青柳ミチロー・柳ナナ

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青柳ミチロー・柳ナナ

 人物

青柳あおやぎ ミチロー

 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~??
 ・出身地 ??

やなぎ ナナ

 ・本 名 ??
 生没年 ??~昭和30年代?
 出身地 ??

 来歴

 戦前の漫才大会のチラシを見ると、柳ミチロー・青柳ナナと表記されており、亭号も柳と青柳が逆になっていたり、ミチロー・ナナ、ミチロホ・ナナなどとバラバラなのが目につく。このように、わざと難読な漢字を当てているのは、戦前の外来語やカタカナの改名の名残ではないだろうか。それが故に表記が自由になった戦後もバラバラになっていると推測する。なお、ここではミチロー・ナナで統一する。

 このコンビも幹部だった割には殆ど素性が明らかになっておらず、お困りもののコンビである。洒落を言えば、名コンビの迷コンビといったところか。

 数少なく確定しているのが、夫婦コンビであったこと、戦前「セーラー漫才」と称して水兵漫才をやっていたこと、晩年はしゃべくり漫才へと移行して、昭和28年1月25日に行われた漫才大会のメンバーとして出演しているくらいこと、漫才研究会の幹事として活躍したこと、これくらいである。

 後は僅かにチラシや出演表に名前が載っている程度で、レコードはおろか、新聞でもその名前を見つけるのは困難である。無論、出演はしているが名前もコロコロと変えているので非常にわかりづらい。

 青空うれし氏に尋ねてみたところ、「漫才の中に文学や短歌、俳句がぽっと出てきて、知性のある高級漫才を思わせるような所があった」というようなことを述べていたが、やはりそこまでの面識はなかったようである。また、このコンビを見た時には相応の老年に達していたということも述べていた。

 夫婦であったという証拠は、十返舎亀造の証言からである。

  いま漫才で男と女のコムビといえば、青柳ミチロー・ナナに都上英二・東喜美江ぐらいが名が通つているかな。えゝ、あの連中はみんな夫婦。

 (「週刊NHKラジオ新聞」昭和25年12月16日号 3頁)

 また、このコンビの事を詳細に記した一人に、作家の色川武大がいる。

 青柳ナナ・ミチローは浅草漫才のスター格だったと思う。戦時中の一時期はたしかセーラー服など着て水兵漫才と称していたが、相当な年配で、(註・玉松)ワカナ・一郎をもっとヤニっこく、泥臭くしたような芸だった。ミチローは元弁士だとかで、仲間うちに高利で小金を貸したりして、あまり好かれていなかった。

 と、回顧している。あくまでも客としてみた記憶と、他人から聞いた噂の域を出ないであろうが、噂にせよ、満哉が映画の活動弁士の出身だったという記載は見逃せない。

 余談であるが、弁士という職業は無声映画を解釈し、台本を作る関係もあってか、当時の芸人の中では割かし知識があり(無論、滅茶苦茶な事を言う人もいることにはいたが、)語学や文学に通じている人も結構多かったという。そう考えてみると、青空うれし氏が述べた「文学や短歌、俳句がぽっと出てきて……」という発言も頷けるような気がする。

 その一方で、同じく色川のエッセイ及び立川談志との対談を覗くと、

 (戦時中に人気があった兵隊漫才の話から、)
 ナナ・ミチローの水兵服もその系列であろうが、元は柳家金語楼の兵隊落語に端を発したものであろう。面白くなりそうな要素も含んでいるが、大体は定形があり、安手なドタバタに始終していて、訴えが空疎であり、戦争が終わるとパロディとしても残らなかった。

(色川武大「寄席放浪記」  140頁)

 また、立川談志との対談の中で、

 (東京漫才の話になって、)
立川(註・立川談志)  生臭くていやだった。千太・万吉はまったく生臭くないからネ。ぼくはミチロー・ナナ、だとか、それから司郎・喜代美なんというのは嫌だったな。ひろし・まりも最後まで生臭かった。いまはどうなのか知らないけど。

―中略― 


(漫才大会をやっていた話に移り、)
立川 ときどきメンバーが入れかわらないというんで、一雄・八重子もちょっと出してみたり、ミチロー・ナナもすれすれにいて……。
色川  あれ、ミチロー・ナナもいた?
立川  うん、いたんですよ。あの人のネタは馬の競争で、最後にばかな馬が舌を出したという、あんなネタなんだけど。

   色川  あれ、戦争中、水兵服着てやってた水兵漫才だったの。
   立川  ああ、そう。男女で?
   色川  男女で。それでアコーディオン持ってね。兵隊漫才っていうのがあったでしょう。あれのつまり裏の手で、水兵漫才で売れたんだけど、これも泥臭くてね。
   立川  汚い。汚れだったんだね。(以下省略)

(「同」161~163頁)

 と、結構否定的な言葉が並んでいる。やはり、ここで共通してくるのが兵隊漫才風のドタバタばかりを演じていて、泥臭いものであったというのは、彼らの芸の欠点だったに違いない。

 しかし、ひところ人気があったのは、間違いないようで、松竹関係の舞台によく顔を出しているし、東宝名人会を作った秦豊吉は「昭和の名人會」の中で、

(註・昭和十八年)五月も新しい番組はない。結城孫三郎、鏡味小仙、大辻司郎、李彩、伯龍、圓歌、小三治の繰返しである。漫才の柳ナナ、青柳ミチローが、黒い縁の太いロイド眼鏡をかけて出た。

(秦豊吉「昭和の名人會」 56頁)

 と、このコンビが出演したことについてを触れている。

 大きなロイド眼鏡がトレードマークだったのは、戦前も戦後も変わらなかったようで、手元にある満哉・七穂の写真を見ると、ロイド眼鏡をかけており、サン写真新聞においてもやはり同じようにかけている。昔から何かしらトレードマークのある漫才師は得であるといういい事例ではないか。

戦後間もない昭和25年、芸人の人気の象徴であったラジオに出演を果たしている。当時の記事によると、

今輔師匠の落語 ミチロー・ナナの漫才

ラジオ寄席 20日 ① 後8・00

 青柳ミチロー・柳ナナのコンビの漫才と、古今亭今輔の落語がおくられる。

 漫才=「てんやわんや」
お客様に笑つていただくのが商売の漫才師、幼かりし頃は「人に笑われるような人間になるな」と両親からいわれたこともあるという話から、ミチローのコミックソングを御披露する。

(「週刊NHKラジオ新聞」昭和26年5月10日 4頁)

 とある。目下調査中であるが、この前後で何度も出演していた模様でもある。

 昭和28年1月25日、帝劇で行われた終戦後初となる「東京漫才大会」にも出演し、健在ぶりをアピールした。その舞台を観た演芸作家の松浦泉三郎(善三郎)は、

 六時五十分ミチロー・ナゝがサラで登場して開幕。出番の順に感じた儘を書くと――ミチロー・ナゝ相変らずと云う処(十七分)。

(「アサヒ芸能新聞」 昭和25年2月3週号 17頁)

 と、褒めているのか貶しているような、よく分からない、取りとめのない事を記している。

 賛否は多々あったようであるが、何はともあれ、戦前から戦後の一時期まで東京漫才の人気者であったことは、間違いない事実であろう。

 また、昭和30年に結成された「漫才研究会」にも関与をしていたそうで、漫才研究会設立前後の事を記した資料を読むと、

二月十四日午後十一時会員総会を開催改めて役員推挙の結果左の通り確定す

會  長 リーガル千太・万吉
補  佐 林家染団治・美貴子
常  任 都上英二・東喜美江
宮田洋容・不二幸江
会  計 三國道雄・宮島一歩
会計監査 (兼任)リーガル千太
幹  事 大道寺春之助
隆の家万龍・栄龍
大空ヒット・三空ますみ
青柳満哉・柳七穂
桂三五郎・河内家芳江
浅田家章吾・雪枝
桜川ぴん助・美代鶴[※「兼任連絡」の加筆有]
橘晃一・橘眞理子
松鶴家千代若・千代菊
中禅寺司郎・滝喜世美
高波志光児・光菊
新山悦郎・春木艶子
南道郎・国友昭二[※追記]
コロムビアトップ・ライト[※追記]

(八木橋伸浩編「南千住の風俗 文献資料編」 28頁)

 また、

二月廿五日、ニッポン放送にて幹事の座談会録音す

司会 並木一路

千太、万吉、三五郎、芳江、万蔵、光児、洋容、美代鶴、染団治、司郎、喜世美、七穂、満哉、英二、喜美江、千代若、千代菊、悦郎、艶子、晃一、眞理子、章吾、雪枝

(八木橋伸浩編「南千住の風俗 文献資料編」 30頁)

 などと、幹部扱いをされていることがわかる。

 しかし、この頃から、二人の動向が解らなくなり始め、昭和34年の栗友亭廃止と同時にパタリとその名前が確認できなくなるのに至る。

 没年は共に不詳であるが、源氏太郎氏は「昭和30年代、どちらかが亡くなったと楽屋で聞いて驚いた事があります」と仰っていた。先に亡くなったのは女のナナの方であったそうである。

 波多野栄一はこのコンビのことを、

青柳ナナ ミチロー

水兵漫才からしゃべくりに一時は売れたが晩年は気の毒だった

(波多野栄一「寄席といろもの」)

 と記し、色川武大も先述したエッセイの末尾で、

 仲間うちに高利で小金を貸したりして、あまり好かれていなかった。そのせいかデブ女のナナに戦後死なれたあと、長らく不遇をかこちながら死んだという。

 と、噂をまとめているが、どうやら晩年は相当悲惨なものだったようである。率直に言えば、時代の流れについて行けず、そのまま取り残された一組だったのであろう。

 幹部級の漫才師でもあったにも関わらず、その消息が掴めないのは哀れというより他はない。

芸風

兵隊漫才からしゃべくり漫才と漫才の流行を辿ってきたようなコンビである。が、如何せん資料は少なく、特に戦前の様子は、色川武大「寄席放浪記」の中で、

 青柳ナナ・ミチローは浅草漫才のスター格だったと思う。戦争中の一時期はたしかセーラー服などを着て水兵漫才などを称していたが、相当な年配で、ワカナ・一郎をもっとヤニっこく、泥くさくしたような芸だった。

(色川武大「寄席放浪記」 204頁)

 と、僅かに見える程度である。

 一方、戦後の様子は、先述の松浦泉三郎(善三郎)が「アサヒ芸能新聞」の連載「関東漫才切捨御免(12)」の中で取り上げたので、一応のことは知ることが出来る。

柳ナゝ
青柳ミチロー

 今秋の帝劇の関東漫才大会は他用で行かれず、出演したこのコンビの舞台を聴きそこなった、ともかく近年の舞台はモリ/\で気持ちの良いコンビ、今や押しも押されぬ人気者。
 立体(註・立体漫才)で成功している原因は松竹時代を経由した長年の苦心と努力の集成した明朗なる芸風にあるが、その又エッキスは両人の対照術にある。
 大きな声で一言一句明確にしゃべる(えてして語尾が消えて発音が不明瞭になる者が多い)
 これは立体漫才ばかりで無く少くとも舞台人の第一の鉄則である筈だがそれが仲々出来ない。
 このコンビは一語々々をかんで含めるように(ネタにも捲るも)しゃべってゆくので客によく解る。解ると謂う事は客が納得する事であって、納得すればもともとその内容が坊さんのお説教でなくて笑わせようと初手から掛っている漫才であるから、客はどうしても笑わずにはいられないという次第。
 よく演る「ニコチン中毒」の話等アイデアは決して新らしいものではないが、客はよく解るからよく笑う。客にハマロうがはマルまいが持っているネタをどん/\通して行く心臓組もあるのと対照するとこれは「判らせる漫才」といえる。思いなしかナゝのスタイルは女子高校の数学の先生の感じ。
 ミチローが何時のステージでもパフで軽く顔をたたいて出演するのは、これも幕内の多勢の意見は賛否両論であろうが筆者は賛成。舞台の究極は「美」であり「綺麗」であるべきもので、頭髪がザンバラだったり無精ひげが見えたりでは自らの舞台に誠意がないと断ずる他はない(こういう無作法組が案外多い)
 あれやこれやでナゝミチローは才界でもオーソドックスなものといい得よう。

(「アサヒ芸能新聞」昭和29年1月3週号 17頁)

 松浦氏は彼らの舞台を強く賞賛し、人気者のようにしたためているが、後年の零落ぶりと比較すると、どことなく悲しい。

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