浪速マンマル・シカク
シカク(右)・マンマル(左)
人 物
人 物
浪速 マンマル
・本 名 泉 徳右衛門
・生没年 1898年~1960年代以降?
・出身地 兵庫県 神戸市
浪速 シカク
・本 名 喜久住 忠次郎
・生没年 1880年代?~戦後
・出身地 大阪府
来 歴
戦前の人気漫才の一組で、その活躍ぶりは千太・万吉、ヤジローキタハチ等に迫るものがあった、という。波多野栄一の自伝『僕の人生百面相』によると、
リーガル千太・万吉 内海突破・並木一路 東ヤジロー・キタハチ 浪花マンマル・シカク(栄一はマンマル・栄一にしているが)
の四組が、「東京漫才の四天王」だったそうである。
しかし、その人気の割には、余り情報は多くなく、シカクは本名、生没年共に不詳。マンマルの生年は、波多野栄一によると、自分より二つ上(栄一は1900年生まれ)だったという。
漫才以前
それでも新聞や雑誌に逸文は残されているので、それを基につらつらと書いていくことにしよう。
二人の経歴に関して、数少ない手がかりとなるのが「都新聞」(1935年8月10、11日号)に掲載された「漫才銘々傳」である。小さな連載記事ながら、当時の漫才師の経歴が面白おかしく扱われており、シカク・マンマル以外にも、千代田松緑・都路繁子、前田勝之助・隆の家百々龍などの面々が揃っている。
まずは、マンマルについてである。『浪花シカクと同マンマル(上)』の一節。
マンマルといふのはマルマルと肥つてゐるから、シカクといふのは何となく角張つた顔をしてゐるから、といふ事になると、この藝名の由来至極簡単といふ次第だが、藝名は簡単でも、そのうちの一人の経歴といふのが中々簡単ではない、マンマルがそれで、彼氏ソウトウの學校を出てゐる西のヱンタツが、その籍を置いた関西大學の名を出す事を嫌がつたやうに、マンマルも「それだけはなるべく」と澁ったが勘弁してもらつてブチまけると神戸高商の出身だ、そして卒業してから外人の経営してゐた貿易商會に、二年間もスマートな社員生活をやってゐる、彼が舞臺で、見物と共に、相手のシカクまでを煙に捲いてゐる、あの早口のイングリッシュは、この時代の所産だ
さて転向の第一段階は喜劇俳優でその一座は田宮貞楽、こゝで松尾眞楽と名乗つてズツとゐた、漫才屋に転向したのは去年だが、當時の相手役は今のシカクではない、ところが簡単に考へて転向した漫才だったが、さて舞臺に立つて見ると、思つたやうに行かず、最初はあの大きな圖體に「引ッ込め」「引ッ込め」を盛んに喰つたものだった、それがこの春からシカクと組むに至つて俄然受けるやうになつたのだが、そのシカクだつて、他の世界での経験は豊でも、漫才の方は開業したばかりなのだから、舞臺で受ける事とは全く判らないものだ
当時としてはエリートのマンマル。これだけでも変わっているが、相棒のシカクはもっと変わっている。翌日に出された続き『浪花シカクと同マンマル(下)』に詳細が記されている。
漫才の前身に喜劇俳優は多いがありさうで餘り無いのが幇間だ ところがシカクは前に喜劇俳優でもあり、幇間稼業の經驗も豊に持つてゐる、それから興行屋も、その他いろんな事をやつた、振出しは京都の呉服問屋の店員、こゝで何年か勤めた二十一の年に曾我廼家喜劇を見て忽ち心を動かされ、トタンに轉向を決意して、店を飛び出したが、飛び出す方は簡単に飛び出し得ても、入る方は簡単に入れず、やつと念願叶つて曾我廼家満蝶を名乗るやうになるまで、うどん屋の出前持ちをやつたり、相當辛酸をナメたものだとある、最初は五郎、十郎がやつてゐた蝶鳥會といふのに入つて稼いでゐたが、そのうち呉の平ち虎、十次郎、一二三の一座に元の満蝶で入つた、併し何時までこんな事をしてゐても仕様がないと一年餘りで飛び出して、自分でまた興行をやつて見たが、する事爲す事失敗ばかりで又も苦労のし續けだつた、かうして思い切つて漫才屋になつたのが、やつと今年の春の事で松竹座が初の檜舞臺であり、且出世舞臺だつた、相棒のマンマルは以前からやつてゐた、最初はさらに受けなかつたのが、この漫才に掛けては全くの素人のシカクと結んでから、トタンに賣出した、となると、漫才とそのコンビの關係には凡そ不思議なものがあるといふ事にもならうか
と、まあこんな具合であるから世の中は判らないものである。
東京漫才の人気者
上記にも記したように1935年2月、マンマル・シカクのコンビを結成。松竹系の芸能社である静家興行社の専属となった。
シカクマンマルの名前の通り、凸凹コンビの見た目と、時事ネタと大阪弁を駆使した知的な漫才を得意とし、浅草の舞台を中心に活躍。色川武大は『寄席放浪記』の矢野誠一との対談で、
色川 戦争中に、シカク・マンマルという漫才がいましてね。
矢野 名前からしても、あまり売れそうもない。
色川 いや、これは売れてた。ニュース漫才で、大阪のラッキー・セブン、東京のシカク・マンマルという感じで売れてたんです。
と、吉本でも売れっ子であった、ラッキー・セブンと並べている。
1935年8月26日、JOAKから「朗らかな僕」を放送。 結成から半年でこの活躍である。
1936年1月18日、JOAKから「ボクサー採用」を放送。
1936年5月から1ヶ月間、軍事慰問のため、満州へ出発。その旅模様は『都新聞』(1936年7月13日号)にまとまられた。
1936年12月10日、JOAKから「武士の息子」を放送。
1937年秋から冬にかけて、従軍慰問へでかけている。
1938年3月1日、JOAKで掛合漫才「お利口なお子さん」。
コンビ解消と変遷
この直後、諸事情からコンビを解消。
シカクは「浪速サンカク」とコンビを組んで、「サンカク・シカク」。次いで、妻の喜久住静子とコンビを組んで、「浪速シカク・シヅコ」を結成。1940年頃、再びマンマルとコンビを復活――そうかと思うと、再び「シカク・シヅコ」に戻るという変則的なコンビ替えを繰り返した。
一方、マンマルは、諸事情あってコンビを解消していた宮島一歩を誘い、「マンマル・マンルイ」を結成。このコンビで、浅草の劇場や慰問等に出ている様子を散見する事が出来る。
1938年11月16日、浪速マンマル・マンルイは、浜松放送局開局五周年記念特集に出演。演題は、「戦はこれからだ」。
1939年頃、暫定的に「シカク・マンマル」コンビを復活させている。理由は知らんよ。
1940年6月9日、マンマル・シカクコンビでJOAK「僕は軍人」を放送。
1941年頃、再びコンビを解消し、マンマルは、浪速シゲオ(本名・浅野精一)なる人物とコンビを結成。このコンビで、東宝笑和會などに出ている。
1943年、帝都漫才協会再発足に伴い、入会。両人とも別コンビ扱いで記載されており、シカクはシヅコと、マンマルは、シゲオとコンビを組んでいることになっている。なお、シカクは幹事として就任している。
1944年頃、マンマルは、波多野栄一とコンビを結成。東宝名人会を中心に出演した。
敗戦前後に、マンマルは、波多野栄一にコンビ解消を申し出、解散。
二人の戦後
マンマルは大倉寿賀若とのコンビを経て、喜劇の曾我廼家十吾一座に入り、喜劇役者として活動するようになる。数年喜劇畑にいた後、再び上京し、漫才に復帰。
1948年、当時学生漫才で売っていた国友昭二とコンビ結成。本格的な立体漫才を展開し、放送や『講談倶楽部』の速記などで活躍した。
1949年、国友が南道郎とコンビを組むにあたり、円満解散。
その後は山路ミツルなる人物とコンビを結成。1951年11月20日、NHK第2「お笑い競演会」に出演している。
同日の読売新聞に、
①漫才「すてきな話」山路ミツル、浪速マンマルーすばらしいお嬢様に見染められたマンマルが養子に行く事になったという落語「浮世床」にそっくりなお笑い
一方のシカクは、謎が多く残る。戦後に追える消息を挙げると、『読売新聞夕刊』(1956年8月16日号)に掲載された、
納涼爆笑漫才大会
十八日=田園コロシアム
おもな出演者=リーガル千太、万吉、宮田洋々、不二幸江、宮島一歩、三国道雄、東和子、西〆子、浅田家章吾、小山幸枝、橘エンジロ、美智子、浪速シカク、マンマル、条アキラ、あさ子、太刀村一雄、筆勇、浪曲模写 前田勝之助
と、いう広告の一文や、『東京新聞』(1957年1月18日号)に、「漫才『とんだロマンス』(立川太郎作)シカク・マンマル」がある。この頃まで健在だった模様とみるべきだろうか。
但し、マンマルが他人と組んで勝手に「シカク」を名乗らせていた、という可能性も否定できない。これ以降、シカクは消息不明となる。
一方のマンマルは、漫才を続投。また、「浪花家マンマル」名義で、腹話術などもやっていたという。
1955年の数か月間、桜川ぴん助とコンビを組んだ事もあり、『読売新聞夕刊』(1962年10月13日号)掲載の『コンビで行こう』の中に
「このぴん助がたった一度だけ他人とコンビを組んだ。数年前”カービン銃ギャング”事件をテーマにした台本をつくったとき。どうしても女じゃぐあいが悪いので、四角・マンマルのコンビからマンマルを選んで放送した。すると、さっそくNHKから「コンビを解消したのか」と電話があり、改めて”コンビ”の重要さを痛感したぴん助である。」
とあるのが確認できる。
その後、またシカク・マンマルコンビを復活させたらしく、1956年10月18・19日の「酒販組合組合員慰安大会」に出演。『東京小売酒販組合四〇年史』の中に――
一、開会の挨拶
一、理事長挨拶
一、素人のど自慢 司会 浪速マンマル・シカク
二、漫才 浪速シカク・浪速マンマル
三、曲芸 KPTNHKスターキャンデーボーイズ
四、音曲万才 東喜美江・都上英二
五、民謡と歌謡曲 コロンビヤ照香一行 三味線 豊照 佐和潤一とアンサンブル
六、落語 柳家小さん
七、歌謡漫談 東京ポンチトリオ
八、閉会
と、コンビ復活している様子が確認できる。
1950年代後半まで東京で活動していたが、再び大阪へ戻り、喜劇の曾我廼家十吾一座に復帰。
1960年時点ではまだ現役で、『産経新聞夕刊』(1960年7月23日号掲載の『漫才ばなし』の中に「シカク=マンマルでおなじみだった浪花マンマルは、いま十吾劇団で活躍中。」という一文を発見することができる。
しばらく喜劇役者として活躍していたようであるが、間もなく消息が途絶える。
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