、出身というだけで殆ど故郷愛らしいものはない――と生前語っていた。あくまでも出生地であって、すぐに転居した事も原因にあるようだ。

 父親は満州鉄道に勤める会社員で、幼い頃から満州で育つ。本土と違って空襲も統制も少なく、平穏に育った。

 敗戦直前の1945年2月に父親を満州に残して引揚げ、父親の実家である福島県南相馬市原町区に引っ越した。

 帰国後、父が福島に建てていた家が叔父(父の兄)に家を乗っ取られており、一家7人狭い物置に押し込まれた。兄夫婦は「弟がいないのなら引き渡せない」と家を半ば横領した形であったと聞く。

 住宅難という事情こそあれ、これはひどかった――と一度ぼそぼそと語ってくださった記憶がある。

 福島で敗戦を迎える。満州に残っていた父親がソ連に抑留されてしまったという。持ち家ながらも本宅に入れぬ悔しさを隠しながら、母親と共に庭や近所の土地を耕し、自家菜園を作って飢えを凌いだ。

 後年、抑留から生き延びた父親が復員。一部始終を知った父親は兄と交渉し、兄を立ち退かせ、本宅に戻る事が出来た。

 地元の小中学校を経て、福島県立原町高等学校夜間部に進学したものの、1953年の時に1年で中退して上京。中退の理由はあまり判然と話してくださらなかった。

 ジャズ歌手を目指し、ショーボートに志願するが、入学を断られている。志破れて困っている時に偶然学校に出入りしていた安藤絹江と出逢い、小島町にあった絹江の家に転がり込む。この絹江の両親が松鶴家千代若・千代菊であった。

 また、内海突破にも弟子入りをしたかった――みたいな事を話していたが、これも今となっては判らない。一部文献では、「内海突破に弟子入り志願するも断られる」とある。

 千代若邸に、居候をしている内にお使いや雑用を任されるようになり、なし崩し的に千代若の身内となる。

 5年ばかり千代若の家に居候し、歌手を夢見ていたが中々芽が出なかった。

 その間、千代若のカバン持ちや雑用をしていた事もあってか、栗友亭などに出入りをする事が出来た。「舞台には上がっていないが知っている」と生前話していた。

 20歳の時に千代若に「腕を磨いてこい」とアドバイスされたのを、「手に職をつけろ」と早合点し、当時八戸市役所で働いていた父親に相談。青森の理容学校へ通う事になり、理髪師の訓練を受けた。

 22歳の時に帰京し、国家免許を取得。理髪師の道も考えたが、再び千代若の元へ戻った。

 帰京後、都上英二門下の都上秀二とコンビ結成――というのが定説であったが、1961年の『漫才研究会名簿』を見たらなんと「都上英一・西秀一」という名義のコンビになっていた。都上英一は本名「丸山博久」という。

 ただ、英一はすぐに「都上秀二」と改名している。コンビの手前並べたのだろうか。

 芸名「西秀一」の「西」の名前は千代若の自宅が「西町」にあったことと、姉弟子の「西〆子」から名付けられたという。

 このコンビで寄席や劇場に出るようになるが、必ずしも一緒というわけではなかった模様。

 宮田羊かん氏の回顧によると、「千とせが駆け出しの頃、一回北海道巡業へ出たんだけど、その時には神田……後の東京二とコンビを組んでいましたよ。京二は他の相方がいるとか仕事があるとか言って、先に帰っちゃって、それで千とせと一緒に仕事をするようになったんですね」。

 秀一・秀二コンビで、1963年2月に行われた第11回漫才コンクールに出場しているので、1961、2年ころにコンビを組んだ模様か。

 このコンビでしばらく司会漫才をやっていたが、村田英雄一座に呼ばれた際に秀二が「師匠の運転で抜けられない」と仕事を断った為、喧嘩となりコンビ解消。

 そのせいか、1965年の漫才研究会名簿では千とせの名前が無い扱いになっている。コンビを組んだので除名でもされたのだろうか。可哀想である。

 1967年、「三代目松鶴家千とせ」を襲名。

『日本演芸家名鑑』には、千とせは元々「千登勢」と書いたそうで、京都の女歌舞伎の名跡だったという。『全身芸人』によると、千代若が二代目から名前を譲り受けたとある。

 また、千代若の師匠に当たる松鶴家千代八は女歌舞伎や地方周りに一座にいた事があるので其処からこの名前を預かっていた可能性もある。

 本来ならば漢字で「千登勢」と名乗るわけであったが、宮田羊かんと組むに当たって平仮名に統一しようという事で「千とせ」になった。

 西秀一・秀二を解散したあと、宮田羊かんとコンビを組んだ。それが、1968年頃コンビ結成とあるが、これはケアレスミスだろう。

 秋田実が発行していた『漫才』(No.16)の中では、

松鶴家千とせ(小谷津英雄)宮田羊かん(佐藤昭三)  
 舞台でいつも目をしょぼつかせている千とせは満州生れの福島県育ち、二十五年に上京して故内海突破の門を叩いたが、ことわられたので寝る場所がない為理容師になりチャンスを待つ、待つかいあって突破師のゆるしもあり、一緒に映画に出演する、その後漫才に乗込む、松鶴家千代若、千代菊の弟子に入門、二代目松鶴家千とせの芸名をもらう。 
 顔の丸々とした羊かんは、仙台の産で食道楽でうまい物のあるところは車代を使っても食べに行くと云う男で、宮田羊容師に弟子入りし、司会やコメディアンを経て四十一年千とせとコンビを組む、韓国語のうまい千とせと競馬の好きな二人は、漫才ネタも韓国ムードや競馬の話が得意である。 グループの公演の時は客を呼ぶのがうまい羊かん、競馬の予想よろしく客を呼ぶので、お客さん大喜びである。

 とある。そうでなければ、4、5年漫才をやったという宮田羊かんの発言とつじつまが合わない。細かい点の指摘であるが――

宮田羊かんの前歴

 相方の宮田羊かん。この人にも一度店に伺ってキチンと取材をしたことがある。

 ざっとした半生は田崎健太『全身芸人』に詳しい。よくぞここまで記録したと感心する次第である。

 羊かんは仙台の出身。後妻の子だった為に母親と先妻の子たちとの折合いが悪く、幼いから独立を志す。同級生の実家が神楽坂で製本業をやっている事を知り、上京。

 この時には校長も協力してくれたそうで、義務教育中であるにも関わらず、上京の事を黙認してくれたという。

 上京後、住み込みで職場に入り、所謂「折り屋」と呼ばれる仕事をやるようになった。しかし、印刷紙をベニヤ板で折り、神保町に持っていくという細かい仕事に閉口し、「美味いものが食えないって思ったの。」という理由で、転業を志すようになる。

 その時、神楽坂の交差点にあった公衆電話に入り、電話帳をめくった所、宮田洋容の名前を見つけ、電話をかけた。その応対に宮田本人が出て、話が進んで弟子入りした――というが、羊かん氏の弁である。

 話が上手く進んで宮田洋容に弟子入りを志願。

 1953年、住み込み弟子として師匠の鞄持ちや旅行の手伝いなどで働くようになり始めた。この頃、洋容は漫才オペレッタで人気を集めており、仕事も多かった。

 この見習い時代の珍談猥談も数多いが、すさまじいので書けない。

 入門して間もなく「宮田羊かん」と名付けられた。当初は嫌で嫌で仕方なかったそうである。

 曰く、「弟子入りして宮田羊かんって名付けられたけど、師匠は名付けが下手でねえ、弟弟子にアメリカ人が居たが、師匠は宮田羊ぐるとって、名付けた。そしたらすぐ辞めて逃げ出したよ。無理もない、ようかんにヨーグルトとは……そりゃ逃げるよねえ」。

 駆け出しの頃は師匠の身の回りの世話の他、大朝家五二郎や市山寿太郎の世話にもなったそうで、「五二郎さんの所には福娘さんというがいて、この人たちには、随分と仕事を斡旋してもらいましたねえ」。

 長らく司会やコメディアン、師匠の手伝いなど、ジャンルを問わない幅広い活躍を続けていた。臨時コンビも何度も組んでいたという。

 1959年に、林百歩とコンビを組んで本格的にデビュー。

 当人曰く、「百歩さんは俺なんかよりもずっと年が上でね、親より年上だったかもしれない。達者でいい人だったけど、テンカン持ちでね。舞台でぶっ倒れるの。一回、新宿の松竹座だったかなあ、舞台で卒倒してね、それがギャグだと思って大うけだった。俺は大変だよ。引きずって舞台袖まで連れて帰った事があります。翌日舞台で倒れなかったら、支配人からね『なんであの倒れるギャグをやらないんだ』って説教されて、驚いたことがありますよ」。

 師匠が漫才研究会と袂を分かっていた事もあってか、長らく漫才研究会には近寄らず、フリーのような立場であったという。

 2年ほどで林百歩とコンビを解消。美田朝刊と別れたばかりの宮島一茶とも組んでいた事もあったが、長くは続かなかった。

 羊かん氏曰く、「一茶は不良気質があって、長くは続けられなかった」。

 羊かんが地方巡業先で、臨時で千とせとコンビを組んだ話が『全身芸人』の中で紹介されているが、この時千とせを置いていったのは――後に京二・京太で人気を集めた、東京二。

 これは宮田氏当人から伺ったので間違いない。要約すると「京二はまだ本名の神田で漫才をやっていた」「相方がいるから千とせを置いて先に帰ったんだ」とのことである。

 臨時コンビで仲良くなって以来、行動を共にするようになり、1966年頃、コンビを結成した。

 当初は「西秀一・宮田羊かん」であったが、秀一が名前を貰った事を機に「羊かん・千とせ」と改名したという。羊かん氏曰く、「ようかんに千歳飴の洒落も含んでいた。なんだ、菓子屋の宣伝みたいだとからかわれた事もありますよ」。

松鶴家千とせ・宮田羊かん時代

 千とせの師匠・千代若を頼って、漫才協団に入会。

 1968年、若手漫才師の集まり「漫才グループ21」に参加。かつての相方であった東京二、弟弟子の東京太などと一緒になっている。あした順子・ひろし、大空みつる・ひろしなどの有力なコンビに揉まれながら、腕を磨いた。

 1969年に開催された第17回NHK漫才コンクールに出演。

 この時のネタは『海外旅行』というもので、他の出演者には大空みつる・ひろし、東京大坊・小坊、北ひろし・南順子――あした順子・ひろし、東京二・京太、大瀬しのぶ・こいじ、月見おぼん・こぼんなど合計11組。

 因みにみつる・ひろしから、しのぶ・こいじまでは漫才グループ21の仲間だったのだから、さぞやりづらかった事だろう。

 この時の優勝は東京二・京太の『忍法虎の巻』。かつての相方が優勝したのを見て、千とせはなんと思った事であろうか。千とせ・羊かんは次点(4位)止まりであった。

 翌年の18回にも出場。このときの出場者は前年とほぼ同じであるが、花園のいる・こいる――後の昭和のいる・こいるが初参戦を果たしている。この時は『ハプニング桶狭間』というネタで挑戦した。

 しかし結果は3位。この時の優勝は先輩の大空みつる・ひろしの『㊙情報時代』であった。

 この時のコンクールの事を遠藤佳三氏がよく覚えていて、一度話してくださったことがある。

 みつる・ひろしの『㊙情報作戦』っていうのは当時流行り出したコンピューターを話題にした漫才でしてね、「コンピューターってなんだよ」「実はキツネとピューマで作られている。コン・ピューター」って今思えば稚拙ですが、当時はコンピューターって概念が殆どない時代ですからね。ハイカラな漫才で受けたもんですよ。
 しかし、あの大会で一番受けたのは千とせ・羊かんの漫才でした。これはすごかった。競馬のマネをするんですがね、今思い出しても見事な物でしたよ。面白かったんです。何言っても客がひっくり返って笑う。
すさまじい熱量で、これは優勝間違いない、って思ったら三位で、幕内も驚いた事もありますよ。まあコンクールには色々あったんですがね……。

 ものすごい余談であるが、千とせ同様『全身芸人』の中で取り上げられている世志凡太は、大空みつるの師匠である。これもまた何かの因縁だろうか?

 そして、1971年の第19回にも出演。出演者の顔ぶれも少し変わり、Wエースや獅子のびる・瀬戸こえる時代ののいる・こいるなどの若手が目立つようになった。

 この時のネタは書いていない為不明であるが、結果は3位。優勝は大瀬しのぶ・こいじの『固い商売』であった。これ以降、羊かん・千とせが漫才コンクールに出場する事はなくなってしまった。

 コンビ解散は、「1970年か1971年」とあるが、手元にある資料や両人及び遠藤佳三氏の発言を統合する限り、1971年が正しいと思われる。

 羊かん氏によると、「1971年の歌舞伎座の漫才大会を最後に引退をした」という。1971年が正しいだろう。

松鶴家千とせのその後

 相方が引退してしまったため、漫才界から一線を退いた。その後は、漫談家として再スタートを切り、メルヘン漫談と称した不思議な世界観を醸し出す話術や司会などにも挑戦したものの、大ヒットには至らず苦悶する日々が続いた。

 この頃、宮尾たか志を兄貴分に小野栄一などと「漫談8の会」を結成して、勉強会を盛んに行っている。この時、漫談の技術を磨いたという。

 その中でかつて覚えた理容術を用いて、髪をアフロに変更。サングラスに豪華な衣装をまとい、ジャズシンガーのような風貌を活かした漫談を編み出した。

指を鳴らしながら、「わかるかなあ、わっかんねえだろうなぁ」という言葉を間に挟み、ピースをしてみせる独特の漫談を開発。

 この頃、ツービートの二人に出会い、仕事の斡旋や面倒を見ている。当人から聞いた話では「大須演芸場で中田ダイマルラケットさんなんかとマージャンを打っていたら、ツービートが来て『弟子にしてください』。僕はダイラケさんと思ったから、『師匠、若いのが来ていますよ』と声をかけたら二人は『いえ、千とせ師匠です』って。それで面倒を見るようになった」。

 1975年に童謡『夕焼け小焼け』をリメイクした漫談『わかんねェだろうナ』を発表。シュールな世界観が当たって、160万枚超の大ヒットを飛ばし、一躍売れっ子となった。

 このお陰で1976年度のビクターレコードヒット賞、1984年には第8回日本パロディ展特別優秀賞などが贈られている。

 その奇抜な扮装とメルヘンチックな漫談でたちまち時代の寵児となり、テレビ、ラジオ、映画、CM、巡業と眠る暇もない生活が続いた。当時の雑誌や広告などを見ると、その人気のすさまじさを伺い知ることが出来る。

その人気絶頂の最中、心労や体力的な限界に到達し、対人恐怖症に罹患。その結果、仕事や表舞台から距離を置くようになった。

 この事から元祖「一発屋」などと不名誉な批評がなされる場合があるが、社会的な影響は決して小さくなかった事を考えると、その批評が必ずしも正しいとも言えない。

人気が落ち着いた後は心機一転、独自の漫談や活動に磨きをかけて、海外公演などにも挑戦している。

 また、パソコン黎明期からこの媒体に着目し、早くからパソコンを取り入れたのも先見の明があるといえよう。千とせ氏本人からは「趣味が高じて」と伺った。

 長らく日本演芸協会に所属し、理事や幹事を務めているが、晩年抜けてしまった。理由は聞かなかった。

 2012年11月、芸能生活60周年を記念して、「これからサンバ」、「三千六百五十日もあるからね」をオリエントレコードよりリリースしている。

 2017年、芸能生活65周年を迎えた。管理人が出会ったのはちょうどこの頃である。

 今だからネタバレをするが、晩年はアフロヘア―を維持できるほどの髪はなく、あの髪型は特注品のカツラであった。それでもあのスタイルで老いをあまり感じさせないのは流石であったといえよう。

 2022年1月17日、浅草木馬亭で一門公演の「第78回うたとお笑い」を開催。これが舞台に立った最後であろう。

 2022年1月19日、ネット放送「千とせとあるきたい千住」をyoutubeに公開。これが公に出た最後であろう。

 1月28日に風邪をひいた際、心筋梗塞を起こし綾瀬循環病院へ入院。バイパス手術の検討が行われていたというが、2月17日朝に容体が急変。10時4分、心不全のために死去。84歳。

宮田羊かんのその後

 1971年2月に行われた漫才コンクールまで出場したが、結果は残せなかった。それからまもなくして、「歌舞伎座でやった漫才大会を最後に」芸能界から一線を退いた。

 漫才引退後、とんかつ屋「カトレア」に就職、出前持ちからはじめた。

 芸人時代の名誉や地位も振り払ってがむしゃらに働いた。その努力が認められ、後年、店長に就任している。

40歳の時に独立し、鶯谷に店を構え、「よーかんちゃん」を開業。地味な店を建て直し、明るく楽しい店を創り上げた。

 この不思議なお店は噂が噂を呼び、SMAPや中村勘三郎を筆頭に、尾田栄一郎や人気漫才師がお忍びで通う名店に成長した。尾田栄一郎のサインが壁に書かれているのを思い出す。

 2022年現在も鶯谷に健在である。今年も電話したら出たので健在であろう。

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