大江笙子・大江しげる

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大江笙子・大江しげる

大江夫妻
(別々の写真を合成したものです)

 人 物

大江おおえ 笙子しょうこ

 ・本 名 松沢 はつ子
 ・生没年 1909年11月28日~1980年代?
 ・出身地 東京

大江おおえ しげる

 ・本 名 松沢 茂
 ・生没年 1912年11月9日~1990年代?
 ・出身地 佐賀県

 来 歴

  一対の夫婦であるが、夫婦漫才をやっていた経歴よりも他人コンビの方が長いという、変則的なコンビである。特に大江笙子は妹の京美智子やリーガル千太とのコンビの方が有名であった。

 コンビでもないのに、こんなことを書くのはおかしい話であるが、先日亡くなられた三遊亭小円朝氏への追悼を込めて、この項目を記す。なお、変換の関係で、本稿ではすべて大江茂と記す。

 二人の馴れ初め

 笙子は杵屋鉄吉の下で長唄を習い、鉄二と名乗っていたという。1924年頃、曾我廼家五一郎の門下に入ったのを皮切りに芸界を転々としたが、後年、漫才師の砂川捨夫(後に大江茂)と出会う。

 真山恵介『寄席がき話』にも略歴が掲載されているので引用しよう。

京美智子とコンビの大江笙子(凸凹ボップの細君)が、浅草の人気者だった曽我廼家五一郎の弟子で、しかも長唄の名匠馬道の杵屋鉄吉の門で鉄二といっていた。(笙子と美智子は実の姉妹です。いや、本当ですよ。知らなかったでしょう)

『同上』21~22ページ

 一方の茂は佐賀の田舎に生まれたが、芸人を志し、若くして家を飛び出す。『日本演芸家名鑑』によると、無声映画のヴァイオリン弾き、さらにヴァイオリン演歌を演じるようになり、九州でテキ屋の身内に入り、演歌師生活を送る。1932年、砂川捨丸に入門。砂川捨夫と名乗る。翌年上京し、浅草帝京座に初出演。その後は師匠捨丸の一座に出入りして全国を巡演。

 1930年代に二人は出会い、結婚。茂は笙子の婿となって、「松沢茂」となる。その後、夫婦漫才を組んでやっていたようだが、1936年に応召を受け、以来数年に渡り、帰国・再出兵を繰り返す。このせいで、大江笙子は貧苦に悩まされる事となった。

 1944年頃、息子が誕生している。この子は後年、敏トシという音楽家になった。代表作は『花のメルヘン』。

 またこの前後で娘にも恵まれている。この娘は三遊亭円之助に嫁ぎ、三児の母親となった。この一人が先日物故した四代目三遊亭小円朝である。

 茂の戦後

 何とか復員したは大道寺春之助とコンビを組んで、「凸凹ボップ・ホープ」として漫才をやっていたが、1955年頃解散した。因みに内海桂子と大江笙子のコンビを引き裂いたのは、大江茂であり、その代理として内海好江をあっせんしたのも、大江茂であった。

 但し、この斡旋や後の待遇で桂子と茂は対立し、内海桂子の自伝『転んだら起きりゃいいのさ』の中でボロカスに批判されている。

 1955年、漫才研究会設立に際し、茂は幹事となる。名簿を見ると、凸凹ボップ・ホープで登録されているが、幹事告知の書類ではなぜか大江茂名義になっている。

漫才研究会々員(昭和三十年一月創立)

會 長 リーガル千太・万吉
副会長 林家染団治・美貴子
幹 事 (常任)都上英二・東喜美江
    (会計)三国道雄・宮島一歩
        隆の家万蔵・栄蔵(原文ママ)
        大空ヒット・三空ますみ
        青柳満哉・柳七穂
        宮田洋容・不二幸江
    (常任)大江 茂

(八木橋伸浩編「南千住の風俗 文献資料編」 27頁)

 漫才コンビ解散後は古株のバイオリン演歌へと戻り、松竹演芸場などの浅草の舞台へ出演するほか、池袋を拠点に流しもやった。この頃、『演歌』という本を出版しているそうな。

 貴重な時事漫談、バイオリン演歌の継承者として少しずつ取り上げられるようになったが、1970年代に大江笙子と離婚している。長らく別居状態にあったそうで、その末の離婚だったそうである。

 晩年は吉村平吉の「ふきよせの会」や落語会の色物として出演。バイオリン演歌の方では相当鳴らしたようで、貴重な実演者であった。

 平成元年頃まで健在が確認できるが、その後消息を絶つ。小円朝氏に聞いたところだと、「確か、佐賀に帰ったとか何とか。お墓もあちらにあります」とのことである。

 笙子の戦後

 結婚し、夫婦漫才を組んだはずの笙子であったが、夫の出征や戦中戦後の動乱により、苦境に立たされた笙子は妹の巳代子に芸を仕込んだ。

 戦後直後、内海桂子とコンビを結成し、三味線漫才をやっていた。この時、大江に対抗して、「内海」と名付けた説があるが、詳細は不明。

 が、このコンビも前述の理由で別れ、夫との夫婦漫才を経て、1951年、妹の京美智子とコンビを結成。1954年頃、落語協会への入会を果たした。

 笙子の三味線に美智子のアコーディオンという賑やかな音曲漫才で、寄席の色物として活躍し、芸達者な所を魅せたが、あまり長くは続かず、1960年11月ごろにコンビを解消した二人は別々の道を歩み始めた。 美智子に関しては、京美智子(工事中)を参照。 

 解散後、ピンを経て、1961年5月上席から神戸マコとコンビを組み直したのを皮切りに、一九六二年二月中席から、駒千代(浅草駒千代か?)、同年8月上席からは相方と別れたばかりの春日照代とコンビを組んで、「笙子・照代」。このコンビは割かし続き、金曜寄席などに出演している。

 さらに、1964年10月から相方を失ったリーガル千太とコンビを結成し、「リーガル千太・笙子」。

 千太とも別れた後、笙子はまたピンに戻る。1967年頃より、浅草美佐子とコンビを組むが、これも長くは続かず、1973年1月頃より笙子は笙子名義でおはやしに転向しており、同年3月には本名の「松沢はつ」に改名している。

 その後は、1980年1月頃まで、落語協会のおはやしとして舞台を支え、後進の指導をしていたそうであるが、それ以降は完全に引退した模様か。

 この下座になった話は、小円朝氏から直接伺った。今では思い出である。

 私生活では、1970年代に茂と離婚しており、疎遠となった。離婚の理由は判らない――茂と笙子の相性が悪かった、という推測も出来ないこともない。が、こういう事は深入りしない主義なので、単に離婚したとしか言いようがない。

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