笹一平・八平

笹一平・八平

笹一平・八平(左)

 人 物

 ささ 一平いっぺい

 ・本 名 関山 年一
 ・生没年 1934年~1980年代
 ・出身地 秋田県 秋田市

 ささ 八平やっぺい

 ・本 名 春日 文夫
 ・生没年 1931年2月24日~2016年3月
 ・出身地 長野県 松代町

 来 歴

 戦後活躍した漫才師。軽妙で独特な話術が売りだったというが、一平の夭折で早くに別れた。

 八平は、「春日文夫」「夏川洌(じゅん)」の両名があり、判別に困るが、御遺族によると本名は「春日文夫」だったという。は夏川芸名だった模様か。その前歴は『漫才』(№16)に掲載されたプロフィールに詳しい。

「ずい分飲めそうな名前だナー」と誰かが云った、成程(さァさ一ペェ)(サァさやっペェ)と呼べば本当に飲めそうな芸名
ところが二人ともこれとは裏腹……
 酒がなくてなんの己れが浮世かな……と意気がるどころか、芸なくてなんの己れが漫才かナー……と至極マジメな勤勉家。その甲変あって今年のNHKコンクールでは初出場で二位の銀的を射止めたコンビ……笹八平は昨年まで活躍したWシンゴの一人で赤井シンゴ だから漫才の経騒は深い。笹一平は漫才は新しいが喜劇映画の巨匠、斉藤寅次郎監督の愛弟子で助監督からコメディ畠に飛び込みその芸歴は古い。今後は「おかしな二人」(パラマウント映画)を演じたウォルクーマリノと、ジャック・レモンのようなニジミ出す笑いの要素を研究したいと飲めそで飲めない「 おかしな二人」は語っている。

 また、芸能界入り当初は歌手をやっていたそうで、『読売新聞』(1969年8月21日号)に、

一方、八平は本名夏川洌(じゅん)。昭和六年、長野県松代町生まれ。二十三年に春日文夫という芸名でマーキュリーレコードから歌手としてデビューしたが、レコード三、四枚で方向転換をし、「ダブルしんご」というコンビで旅まわりのコメディアンをやっていた。

 とあるのが確認できる。司会に転身し、3年ばかり地方を回っていたが、間もなくボーイズ、更にコメディアンに転向。

 1963年、松竹文化演芸場の「笑の王国」で知り合った青井しんごとコンビを組み、「Wしんご」を結成。師匠なしで漫才界に飛び込んだ。ただしWけんじ一門と記されることもある。これは青井しんごの説明も含め、別項を立てます。

 1966年、第14回NHK漫才コンクールに出場。この時は、入賞せずに終わった。

 翌年の1967年、第15回コンクールを『ごめんな物語』で準優勝しているが、この後間もなくコンビ解消。

 1968年6月、コメディアンの佐々木一平と出逢い、コンビ結成。「笹八平」と改名する。

 相方の一平もまた、様々な職種を渡り歩いてきた苦労人で、その詳しい前歴は『漫才』(№16)にある。

笹一平は漫才は新しいが喜劇映画の巨匠、斉藤寅次郎監督の愛弟子で助監督からコメディ畠に飛び込みその芸歴は古い。今後は「おかしな二人」(パラマウント映画)を演じたウォルクーマリノと、ジャック・レモンのようなニジミ出す笑いの要素を研究したいと飲めそで飲めない「おかしな二人」は語っている。

 斎藤寅次郎監督門下、というのがどことなく異色である。また、『読売新聞』(1969年8月21日号)の番組表の紹介に、

ボードビルの脚本書きや演出経験者の一平は、昭和九年秋田市生まれ、本名関山年一。十六歳で木下サーカスのピエロになったのがボードビル界入りで、その後自分で劇団「鷹」を結成するなど多彩な才能の持ち主。

 その後、佐々木一平の名前で、浅草の劇場やドサ周りの劇団を転々としていたそうであるが、コンビ別れした赤井しんごと出会い、1968年6月、コンビを結成。「酒を一杯やっぺ」という洒落から、「一平・八平」と名乗った。

 熟練同士のコンビとだけあってか、デビュー当初から注目株だったようで、『読売新聞』(同上)の番組表にも、

「ササ(酒)いっぺい(一杯)やっぺい」――。ふざけた名前だが、コント55号のあとを追って、コメディー界成長株として伸びてきたのが笹一平八平コンビ。日本テレビ系の「11PM」、TBSテレビ系「ベルトクイズQ&Q」にレギュラー出演、無声映画のような大きなアクションで笑わせている。とりわけ野球が好きな両人なので、野球をとり入れたスマートなコントが得意。
コンビを組んだのは昨年六月で、ことし二月にはNHKの漫才コンクール二位に入賞したのが芽を出すきっかけとなった。
漫才コンクール入賞作「私は詩人」はじめ「僕の嫁さん」「面接試験」「消防訓練」などレパートリーの多くが一平の自作であることも強み。

 と、高く評価されている。八平のキレのある所作やボケも定評があったが、中でも一平の「吃り」のマネは真に迫る至芸だったそうで、口を巧みに動かし、吃るその姿は爆笑必須のかくし芸であったそうな。

 然しながら、テレビやラジオでは規制がうるさく、その至芸を中々発揮する事はできなかった。そういう点でも損をしていた所があったようである。

 結成後まもなく、『漫才グループ21』に入会、東京二・京太、あした順子・ひろし、東京大坊・小坊、松鶴家千とせ・宮田羊かん、大空みつる・ひろし、青空はるお・あきお、青空月夫・星夫、羽沢かんじ・志摩かほる、ミスター高峰(高峰青天)・ミス高峰――合計10組の漫才師達と共に鎬を削りあった。

 1969年2月に行われた第17回NHK漫才コンクールに出場し、『わたしは詩人』で準優勝を射止めている。とにかくコメディアン時代の味を生かした、独特の間のある漫才だったという。

 以来、中堅として浅草の劇場やメディアで活躍。軽妙な身の動きを披露するコントなどは、中々人気があったという。また歌謡曲『銀座は恋に泣くところ』を発表するなど、器用な所も見せた。

 八平は陽気な性格で面倒見が良かったそうで、世話になった漫才師も結構いるという。

 一方の一平は正義感が強く、1973年には「痴漢に襲われていた女性を助け出した上に、痴漢を撃退し逮捕に貢献した」ことが評価され、警視庁から銀メダルと表彰状が授与された旨が、『週刊平凡』(1973年7月26日号)に掲載されている。そのくせ、堅実な所もあったそうで、『漫才グループ21』(No.1)によると、副業としてバーも営んで、生活費をコツコツ稼いでいたそうだ。

 長らく漫才協団に籍を置き、漫才大会などにも率先して出ていたが、1970年代後半より笹一平が患うようになり、活動休止になる。

 1982年頃、コンビを解消。名簿から名前が消える。一平はまもなく死に、八平は協会を離脱したため、動向はよく判らない。

 長い放浪の後、2001年、八平は20年ぶりに、漫才協団に復帰、真木淳と「八平・淳」を結成。コント風の漫才を続けていた。面倒見の良い性格だったそうで、楽屋にしょっちゅうバナナを差し入れしていた――と関係者の証言。若き日のナイツにバナナや食事をおごるなど、若手からは慕われたという。

 2012年頃まで活動していたが、いつの間にかコンビも自然消滅し、漫才協会も離脱。2014年、インターネット番組『明朗とK子のトークスペース』に請われて出演。健在をアピールしたが、その後間もなくして没したという。

没年及び経歴は、ご遺族の証言で明らかになった。ご協力ありがとうございます。

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