高砂家とし松

高砂家とし松

 人 物

 高砂家たかさごや としまつ
 
・本 名 田村 喜七
 ・生没年 1910年代~戦後
 ・出身地 栃木県

 来 歴

 戦前活躍した漫才師。2020年に97歳で長逝した内海桂子の最初の旦那(但し婚姻届けは出さず)として知られる。

 これは全く知られていない話であるが、この人は、長らく落語協会で活躍した曲独楽の柳家小志んの義兄、柳家とし松の叔父にあたるという。「とし松」という名前は、柳家小志ん家との縁戚からもらったものだという。

 その経歴は、『落語・第27号特大号』の座談会、『内海桂子・好江にきく帝都漫才華やかな頃』に詳しい。

 桂子 前の日まではおかみさんが〆子で出ていたので、そのまま雀家〆子で出ました。とし松は、栃木の農村の出だけど、太神楽の柳家とし松さんと関係があるんです。今のとし松さんのおじいさん、柳家小志んさんのお父さんですね。高砂家とし松の妹が小志んさんと結婚したんです。そんな関係で、とし松の名をもらったんですね。

 しかし、それ以外の事はよくわからない。高砂家という屋号を見るところ、茶番師の「高砂家一門」の出身であろうか。昭和末にテレビに出て人気のあった高砂家チビ助の関係者という事になる。

 1933年頃より漫才をやり始めたと見えて、『都新聞』などに名前が出てくるようになる。最初の相方は、舞踊の地方をやっていた雀家〆子であった。

 十八番は、〆子の『夕暮』に合わせて踊る『オシの釣』だったそうで、珍妙な振り付けや見立てで人気があったという。この芸は、関西の松葉家奴さんもやっていた。

 この頃の舞台の様子が、内海桂子『転んだら起きればいいのさ』に出ているので引用しよう。

 翌日、早くも私は高砂家とし松と雀家〆子の夫婦漫才の舞台を観に、浅草の橘館(常打ち小屋) へ出かけました。トリネタはとし松のおかみさんが「夕暮れ」を弾いて歌って、とし松が「唖の釣」をやりました。その前のしゃべりは、折しも支那事変の始まったころで、蒋介石やその奥さんの宋美齢などの名前がぼんぼん出てくる戦争の話で、ニュース的な要素を盛り込んだ、当時としてはちょっと新しい漫才でした。
「蒋介石の奥さんって美人だってねぇ」
「いや、そう美人じゃないよ。だって宋美齢じゃないって言うんだろう」
 なんて調子でやっていたのです。
 その晩、とし松の自宅でネタ合わせをして、明くる日から橋館へ出演することに話がまとまっ たのでした。というのも、私がいきなり三味線を弾いて歌えば、とし松はそれに合わせてすぐ芸のできる人だったからです。前の日までおかみさんが雀家〆子で出ていたので、私はそのまま雀家〆子の芸名で出ることになりました。

 野暮を承知で書くが、「宋美齢」の下りは、「宋美齢(そうキレイ)じゃない」という地口である。

 この舞台を見た後、雀家〆子名義で初舞台を踏む。今考えるととんでもない事であるが、昔は日によって相方が違うなんてのがザラにあったため、別段おかしい事ではなかったようだ。

 若く達者な女性と組んだおかげもあってか、人気を集めるようになり、掛け持ちするようになる。この頃のことを内海桂子は、

  さて、おかみさんが相方のときは、橘館だけに出ていた高砂家とし松も、私とコンビを組むようになると、「いい相棒さんだね」と、周りからの受けもよくて、そのうち橘館とは別に万盛座にも出るようになりました。
 とし松のおかみさんは三味線は上手だし、踊りの地方としては有名な方だったのですが、いかんせん、肝心のしゃべりは相槌を打つくらいしかできなかったのです。
 そのころの漫才といえば、たいてい女性のほうが三味線などの楽器を使っていて、相方が何かひとくさり言うと、女性のほうは「ハアッ、そう、そう、そうですね」などと受けるのが普通でした。私の場合、三味線はともかくも、しゃべることにかけては、どのようにでも受けることが できたわけです。
 当時の着物を着た女芸人はたいてい日本髪を結っていました。私は娘でしたから、乙女島田 に、振り袖を着て高座に出ていましたから、自分のおかみさんとやるより新鮮味もあったのだと 思います。

 と、回顧している。以来、浅草系の劇場を中心に活躍。当時の『都新聞』などに名前が出ているのが確認できる。

 1941年11月、東宝名人会昼席「東宝笑和會」に出演。日本を揺るがす太平洋戦争が起こるほんの少し前の事であった。以下はその出演者たち。日本ニュースは、今でいうニュース番組で、戦意高揚のために、劇場内でこれを見せる事が多かったという。

11月下席
日本ニュース
〆子・とし松
征・梅笑
一江・亀造
喜美枝・英二
二三夫
奈歌蔵・笑楽
筆勇・一雄
楽三郎・直太郎
一路・突破

 しかし、この前後で、内海桂子に手を付けていたことが発覚し、桂子は妊娠。この一件で内海桂子一族と、とし松夫妻の関係が悪化し、1942年晩春、コンビを解消してしまった。

 WEBマガジン『キネヅカ』の『「100歳まであと4年。わけはないよ(笑)」 内海桂子さんインタビュー(前編)』中に、

 桂子
 とし松の奥さんがうちに乗り込んできて、「子どもまで生んで、亭主を奪った」と責められてね。うちのおふくろが「だまされたのはこっちだ。ひとまわりも年上のとし松に手をつけられ、子までつくらされた」って。
 そういうやりとりを見ていたら、なんだかバカバカしくなってコンビを解消。雀家〆子の芸名を返上しました。

『「100歳まであと4年。わけはないよ(笑)」 内海桂子さんインタビュー(前編)』

 とある。詳しい話は、内海桂子『転んだら起きればいいのさ』に出ているが、生々しいのでやめる。

 この後、内海桂子は男の子を出産。戦時中の事もあり、「勝利」と名付けた。しかし、世間を憚って、親の籍に入れて、義理の兄弟とし、後年、養子という形で、元の鞘に収まった。この子は、後年芸能マネージャーとなり、「漫才グループ21」や漫才協団の運営に関与したが、母より先にあの世へ旅立ってしまった。

 その後も漫才を続けていたらしく、帝都漫才協会名簿にその名前を確認する事が出来る。本名はここから割り出した。

 しかし、敗戦前後に廃業。その後のはっきりとした動向は判らないが、戦後しばらくも生きていたらしく、内海桂子『転んだら起きればいいのさ』に、

 あれはお盆のときでした。菊屋橋にある菩提寺へ母と一緒にお墓参りに行ったとき、とし松とばったり出会ったことがありました。こちらが何も言わない先から、
「お金、送ろうかと思っていたんだが……」
 と、とし松が言いわけをするのです。 ほかでもない勝利の養育費のことです。いっぺんもらうと、とし松が扶養していることになるので、私としては受け取るつもりもありません。母はとし松のしらじらしい態度が我慢ならなかったのでしょう。
「としさん、日本にはね、郵便局ってぇもんがあるんだよ。うちの所番地くらい、わかんないわけないだろう」
 とひと言いってそのまま別れたのでした。とし松とは本当にそれっきりになりました。その後、十数年ものちになってから、とし松が仲間の一人に五千円、預けてよこしたことがありましたが、そのまま引き取っていただきました。

 という一節がある。それ以降は完全に不明。

You cannot copy content of this page
タイトルとURLをコピーしました