梅の家一徳・おかめ(春日井おかめ)

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 梅の家一徳・おかめ

梅の家一徳・立見二郎(右)

 人 物

 梅の家うめ や 一徳一徳

 ・本 名 直井 徳市
 ・生没年 ??年~1969年頃

 ・出身地 東京?

 梅の家うめ や おかめ

 ・本 名 直井静江(後に遠藤)
 ・生没年 1931年12月1日?~2013年12月12日?

 ・出身地 東京?

 来 歴

 戦前流行った親子漫才の中で、数少なく資料の残る一組である。おかめは後年、春日井おかめという名前で浪曲師に転向。天才少女浪曲師として、売れに売れた。昭和末まで活躍していたので記憶にある人もいるかもしれない。

 一徳の前歴は不明。しかし、古い漫才師であることは確かである。『都新聞』にも、

▲観音劇場 十二日より
東喜代駒、駒千代、梅香家梅香、一徳、砂川一丸、辰奴、東富士子、宝来、小政、太郎、正太郎、静丸、今奴、ぼたん、清子、照子、人形、博次、博王等出演

『都新聞』(1930年7月12日号)

とある。

 はじめは妻・梅の家梅香と夫婦漫才として、次いで立見二郎とのコンビで活動していた。立見二郎とのコンビでは寄席に進出し、二郎の曲弾と一徳の三味線で相応の人気があったと聞く。但し、梅香と二郎のコンビ、交互になっていたりするので、相方にはそこまでの執着がなかった模様か。

 1933、4年頃、養女の静江とコンビを組んで、「梅の家一徳・おかめ」と名乗る。

 芝清之によると、一徳は三味線も弾ける達者な芸人だったそうで、当時3歳だった静江に浪曲を教え、浪曲漫才を開拓した。

 娘のおかめは、後年浪曲師になったこともあり、『東西浪曲師大名鑑』に詳しい経歴が出ている。

 出身は東京らしいが、実父母を彼女は知らない。父は相撲とりらしく、母は京都の料亭の娘らしいということを成長してから耳にして、八方手を尽くしたが今もって判明しない。彼女は生れて2年間に7軒もの家を移って養育されたらしい。よほど複雑な事情があったのだろう。最終的に預けられたのが、漫才師梅乃家一徳(本名直井徳市、昭和44年没)の所でこれが昭和8年、それまで無籍であったので一徳は彼女を直井の籍に入れて、静江という名を付けた。
 一徳の妻も彼とコンビの漫才師で梅乃家梅香と言った。一徳の先妻の子八重子と静江と4人の暮らしが始まった。両親は稼ぎに出かけ、八重子も夜の飲食街に流し(傍点)に出て、留守番をしていた静江は寂しくてたまらず、両親にせがんで一緒に寄席に連れて行って貰い、袖から舞台をみている内に漫才の面白さに夢中になり、父に舞台に出してほしいとせがんだ。静江が漫才をやり始めたのは、3歳の年からで、ませた口っぷりで、何処で覚えたかと思うようなアドリブで客と応対し、相方の父母を驚かせた。一徳が三味線を弾けるのを幸い彼女に浪曲を教えて舞台にかけたところ、爆発的な人気を呼び、浅草中何処の小屋に掛っても彼女の人気は抜群であった。芸名を”梅乃家おかめ”と言っていた。おかめが4歳の春を迎えた頃はすでに一家の大黒柱となったのである。都都逸、さのさ、米山、浪曲を器用にこなし、とても少女の芸とは思えないものがあった。

 このおかめの本当の出生年は謎に包まれており、『東西浪曲大名鑑』では昭和6年とされているが、岡田則夫氏などの調査では昭和2年だった、という。記載の通り、養子先を転々としたので、おかめ自身も本当の年齢は判らなかったのではないだろうか。

 然し、1933年時点の記録を見ると、父の梅の家一徳はおかめでなく、立見二郎とコンビを組んでいるので、昭和6年の方が正しいのではないだろうか。

 その人気に乗じてか、1934年4月にはポリドールに依頼され、娘と共に『少女掛合萬歳』なるSPレコードの吹込みを行った。

 ポリドールの月報(1934年4月号)に「これなるは六才の少女、おかめ萬才のひとくさり、如何なる藝を演じまするやうまく行つたらお慰み、まづは口上左様ッ……。(緑レーベル大衆盤四〇八八)」とある。

この盤は人気だったと見えて、5月月報にも「四一〇一 萬歳 少女掛合萬歳 Aストトン節 B 数へ歌」という記載がある。さらに、12月号にも、

少女掛合萬歳――春日井梅鶯浪曲真似入り チビちやんこゝもと懸命の態です昨今人気の絶頂を行く春日井梅鶯師の浪曲を一面ものしちやふとは凄じい。唄で来い掛合で来い大人はだしの天才児、行く末恐ろしいです。 どうぞまあ一ぺん御聴きなすつて下さい(緑レーベル大衆盤四一九一)

 とある。相当人気があったのだろう。また、『三田評論』(昭和10年7月号)にも大正五年會の余興に「幼女漫才」として出演した記載があり、幼いながらも大人顔負けの天才芸人だった模様である。

 更には当時、天下の人気者として君臨していた浪曲師、春日井梅鶯と共演するなど、僥倖に恵まれた。『東西浪曲師名鑑』には、

この舞台を見た興行師の駒井勝(梅鶯を売出していた)が、おかめを聴いてその才能に驚き、一徳夫婦に話をつけておかめを預り、”梅乃家おかめ”の名で、江川劇場に出演させた(この時は”明治一代女”の芝居をしたり、節真似をしたが、峰吉におかめ、芸者に母、伴奏を父が勤めた)。現在SP盤で残されている、一徳とおかめの漫才のレコードは彼女が5歳のときのもので、浪曲の「乃木将軍」は6歳のときの吹込みである。彼女は6歳の年に漫才界をやめて、春日井梅鶯の弟子となって、”春日井おかめ”と名乗った。おかめの天才的な浪曲はみるみる人気を呼び、梅鶯と二枚看板で打つ興行は先々で大入満員を続け、番附では少女横綱の名をほしいままにした。

 とある。それから間もなく、興行師・駒井勝の勧めで、おかめは浪曲師に転向。親子漫才コンビ解散。

 その後、一徳は娘の後見役という形で旅巡業や公演に従う傍ら、旧知の立見二郎とコンビを組みなおしらしい。『植民地期台湾映画フィルム史料』の中に納められた記録フィルム「演藝吹寄席」(N一一〇八号)の中に、二人の名前が出ている。しかし、二郎が妻とコンビを組むにあたって、一線を退いたようである。そのあとは水戸にいたらしく、芝清之『東西浪曲第名鑑』の「港家小柳丸」の頁に、

(昭和14年頃)その後水戸にいた梅乃家一徳(春日井おかめの義父)に誘われて一座に入り、梅光軒一若となって出方を勤めた。

 なる記載がある。娘のおかめの人気で水戸に隠棲をした模様か。

 おかめは駒井と春日井梅鶯の引き立てを受けて、天才浪曲師の名前をほしいままにする。

 1937年9月、コロナレコードからポリドールへと移籍。この頃が天才浪曲師としての一つの全盛期で、『乃木将軍』のような古典作品の他、小島政二郎の『新妻鏡』、『この母なかすな』、正岡容の『英霊布団』などの新作も積極的に吹き込んで、40枚ほどレコードを残した。

 特に『英霊布団』は、若き日の古今亭志ん生と柳家小半治が出演し、寄席風景を演じてみせている珍盤である。『志ん生復活』に復刻版が入っている。

 戦後、駒井勝から独立し、16歳で結婚。天才浪曲師として大看板を張る傍らで細やかな家庭生活を営んだ。然し、その幸せな生活も長く続かず、間もなく夫と息子に死に別れる。

 その後、再婚をするものの、その相手にも死別され、再再婚で巡り合った三人目の夫は身持ちが悪く、苦労が耐えなかった。配偶者に恵まれぬまま、1957年7月を一期として舞台を引退。そのあとは、父の一徳と共に茨城県日立市に暮らして、静かな日々を送っていた。

 1969年、一徳が死去する。没年は『東西浪曲大名鑑』の中に「漫才師梅乃家一徳(本名直井徳市、昭和44年没)」と、記載有り。

 おかめは両親を見送り、市井の人として穏やかな日々を過ごし、オールドファンからは、消えた天才浪曲師とうわさされていたと聞く。

 1974年、師匠の梅鶯の葬儀に姿を見せたのをキッカケにカムバックを要望された。一度は断ったものの、関係者やひいき筋の尽力で、1976年5月1日、新宿紀伊國屋ホールで『春日井おかめをカムバックさせる会』を催し、本格的に復帰した。

 上京と復帰に際し、一からやり直す覚悟で、日立の家や土地などを綺麗に片付け、腹を決めた。以来、木馬亭を中心に活躍。大西信行などと組んで新作浪曲などを盛んに演じ、磨き上げた啖呵と節回しを基調とした達者な芸を魅せる傍ら、浪曲復興の手立てを模索した。そのころの音源が何本か残っている。

 しかし、諸般の事情から復帰から10年も立たないうちに、再び引退してしまった。

 その後は芸能界とは縁を切るような形となり、仏門に入ったという。木馬亭の根岸席亭に話を伺った所、「おかめさんは尼さんになられたとかで時々浅草の方に見えておられましたよ」。

 晩年は完全に市井の人となったらしく、平穏な日々を過ごしたという。

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