青井しんご・赤井しんご

青井しんご・赤井しんご

 人 物

 青井あおい しんご
 ・本 名 須田 博
 ・生没年 1930年2月20日~没
 ・出生地 東京 新宿

 赤井あかい しんご
 ・本 名 春日 文夫
 ・生没年 1931年2月24日~2016年3月
 ・出身地 長野県 松代町

 来 歴

 青井しんご・赤井しんごは戦後活躍した漫才師。「赤い信号・青い信号」の洒落である。赤井しんごは、笹八平と改名し、「一平八平コンビ」で売れに売れた。しんごは漫談家として活躍したが、晩年は不遇だった由。

 赤井しんごは「笹八平」の経歴を参照。

 新宿第六学校卒業後の1948年4月、浪曲の初代鹿島秀月の門下に入り、5年間、浪曲師の修行を重ねる。当時は「鹿島秀司」といっていたようである。

 鹿島秀月は鼈甲斎虎丸門下の秀才で、文芸浪曲を得意とした浪曲師であった。品もあり、声もよく、出世が期待されたが夭折した。

 その後、1956年まで浪曲を続けたものの、浪曲不況の波には勝てず、コメディアンに転向。地方回りで腕を磨いた。同じような経歴に、浪曲漫才の「鹿島伸月」がいる。兄弟弟子にあたる。

 1963年4月、笑の王国で春日文夫と知り合い、赤井しんごとコンビを組んで、「Wしんご」――赤い信号・青い信号の洒落である。コンビ結成時、Wけんじに承諾を取ったとか取らなかったとか。主に浅草の松竹演芸場やテレビなどを中心に活躍。

 その特異な芸名から、警察や交通安全関係の仕事も引き受け、警察署から感謝状を贈られたこともあった。

 以来、テレビやラジオで活躍。ひと頃は相応の人気があった模様で、Wけんじや東京二・京太などとの共演や『大正テレビ寄席』への出演経験もあった。

 1967年には『ごめんな物語』というネタで、NHK漫才コンクール準優勝。翌年も出場し、『長生き物語』を披露している。コンクール出場直後にコンビを解消。

 赤井しんごは、笹八平と改名し、「笹一平・八平」で売り出した。

 青井しんごは、その後、弓晃子や数人の相方を変えて、「ディスクジャッキー」とか「浪曲コント」みたいな事をしたが、長続きはしなかった。

 1970年に漫才から一線を退き、司会や漫談への移行。ボーイズバラエティ協会に所属をして会や公演に出演する他、八王子でスナック「じゅん」を経営するなど、幅広く活動をしていた。

 1995年、津久恵朗央に赤井しんごを名乗らせ、再びWしんごを結成した――という旨が『寄席演芸年鑑2003年号』に出ているが、結果は捗々しくなかった模様か。

 晩年は芸人と並行して、東池袋で「串揚げしんご」という店を経営していたが、先行きは芳しくなく、フジテレビの『愛の貧乏脱出大作戦』(2000年8月28日放映)にも取り上げられるほどのものであった。

 その後もしばらく店に立っていたというが、未払いや本人の病気、トラブルなどが重なり、イザコザの末に廃業。

 その後は消息不明であるが、風の噂によると没したそうである。

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