中野四郎・神田一郎

中野四郎・神田一郎

たのし氏から直接いただいた写真
中野四郎・神田一郎時代のモノ(たのし氏は左)

 人 物

 中野なかの 四郎しろう
 ・本 名 北川 要
 ・生没年 1931年10月30日~2021年8月24日
 ・出身地 東京 浅草

 神田かんだ 一郎いちろう
 ・本 名 古賀 荘三郎
 ・生没年 1923年8月~没?
 ・出身地 朝鮮

 来 歴

 青空たのし氏が亡くなった。享年89歳。お年の上とはいいながら、今年だけで遠藤佳三氏、澤田隆治氏、そして青空たのし氏とお世話になった人が立て続けに亡くなった事もあってか、流石にがっくりと来ている。

 氏にあったのは、2018年の夏。知り合いの笑組・ゆたか氏の紹介で東洋館の楽屋であれこれとインタビューをした。昨日の話のようであるが、もう3年以上経つ。

 その後も3~4回ほど浅草で会った。東洋館の前で待ち合わせ、師匠の出番が終わるとともに近くの喫茶店で話を聞くことが多かった。

 色々面白い話を聞いたが、元相方の中野四郎の事を聞いておいてよかった――と今思う。

 また、色々写真を写させてもらったり、余った資料を頂戴したりした。貴重なコレクションとして今も資料ファイルに収まっている。

 2019年新年に丁重な賀正メールが来て、その年の4月上席に会う約束をつけていたが、3月下旬に体調を崩し、それっきりになってしまった。

 その後の2年半は、療養生活を送っていたというが、療養中にあれこれ押し掛けるのも迷惑だろうと案じて、少しばかり距離を置いていた。そしてコロナ、緊急事態宣言――管理人も諸々の事情ありて田舎に帰り、取材とも疎遠になってしまっている。

 数年のお付き合いであったが、短くも濃い付き合いであった――そんな追悼の意を込めて、「うれし・たのし」以前の活動――「中野四郎・神田一郎」時代の活躍を中心に記す事にする。

 たのしこと、神田一郎は、東京市芝で写真製版業を営む北川正太郎、静子の息子として生まれる。

 父親は写真製版のやり手だったそうで、戦前、芝に三階建のビルを所有、従業員も雇って使う実業家として、羽振りがよかったという。

 日中関係の悪化に伴い、戦争が勃発。適齢期の正太郎も召集され、1938年に出征。

 戦地を転々とし、息子の成長を目の当たりにできないまま、1943年11月、ギルバート諸島・マキンタラワの戦いで玉砕。そのせいか「父の姿や記憶ってのは本当におぼろげなんですよ」といつも仰っておられた。

 大黒柱を失った要青年は、叔父の世話になって、小学3年生まで麻布笄小学校、更に高砂小学校、向島請地小学校と転々としながら、幼年時代を過ごした。周りが助けてくれたというが、父なき子ゆえ、苦労が多かったという。

 太平洋戦争下で高等小学校に進学するが、半年ほどで校舎が空襲で全焼。さらに、敗戦も迎える事になり、学業どころではなくなった。母や家族を養うために、敗戦下の混乱の中、買い出しや肉体労働に従事して、一生懸命生き延びた。

 そんな日々を過ごす中で、ラジオや映画に触れた。特に戦後直後に颯爽と現れた岡晴夫に強いあこがれを抱き、歌手を志すようになる。この頃、塗装屋に就職し、サラリーマンとしても働くようになる。

 ペンキまみれの生活の中で、ふと「旅まわりの芸人になれば食いっぱぐれはないのではないか」と考え、芸能界入りを志した――という。

 1949年、「双葉大バラエティー団」という一座のオーディションを受け、合格。同年9月7日、「北條要」の名前で初舞台を踏む。

 以来、塗装屋で働きながら、舞台に立つようになる。その頃、同一座でバンドマスターをやっていたのが、中野四郎であった。

 然し、一座は3ヶ月足らずで自然分裂し、解散。

「(一座の座員が)60人が30人になって、30が15人になって、最後は15人が8人になってしまいました。でも、その中でも最後まで首を切られなかったのが、自信を持つキッカケとなったのかもしれません」。

 1950年頃、スミダ劇場の研究生として、更に加賀のぼる劇団、村田正雄と日劇ダンサーの合同一座などに在籍。

 1951年頃、泉イサオとコンビを組んで、漫才に転向。この頃から司会として歌謡曲の一座にも出入りするようになる。

 生前のたのし氏から聞いた話では、

「本名は松木、歳は僕(1931年生まれ)と大体同じか、一つ上だった気がします。元々は新宿の繁華街で呼び込みをやっていたそうです。元々トップライトの弟子だったそうですが、すぐ破門になった。青空一門でも何でもないんですが、僕に会った時には平然と『トップライト門下だ』って言ってましたよ。そのくせ、会わせてくれ、っていうと有耶無耶と逃げたんですが(笑)」。

 ただ、長くは続かず半年で別れた。

本人から伺った話では「コンビ別れして間もなく、自堕落な生活の末に事故で死んだそうです」。富澤慶秀『「東京漫才」列伝』によると、

イサオは、釧路から連れて来た女性と同棲したがうまくいかず、妹を引き取りに釧路からくる兄を女性は羽田に迎えにいった。後ろめたさのあったイサオは、留守中に狂言で睡眠薬を飲んだ。午後4時ごろ2人は帰ってくるだろうから、びっくりして病院に連れて行ってくれるという読み。しかし、久しぶりの兄妹は途中で食事して帰りが深夜11時となり、手当の遅れた相棒、イサオは手遅れになった。

 1954年頃、楠木繁夫・三原じゅん子の一座で谷俊二と出会い、コンビを結成。

 この前後で青空東児とコンビを組む話も来たというが、結局コンビ結成には至らなかった。

 当人から伺った話では、「僕に西児を名乗らせてコンビ活動を続けようとしたそうですが、この西児って名前はどうも短命で縁起が悪いんですね。事実、二代目だったかも早く亡くなったそうですし。そんな事から話はご破算になりました」。

 この谷俊二と司会漫才をして渡り歩いたというが、この谷という男は、随分と悪い男だったそうで、「あまりいい人ではなかったですね。ピンハネとか暴力的な所もありましたし」と、あまり語ってはくれなかった。

 1955年、岡晴夫一座から司会の話を持ちかけられ、一座に参加。同一座に在籍していた春うれしと暫定的にコンビを組み、「神田一郎・青山二郎」と改名。

 変な話であるが、武田要のたのしは「三代目」であるにもかかわらず、実際は「うれしたのし」が出来上がる前から活躍していたという変則的な形になっている。これは両人から聞いて確認を取ったので間違いないだろう。

 本人曰く、「この名前は漫才的な名前を嫌った岡さんがつけたものです。『そんな漫才臭いのは良くない。スマートに神田と青山にしろ』とかなんとか。僕が年上だから神田一郎と名付けられました。岡さんの一座では1日1000円ももらえました。これは当時としては高給取りですよ」

 間もなく、春うれしが一座を抜け、一郎・二郎コンビは解消。その後は岡晴夫の一座の司会として腕を磨く。

 曰く、「1958年頃、岡さんと春日八郎さんは二枚看板で、御園座のフィナーレに出演した事があるのですが、その時に、あしたひろしさん(当時、北ひろし)と臨時コンビを組んで、岡晴夫の司会をやった事もあります。相方の順子さんも一緒にいて、コントとか通行人の役に出ていましたよ」。

 1958年、かつて「双葉大バラエティー団」に在籍していた古賀荘三郎を誘って、漫才コンビを結成。岡晴夫の命名で「神田一郎・中野四郎」と改名。「中野区の中野ですよ」。

 中野四郎の経歴はたのし氏からあれこれ伺った。それが大変参考になった。

 実家は朝鮮で鉱山技師をやっていた、と真山恵介『寄席がき話』にあるが、青空たのし氏によると、「九州の人だと本人は言っておりましたが」。本籍地の関係かもしれない。

 本土へ戻り、日本大学商経部に入学。この頃、出陣したそうであるが、詳細は不明。

 戦後、日本にもたらされたハワイアン音楽に感化され、ハワイアンバンドを結成。更にヤングフェロー楽団なども結成して、一端の音楽家を気取るようになった。

 1949年頃、「双葉大バラエティー団」に入団し、バンドマスターとして活動した。この一座で後年の相方となるたのしと出会っている――とは先述の通り。

 劇団解散後、志をお笑いへと転換したと見えて、芸名を「瓶九郎」(瓶クロ―)と改名。アメリカのコメディアン、「ビング・クロスビー」からヒントを得て、この芸名をつけたという。

 1950年頃、空みたか(スチールギター)、地下鉄男(アコーディオン)、登志乃ハジメ(バンジョー)を誘い、「ハッピーブラザーズ」を結成。

 余談であるが、地下鉄男(本名・馬場)は、宮田章司を漫才に誘った張本人である。

 間もなくハジメと地下鉄男が脱退し、海ひろしが代わって参加する。三人体制となり、「ハッピーボーイズ」と改名した。

 所謂、歌謡漫談の一組として活躍し、川田晴久が計画していたボーイズ研究会に参加。

 その頃の仲間に條アキラ、若葉茂、高山登などがいる。後年、海ひろしが抜け、山のぼるが加入している。

 1958年、双葉大バラエティー団時代に知り合った北川要(当時、神田一郎)に誘われて、漫才に転向。そのおかげで、「ハッピーボーイズ」は解散してしまった。

 司会漫才を中心に、栗友亭などにも出演、真山恵介『寄席がき話』にも紹介されたが、「しゃべりが重くてどうもうまく行かなかったので」という理由で、1960年半ばにコンビ解消。

 「音楽畑の人なので、漫才の会話でどうしてもうまくいかない所がありました」みたいな批評を伺った事がある。

神田一郎と別れた後は、古巣の司会業に戻り、松山恵子の専属司会として活躍を続けていたそうで、「そこで音羽アキラさんとかとコンビを組んでやっていましたよ」。

 後年、司会を辞めて、芸能界から一線を退き、刃物の老舗である日本橋「木屋」の宣伝マンに転職。全国の百貨店や会社などを巡っていたそうで、一度元相方のたのしと出会ったことがある。

 曰く、「一回、百貨店で実演販売をやっている彼を見かけたことがありますよ。昔のよしみで鋏を買った思い出があります」。

 晩年の足取りは不明。市井の人として平穏な余生を過ごした模様か――

 一方、一郎は、岡晴夫一座で一緒だった青空うれしとコンビを再結成し、「三代目青空たのし」と改名。一度、うれしと組んでいたにも関わらず、相方としては三代目という不思議な現象が生まれた。

 この時、コロムビアトップ・ライトの門下として正式に加入し、青空一門の一人として名を刻んだ。1960年6月、「青空うれし・たのし」として再スタートを切る。

 以来、20年近くに渡って東京漫才の花形として売り出す事になった。

 多くの演芸番組やテレビに出演、大御所歌手やタレントと共演した――が司会中心のたのしとタレント路線のうれしとの間に、後すれ違いが多くなり、1981年、コンビ解消。

 この解散に関しては両者の意見を聞いているが――書けないです。申し訳ない。

 うれしと別れた後は、漫才から一線を退き、古巣の司会に戻った。ただし、師匠トップのよしみもあってか、漫才協団に残り、協団幹部として運営や司会などを続ける事になった。

 1983年4月より、ラジオ番組「今日は青空たのしです」の担当を始める。1984年には、「青空田の志」と改名。2002年までこの名前で活躍を続けていた。

 改名の理由については「うれし・たのしの片割れって目されるのが嫌だ、自分は司会としても立派に稼いでいかなきゃいけないという志がありまして、当時司会をやって居た竜鉄也さんなんかと名前を決めました。お陰で司会の方は順調になったのですが、後年、自分の芸名が他人の空似ではないか、という勘違いが随分起こるようになりまして、また青空たのしに戻しました」。

 また、司会業の傍らで「ハーモニカ漫談」をはじめ、自家薬籠中の物にする。

 ハーモニカ漫談に挑戦したキッカケは――

「浜名湖に旅行した際、近くのパーキングエリアで懐メロをハーモニカで吹いている人がいたんですね。ああいいな、と思っていたら、ハーモニカの出店があって、そこの店員さんに『3本で一万円』というのを勧められて買いました。その後、知り合いの子供さんの七五三祝いに呼ばれたのですが、その席で童謡や唱歌を吹いて喜ばせてあげようとしてやり始めたのが、キッカケです」

 と、本人より伺った。

 80過ぎても、矍鑠と寄席にラジオに演芸番組と活躍。ハーモニカ演奏を生かしてCDを出すほどであった。

 2021年8月24日死去。享年89歳。訃報は漫才協会のホームページに掲載された。

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