榎本晴夫・志賀晶

榎本晴夫・志賀晶

榎本晴夫・志賀晶(左)

志賀晶十八番の電話漫談

参禅する榎本晴夫と黄金竜尾(左)

 人 物

 榎本えのもと 晴夫はるお
 ・本 名 榎本 方一
 ・生没年 1923年10月12日~2014年12月頃
 ・出身地 東京

 志賀しが あきら
 
 ・本 名 青柳 保
 ・生没年 1933年7月18日~2013年頃
 ・出身地 東京

 来 歴

 榎本晴夫については榎本晴夫・国友昭二を参照。

 志賀晶の幼少期は不明であるが、成立商業高校出身(当時、成立商業学校)。同校在学中の1951年元日に柳家三亀松に入門し、東海林太郎一座で初舞台を踏み、以来司会者として舞台に上がっていた、と新山ノリロー氏などから伺った他、「マムシプロ」の宣伝広告にある。以下は私蔵しているパンフレットの紹介。

 立てば雄々しく、坐ればモダン、歩く姿は寄席の華。

 センスの良さとスマートなことにかけては、業界No.1。高校在学中に「東海林太郎ショー」の司会として初舞台を踏み、それが縁で芸界入りした実力派である。漫才時代からの持ちネタ、電話漫談はきわめつけ。超ロングセラーというところか。
 巧みな芸で世間を沸かせる一方、福祉活動に熱意をもっており、横浜刑務所の篤志面接員を経て、現在は仕事の合間に各地刑務所を訪問しボランティア活動を続けている。五十の声を聞いて、いよいよ渋味を増し、円熟した演技が大好評である。

 経歴 本名 青柳保
 ●昭和8年7月18日 東京は北区にて生誕。 ●26年の1月1日、お日柄もよく、柳家三亀松師匠(故人)の弟子となり、漫談、歌謡ショーの司会で芸の道を歩み始める。 ●33年より、ビクター専属の司会をつとめ、マヒナスターズと共に歩む。 ●38年に榎本晴夫と漫才コンビを結成。その名も「えのしがコンビ」で大活躍。 ●48年、漫談家として一本立ち。

 また、「第20回漫才コンクール」のパンフレットによると、「(お師匠さんは)志賀さんの場合は特にありません(でも…ごく若い頃、大辻伺郎さんや柳家三亀松師について歩るいていました)(附人)」と大辻司郎に師事した旨が記載されている。

 但し、青空うれし氏によると「志賀ちゃんは、三亀松の門下だっていう認識はあまりなかったけどね。三亀松師匠からは可愛がられていて、志賀、志賀と呼ばれちゃ、網打ちとかお座敷の鞄持ちをしていたのは覚えているけど」との事。そのうれし氏から聞いた話に、

 志賀ちゃんが三亀松さんに入門して間もない頃、「おい、志賀、タクシーをつかまえろ」というので、タクシーを呼んだんだな。デカい鞄を渡されて、「ついてこい」とタクシーに乗せられた。どこに行くのかとドキドキしていたら、着いた先は皇居のお堀だ。タクシーから降りるや、三亀松さん、カバンから投網を取り出して、お堀に向って、「バッシャーン!」。
 師匠の常識外れの行動を目の当たりにした志賀ちゃん、注意することもできず、ただただ動転していると、その音を聞きつけた人が飛んできて、「何やってるんだ!」って二人を問い詰めると、三亀松さん平然とした顔で、 
「おう、こいつが腕時計をお堀に落としたというから、投網で取ってやってるんだ!」
 それで煙に巻いちゃったんだから、三亀松さんもすごいが、志賀ちゃんは後で「あれだけ恥ずかしいことはなかった」って愚痴ってたよ。

 1951年に読売新聞が主催で行った「稲毛海岸 読売芸能大会」には早くも出演しており、『読売新聞』(8月18日号)の中に、「▽声帯模写=青柳保」という記載がある。当初は本名でやっていた模様。

 長らく司会と漫談が主であったが、1954年頃、榎本晴夫と暫定的なコンビを組んだ事もあった。その頃から、漫才研究会を出入りするなど、漫才師とも面識が深かった。

 1958年、ビクターと契約を結び、「和田弘とマヒナスターズ」の専属司会者となり、人気グループを陰で支えた。奇しくもこの時の同じ所属が、榎本晴夫・国友昭二であった。

 1963年頃、国友昭二・榎本晴夫のコンビに誘われる形で漫才に転向し、「サラリーマントリオ」を結成。都会風な芸風で人気を集め、テレビ・ラジオに出演。

 1966年、国友昭二離脱に伴い、コンビとなる。「エノシガコンビ」の愛称で、人気を集めた。

 1968年2月、第16回NHK漫才コンクールに出場し、『求む!秘書』で準優勝。なんとこの作品は、赤塚不二夫の作品だという。本当だろうか。

 この時の模様は、3月17日、NHKで放映された。その時の音源がNHKにあるとか無いとか聞くが不明。

 この頃、『漫才グループ21』に、大瀬しのぶ・こいじと共に入会。先に、東京二・京太、あした順子・ひろし、東京大坊・小坊、松鶴家千とせ・宮田羊かん、大空みつる・ひろし、青空はるお・あきお、青空月夫・星夫、羽沢かんじ・志摩かほる、ミスター高峰(高峰青天)・ミス高峰――合計10組の漫才師達がいたが、先輩格として入会し、腕を磨き合ったと聞く。

 1968年6月16日、NHK『寄席中継~東京・浅草演芸ホール』に出演し、「えのしが週刊誌」を披露。他の出演者は、桂歌丸「大師の手拭」、てんや・わんや「かえるの子」、三笑亭夢楽「青菜」。 

 1969年2月、第17回『お願いしますよ、二・三分』は選外に終わる。コント風の漫才だったという。

 同年3月17日、『みんなの招待席』に出演。

 同年6月7日、『お笑い招待席』に出演し、「求む!秘書」を披露。NHKの検索ページを見ると、作・赤塚不二夫になっている。

 他の出演者は、柳亭痴楽「楊貴妃」、染之助・染太郎の「太神楽」、林家正蔵の「権兵衛狸」。

 同年7月23日『テレビ演芸館』に出演し、コント「えのしが週刊誌」を披露。他に、小野栄一の「パントマイム」。

 12月10日、『お笑い招待席』に出演し、新作の『現代病』を披露。他に、桂小西(文朝)の「近日息子」、三遊亭円遊の「豆屋」。

 1970年、第18回は大野桂・作『鬼の居ぬ間』で再び準優勝。2月22日、NHKから放映されている。

 1971年、1972年も準優勝で終わった。この時の演目が記されていないため、不明。

 1971年02月17日、『お笑い招待席』に出演し、「鬼の居ぬ間」を披露。他に、古今亭志ん朝の「子別れ」。

 1972年10月4日、新宿朝日生命ホールで開催された『日ノ本村の村祭り―漫才バラエティー―』に出演。同会の模様は、録画され、10日に放映されている。

 1973年2月、第21回NHK漫才コンクールを『エノ・シガのワイドシヨウ』で敢斗賞受賞。ここで長年の出演記録はストップする。3月21日に、NHKで放映されているものの、間もなく、コンビを解消。

 以降は、古巣の司会漫談へと戻り、歌謡曲の司会を勤める傍ら、友人立川談志の公演へのゲスト出演、「東京演芸協会」に所属して、東洋館や演芸大会に出演。電話漫談というコント風の漫談を得意とした。

 芸人の傍らで、福祉関係の仕事にも力を入れ、横浜刑務所の篤志面接員を務めていた事もあった。

 2012年頃まで、東洋館などに出演している様子が確認できるが、2013年6月30日付の立川志ら玉氏のツイッターに、

「東京寄席」出番終了。仙翁師匠・千とせ先生・名和先生と楽屋話。なかで志賀晶先生亡くなったとの話。インテリヤクザっぽいシャープでスマートな語り口が思い出される。志賀先生、家元とも仲良かったはず。

 とあり、バラクーダの岡本圭司氏も、ブログの中で、

2013年07月05日(金) 08時15分34秒
テーマ:ブログ

 一昨日に引き続き、昨日は私達のボーイズバラエティ協会の会計監査を担当してくださっていた、元漫才でその後、司会や漫談をされて活躍していた志賀晶師匠が先月亡くなられ、葬儀はご家族ご親戚だけの密葬だったもんですから、改めて協会長、理事長、副理事長、私の4人でお線香を上げにご自宅まで行ってきました。
 密葬でご家族の手厚い葬儀が行われ、私達も心から合掌させて頂きました。ご冥福をお祈り致します。( 合掌 )

 と触れている。

 一方の榎本は、演芸界から距離を置き、古巣のバンド・マンに戻った。主にドラムを担当しており、老いてもなお迫力のある演奏は、嘗ての実力を偲ばせた、と聞く。

 バンドマンに戻った後は、演芸界から一線を退いたため、長らく消息がつかみづらい人になっていた。古い仲間とは交遊を残していたそうであるが、芸界へ戻る未練は薄かったという。そういう意味では死ぬ間際まで舞台に立ち続けた志賀晶と対極的だったといえよう。

 80を超えても矍鑠とバンド活動を続けており、晩年は赤羽や新宿などに出入りをして、若い仲間たちとバンドを組んで、ドラムを演奏していた。

 90過ぎても活躍をつづけ、老若男女問わずバンドマンから慕われたというが、間もなく体調を崩し、没。

 晩年の動向は、バンド仲間であった渡辺毅氏よりご教示いただいた。以下はその文面である。

エノさんとの想い出

えのさんとは赤羽の商店街裏にあるカラオケとジャズを交互に行う不思議な店でモダンジャズベースで有名なの秋山さんのお誘いで入ったバンドで初めてエノさんとご一緒させて頂きました。私はデキシークラリネットでエノさんはモダンドラムです。派手な叩き方はしてませんでしたが、スロー、ミディアム、アッブテンポ何でもこなすドラマーでした。あまり歌いませんが、唄もお上手で、WhiteXmasは今でも思い出されます。穏やかな人柄ですが1本筋が通って人世経験が豊かなかただと感じました。赤羽だけのお付き合いでしたが、個人的に彼の名刺や賀状、暑中見舞い、頼まれ数回つくりました。確か膵臓を患って2014年くらいから赤羽にいらっしゃらなくなり、情報が途絶えてしまいました。晩年は新宿三丁目の銅羅という店にも行かれ若い人に混じりデキシーの練習をされジャズフェスティバルにも参加されてました。病気が気になり一度電話で病気見舞行くと連絡しましたが来ない方が良いと言われたように記憶しております。そのうち何回か電話しましたが全く連絡取れなくなりました。2014年の12月ごろにお亡くなりになられたとベースの秋山さんからお聞きしました。みんな葬儀も連絡つかず、全く分からずそのままになってしまいましたのが心残りです。

クラリネット 渡辺 毅

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