永田太閤・桜町千早
人 物
永田 太閤
・本 名 水島寅蔵
・生没年 ??~1954年以降?
・出身地 ??
桜町 千早
・本 名 水島むめ?(旧姓・原田)
・生没年 ??~1954年以降?
・出身地 ??
来 歴
戦前戦後活躍した夫婦漫才。永田一休・繁子の弟子だったらしいが、謎が多く残る。とにかく小柄な太閤と、大柄な千早の組み合わせで受けたという。
永田太閤は元々、中川レビュー団の役者だったという。『アサヒ芸能新聞』(1954年4月4週号)に、「往年の中川レビュー団が彼の発生だと思えば……」とある。ただ経歴はこれくらいしかわからない。レビュー衰退に伴い、漫才師に転向した模様か。
一方の桜町千早に至っては一切の経歴不明。夫婦だったというが、確証はない。戦前の帝都漫才協会の名簿の中には、「永田梅子」として登録されている。「太閤・梅子」では夫婦漫才師扱いである。戦後に改名した模様か。
戦前は師匠の一休について、浅草の劇場を中心に出演。中堅格として活躍していたようであるが、これという評判も噂も見ない。一応看板で「民謡漫才」として見かける程度。相応の漫才師だったのだろうか。
伝聞として知っているのは、太閤がチビで相方がデカく、それを揶揄されるようなネタだった事(洋子・小粒スタイルの漫才であろう)、太閤の髪が薄く、それをネタにされていた、という程度である。
戦時中は、帝都漫才協会に所属。ここから本名を割り出した。田島町に住んでいた模様である。
戦後も漫才師を続投し、貴重な東京漫才師として、浅草の劇場や巡業で活躍。戦後、「永田太宏」「桜町千早」と改めた模様か。ただ、千早に至っては梅子と同一人物である、という確実な史料はない。
戦後も地道ながらも健在だったおかげか、『アサヒ芸能新聞』(1954年4月4週号)の『関東漫才切捨御免』に記録が残された。これが出演記録を除いた、ほぼ唯一の、コンビの存在を記したものであろう。
◎永田太宏・桜町千早
四尺そこそこの太宏と女としてはまず大柄の方の千早とが並んで舞台に立っただけで既におかしい。太宏の頭の薄くなったのが近ごろ一段と目につくが、往年の中川レビュー団が彼の発生だと思えばなるほど少しは薄くなっても無理からぬ話。
1955年設立の漫才研究会には参加せず、いつの間にか舞台から消える。引退したか、どっちか没した模様。