さえずり姉妹
さえずり姉妹(右から、京美智子・〆子・西美佐子)
相原ひと美・京美智子(右)
京二・笑子時代の京美佐子
人 物
人 物
西 〆子
・本 名 安藤 〆子(後に尾形〆子)
・生没年 1932年1月24日~1986年10月6日
・出身地 愛知県 名古屋市
京 美智子
・本 名 井上 巳代子(旧・松沢)
・生没年 1929年1月14日~1997年8月24日
・出身地 東京
西 美佐子
・本 名 神田 捷子
・生没年 1942年3月5日~ご健在
・出身地 秋田県
来 歴
戦後活躍した女流歌謡漫才グループ。グループ全体を「さえずり姉妹」と呼ぶのであって、メンバーの入れ替わりも当然ある。
東京の女流漫才には珍しく、音楽一辺倒の「歌謡漫談」の流れを汲む漫才で、一時は「かしまし娘」の後を追っかける程の人気があったという。そのメンバーのほとんどが、東京漫才界のサラブレッドだったのも大きな特徴であろう。
そもそもは大江笙子と別れた京美智子と松鶴家千代若・千代菊の門下生であった西美佐子のコンビから端を発する。そこに東和子・西〆子で活躍していた西〆子が参加する形でトリオを結成、「さえずり姉妹」と名付けられた。
京美智子に関しては、大江笙子・京美智子のページを、西〆子に関しては、東和子・西〆子を見てください。
西美佐子の来歴
残る西美佐子の経歴は、富澤慶秀『「東京漫才」列伝』に詳しく出ている。
Wikipediaなどでは、相原ひと美とごっちゃになっているが当然別人。後年、東京二・京太の東京二と結婚し、「東笑子」となった。こちらの方が有名であろう。
出身は秋田県。幼い頃から歌が好きで、父のバイクに連れられて近隣で行われる「のど自慢大会」に現れては鐘を乱打させる――のど自慢荒らしとして有名だったという。
そんな所から、歌手を夢見るようになり、中学三年生の時に巡業で地元にやってきた浪曲師に夢を打ち明けると、なぜか松鶴家千代若夫妻を紹介される。高校進学が決まっていたものの、千代若夫妻の招きに従って退学し、15歳で上京。
1957年、松鶴家千代若の内弟子となって、前座修業を始める。掃除洗濯家事に、師匠のカバン持ちと、師匠と行動をともにしながら、デビューする日を夢見ていた。修行の合間の週2回、歌謡学院に通うことを許され、ここで音楽のイロハを覚えた。
1960年、日比谷公会堂で行われた「全国コロムビアのど自慢大会」で2位(富澤慶秀『「東京漫才」列伝』では3位となっているが)を受賞し、プロデビューの話が来るが、その条件が千代若の勘気に触れ、断りを入れられる。
もっとも、この条件は温厚な千代若にして「よそ様の娘を人身御供にはできない」と本気で怒らせるほどだったというのだから、ひどいものだったのであろう。千代若の勧めもあって、寄席から活動するように諭され、漫才師に転向。
姉弟子の「西〆子」から「西」の名を貰い、「西美佐子」と命名され、大江笙子から独立したばかりの京美智子とコンビを結成。
1961年3月、アコーディオン(美智子)とウクレレ(美佐子)の女流漫才でデビューを飾る。京美智子の関係から落語協会に所属して、腕を磨いた。この頃、師匠の修業から年季が空けている。
1962年、他に交際相手を持っていた東京二と関係を持つようになり、失踪事件を起こす。京二はすぐにつかまり、千代若に「弟子を二号にするのか」とこってり叱られたという。
以降、交際を始めるようになり、1965年、ゴールイン。但し、正式に結婚式を挙げ、籍を挙げたのは、1968年のことである。
長らくコンビでやっていたが、1964年3月上席から、「〆和」コンビの西〆子を迎え入れて、「さえずり姉妹」を結成。
徹底的な三枚目の〆子、二枚目の美智子、二枚目半の美佐子という役回りで、人気を集め、派手に楽器を演奏する――東京版「かしまし娘」というようなスタイルで人気を集めた。後年、ウクレレからギターへ転向している。
1967年春、〆子が結婚を機にトリオを脱退。後釜として、相原ひと美が参加。この相原ひと美は、本名「相原美代子」といい、「相原義雄・早川みち子」の娘。
寄席の色物としても異彩を放った。その後、美佐子が出産や育児のために、引退。トリオは自然解散となった。
1968年頃、抜けた美佐子に代わり、京由美子なる人物が参加しているが詳細不明であるよ。
1970年3月より、「美智子・ひと美」となる。このコンビも一時期までは「さえずり姉妹」と名乗っていたようである。但し、コンビになった不自由さや諸般の理由から、「美智子・ひと美」と名前を変えた模様。
2020年秋に発売された『昭和の寄席の芸人たち』に、美智子・ひと美時代の鮮明な写真が出ている。著作権があるので引用はしない。興味ある人は買ってみてください。貴重な写真集です。
このコンビで、10年近く活躍し、堅実な寄席漫才として、寄席ファンにはおなじみの存在になったが、1980年2月にコンビ解消。美智子は引退して、柳家小さんのマネージャーに転身。
一方、ひと美はコンビ解消間もない1980年3月に東喜美江とコンビを結成。この喜美江はかつての相方の西〆子の名相方だったのはいうまでもない。引き続き音曲漫才コンビとして、1982年1月下席まで活躍。国立演芸場などに出演していたが、喜美江が再び西〆子とコンビを結成するにあたり、引退。消息不明となる。
美佐子のその後
1968年に子供を産んで間もなく、さえずり姉妹を抜けた美佐子は、以来、20年近く芸能界を離れ、育児や主婦生活を送っていた。その子供たちも手がかからなくなり、独立するようになった頃、「京二・京太」を解散。夫からコンビを組まないかと誘われる。
1986年、夫の東京二とコンビを組み、夫婦漫才「東京二・笑子」を結成。笑子がギターを抱え、京二がハーモニカと歌を披露する典型的な音曲漫才だった。
当初はしゃべくりの人気者と、歌謡漫才の意外な組み合わせとして、色々な批評がなされたというが、富澤慶秀『「東京漫才」列伝』によると、笑子は長らく「さえずり姉妹」で歌謡曲の腕があり、京二もまた三橋美智也の司会で歌を覚え、民謡を習ったほか、駆け出しのころに柳家三亀松から都々逸をいくつか教わった事もあり、ちぐはぐになることなく、すんなりと音曲漫才コンビに移行することができたという。
コンビ結成後間もなく、仲介する人があって、鈴々舎馬風の門下に入り、落語協会に移籍。同協会の色物として、着実な活躍を展開した。
1994年の秋より休席が目立つようになり、1995年の新春興行には出演したものの、一部サイトには「笑子の事故」とあるが、眉唾。確証たる資料を見つけていない。ただ、休席しているのは事実である。
また、「京二が一人で舞台に立った」というのも眉唾で、京二も休席している。司会や漫才協会の公演はどうだったか知らないが(一人でできる仕事はある為)、寄席での活躍はしていない。
1996年9月、池袋演芸場下席で久方ぶりに出演。以来、月1興行のペースで出演をつづけたほか、ラジオや講演などで活躍。
この頃から寄席を見始めた人からすれば、非常に懐かしい漫才師ではないんだろうか。後年は一種の型が定着し、笑子が京二をコテンパンにやっつける女流優位漫才を得意とした。歌に入る前に、京二が笑子を「音大出身」とほめそやすギャグがあり、
笑子「私は音大出ですよ!」
京二「音大ですよ!」
笑子「皆さんびっくりなさるんですよ」
京二「音大ってわかります? 別に音楽大学じゃないんですよ。女大根食う研究会、縮めてオンダイ」
という掛け合いを一種の持ちネタにしていた。
2003年、東京二・笑子のコンビを解散――と公式プロフィールにはあるが、2004年3月まで落語協会に「京二・笑子」として籍を置いている。2004年3月中席より、「東京二・たかし」とコンビが変わっている。
解散の理由は、事故に遭った笑子の体調不良、それとコンビ間の話し合いの末、と聞く。
2007年4月13日の『日刊ゲンダイ』の記事に、
「ウチの女房は『さえずり姉妹』って漫才出身でしょ。で、以前は女房相手に漫才してたんだけど、交通事故に遭ってケガしちゃってね。それで女房に代わり、弟子の東たかしとコンビを組み、『東京二・たかし』って名前で舞台に上がってるんです」
とある。2019年頃、東洋館に取材へ行った際、青空たのし氏や東京太氏からは「まだ生きているはずだよ」と聞いた。消息筋の話では、2023年も健在だというが。
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