林家染団治・高野美貴子

林家染団治・高野美貴子

左・高野美貴子 右・林家染団治

 人 物

 林家はやしや 染團治そめだんじ
 ・本 名 辻 卯三郎
 ・生没年 1894年9月18日~1969年以後、1981年以前
 ・出生地 大阪府

 高山たかやま 美貴子みきこ
 ・本 名 高山 三喜子
 ・生没年 1910年代?~1958年以降
 ・出生地 
東京?

 来 歴

 林家染団治については、林家染団治のページを参照。

 高野美貴子は、戦前戦後、林家染團治の相方として活躍を続けた女性漫才師。林家染次・染子の染子の実の妹であったという。

 長らく素性不明であったが、その血縁関係や経歴が『都新聞』(1941年4月18日号)の記事『ゴリラの感傷』にその経歴が出ていた。

 1941年、染団治は小川雅子の結婚に伴い、寿解散。『ゴリラの感傷』によると、

ゴリラの感傷 ナンセンスの世界に佳話あり

 帝都漫才協會々長で藝能文化連盟の理事、なんてイカめしい肩書よりも、ゴリラの綽名の方が手ッ取り早い林家染團治と、その相手小川雅子とのコンビも古いものだが今度この夫婦仲がスッパリ解消され
 染團治は新らしい相手を得て、再出發を期す事になつた、實は雅子がお嫁に行つたからである

 といふとオヤと思ふ世間もあらうこれは無理もない話で、由来漫才のコンビは、男同士または女同士でも夫婦といふが 
 これが男と女の場合だの、兎角舞台外でも、つまり実際の上でも夫婦と思はれ勝ちだが、中には勿論さうでないのもある譯で染團治、雅子のコンビも其一つ

 ところがこの舞台夫婦は、そのコンビ年数が餘りに長きに亘つてゐる上に、染團治の本當のお内儀さんといふのが、全然家庭的で、劇場などには顔を出さない人なのでこの漫才夫婦は関係幕内でも、つひに、実際の夫婦だと思はれた事もあつた位なのが
 今度さうでなかつた事が、雅子の嫁入りによつて、つまり身を以て立証された事になる譯で、それはそれとして、この道には漫才の舞台とはまた違つた人情噺があるのである

 抑々この二人が結ばれたのは、今は昔無聲映画華やかなりし時代でその頃二十歳になつたかならない若さの雅子は、浅草三友館のスクリーン横の辯士の蔭で三味線を弾いてゐたが、當時の評判映画「祇園小唄」についての弾き語りに惚たのが即ち染團治で
早速彼女及びその母親を口説き落した結果、こゝにはじめて染團治、雅子の漫才コンビが生れたのであつた

 以来実に十三年、漫才林家會の総帥でもある染團治は、前述の肩書がつく存在とまでなつたが、一方相手の雅子は、その母と共に、たとへ職場は漫才の舞台でも、身を固める相手は是非堅気であつて欲しいと念じて居り
さればこの春母が死ぬ時も、この事を、呉々も染團治に頼んで逝つたのであつた

 そこへ前後して持上つたのが今度纏まつた縁談で、相手といふのは淀橋大久保邉にある某といふ科学研究所に勤める文字通りの堅気人で、話はトントン拍子に進み、染團治が月下氷人といふ事になつて
 佛の四十九日も済んだ、去る十一日の吉日を卜して目出度く挙式、雅子はナンセンスの舞台から一転して家庭人となつたのである

 と話もこれまでは染團治も雅子の母親からの依頼で目出度く果した譯で結構な次第だが、問題は取り残された彼のこれからの舞台で実はこの件に就ては、雅子夫妻の方からも都合によつては、今後暫らくの間は舞台へ出してもいゝ出てもいゝといふ事だつたが、そんな事をさせては雅子の亡き母へも気が済まないとアツサリ断つてしまつた

 その後釜として迎え入れられたのは、高山美貴子であった。姉の関係から弟子になったのだろうか。

 以下は記事の引用。

 そして早速に見つけたのが、今度から浅草花月に出る事となつた高山美貴子といふ女で、これは彼の一門の林家染子の妹、年齢も若いし綺麗でもあるが、今までは踊の方ばかりやつてゐたので、漫才の方はほとんど素人、それだけにこれから仕込んで行く彼の気骨も大抵ではない譯で
あれやこれやを思ひ合して、この頃の染團治、漫才といふよのは、舞台も実際も夫婦ではないといつか一度はこんな憂目を見る事もあるもんかいなと、あの顔をユガめながら、ホロ苦い気持でゐるといふ

 元々は、娘舞踊家だった模様か。

 因みに、高山美貴子の本名は「高山美喜子」。当時としては珍しい本名とほぼ同じ芸名である。

 戦時中は帝都漫才協会に所属。「第12部乙」に籍を置いている。住所は「江戸川区小石川」と、浅草住まいの芸人が多い中では異色の小石川である。

 敗戦前後、一度コンビを解消したことがあったが、すぐさま復帰。

 戦後も染團治について、浅草や寄席を中心に、舞台へ出演。染團治のゴリラに合わせて、三味線や唄を唄う後見的な存在であった。

 1955年、漫才研究会設立に伴い入会。染團治は副会長に就任。便宜上か判らないが、副会長「染團治・高山美貴子」となっている。

 暫く活躍している様子が確認できるが、1958年頃にコンビを解消した模様。染團治は、春の家銀波とコンビを組む事となる。

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