大空はるか・かなた(ケーシー高峰)

大空はるか・かなた

 人 物

 大空おおぞら はるか

 ・本 名 門脇 貞夫

 ・生没年 1934年2月25日~2019年4月8日
 ・出身地 山形県 新庄市

 大空おおぞら かなた
 ・本 名 横山 孝信
 ・生没年 1930年9月26日~2014年6月20日
 ・出身地 富山県 富山市

 来 歴

 本来の順番から行けば、後回しにする予定であったが、ケーシー高峰の訃報を受けて、執筆する事にした。

 大空はるかは漫談のケーシー高峰、かなたは俳優の横山あきお、と名前を変えて活躍した。

 はるかは、開業医の母と三井物産に勤める商社マンの父の間に、五人兄弟の末っ子として誕生。門脇家は代々新庄藩の御典医を任じられた名門の家柄で、五人中三人は医者になっている。

 新庄市立沼田小学校卒業後、立川市にいた姉を頼って上京。武蔵野市の私立盈進学園(現東野高等学校)に進学。この頃、ジャズや洋画と出逢い、深い感銘を受けた。中学卒業後、故郷へと戻った。

 1952年、日本大学医学部に入学をするが、教授との折り合いがつかず、翌年芸術学部に転部。容姿を理由に教授にいじめられたのが、転部の理由だったともいう。

 無断転部と学生結婚を理由に実家から勘当され、仕送りもストップ。

 そのため、エキストラや司会の真似事をして働き始めるようになり、その流れで知り合ったリーガル天才に入門を志願したが、天才自身がまだ若手だったことを理由に、大空ヒットの門下へ入る。

 ヒットの鞄持ちや、英二喜美江の鞄持ちを務める傍らで、兄弟子の大空曇天とコンビを結成し、「大空曇天・晴天」。このコンビが事実上のデビューであったが、2年足らずで解散している。因みに坊られいという名前は漫才から足を洗った後に名乗った名前であり、若手の頃は「大空晴天」名義である。

 1957年12月、弟弟子のかなたと組み、「大空はるか・かなた」してデビュー。

 一方のかなたは、薬品製造及び薬売り(富山の薬売り)を営む家に生まれる。日本大学芸術学部映画科中退。

 舞台芸術学院で舞台監督の勉強をしていたところ、周りに漫才を勧められ、1957年12月、大空ヒットの門下に入り、「大空はるか・かなた」してデビュー……というのが通説であるが、舞台監督時代に左翼演劇グループ『海つばめ』に入っていた事がある。

 1957年12月、コンビ結成。よくコンビ名がごちゃ混ぜになっているが、青空うれし氏や大空かんだ氏に問うたところ、「はるか=ケーシー高峰」、「かなた=青空あきお」の事であった。主に栗友亭を拠点に活躍。若手にしては、非常にモダンで綺麗な漫才だったという。

 前々から疑問に思うのは、Wikipediaの記事である。そもそも相方の名前が違っているうえ、「下ネタ専門」というのは、何処からの話だろうか。

コロムビア・トップ門下の大空はるか(後の青空はるお)と下ネタ専門の漫才コンビ「大空はるか・かなた」を組み、自らは「かなた」を名乗った。コンビは南千住の「栗友亭」を拠点にそこそこ売れたものの、東京漫才界の対立騒動に巻き込まれて解散。

 大空かんだ氏に尋ねたところ、「下ネタ専門? そんなことはないですね」と、ばっさり否定した上で、「あのコンビは、私がヒット先生の鞄持ち時代に見てますが、立派なものでしたよ。紅白を模したスーツ、ズボン、靴を履いてね、これだけでも見栄えがあった。それで、すらっとした話芸で、漫才をやるものですからウケますよ」。

 東京漫才の新鋭として活躍を続けてきたが、コンビ解消。Wikipediaなどでは東京漫才分裂騒動と結び付けているが、大空かんだ氏などは「いや、単にコンビ間の問題じゃないですか。分裂騒動を起こしたのは宮田(宮田洋容)さんですし。かなたさんはまだ破門されていませんでしたからねえ、現に私と組んでいるんですから……」。

 はるかは、当時流行していた歌謡曲「Volare」と「ぼられた」をもじった「坊らレイ」と改名。日劇の照明係、ホテルの歌謡ショーの司会や勤労者音楽協議会の司会、世志凡太と共にジャズ喫茶の進行係を経験する。

 世志凡太氏曰く「まあ変な男でしたねえ。真面目かと思いきや、どこかぬけている人でした」。

 司会では、弘田三枝子の司会を長らく担当し、後年売り出してきた三田明の司会へと移った。司会としてはそこそこうまかったと聞く。

 1968年、司会業から演芸界に再び復帰、リーガル天才・秀才一門へ戻り、ケーシー高峰と改名。ケーシーはアメリカの人気医療ドラマ『ベン・ケーシー』から来ている。高峰はリーガル一門の屋号のようなものである。

 司会時代に磨いた話芸に、エロとイカサマ外国語を軽妙洒脱に織り込んだ医学漫談で人気を集め、一躍時の人となる。

 後年、ドラマ『夢千代日記』、『木更津キャッツアイ』など、演劇方面でも活躍。その独特な芸は毒舌で知られる立川談志やビートたけしなどによって高く評価され、不動の地位を得ている。

 1989年、阿佐ヶ谷からいわき市へと転居。30年近く同地に住み続けた。その事が評価され、観光大使や名誉市民として表彰されている。

 2019年4月8日、午後3時30分ごろ、肺気腫のため福島県いわき市の病院で逝去。享年85歳。

 一方のかなたは、兄弟子の大空曇天や大空かんだとコンビを変えて、「大空はるか・かなた」を続投。Wikipediaには、

1960年代前半に東京で「大空はるか・かなた」という漫才コンビが活動しており、「はるか・かなた」の芸名で見た場合、海原はるか・かなたは二代目に当る。因みに、大空はるかは後の青空はるお、大空かなたは後のケーシー高峰である。これに際して、二人はケーシーに「師匠、名前もらいました」と伝えたという[5]

 とあるが、これもどこから聞いた話なのだか。第一活動時期も違えば、東京と大阪という土地柄も違う。自称出典だという、横浜中法人会の『ケーシー高峰のインタビュー』に、

最初は漫才。「リーガル天才・秀才」に入門したらまだ弟子が持てないからって言われて、「大空ヒット・三空ますみ」に弟子入りして、「大空晴天・曇天」。2回目のコンビが「大空はるか・かなた」。「はるか」のほうだった。今の「海原はるか・かなた」からは、「師匠、名前もらいました」と言われる。いろんなことやったからプラスになってましたね。

 とあるが、これは芸人特有のヨイショであろう。活動時期が短かったため、尊敬して名付けたという線も薄い。ヨイショと史実を混ぜられては困るのである。

 余談であるが、はるか・かなたの名跡は、「ケーシー高峰×横山あきお」「横山あきお×大空曇天」「横山あきお×大空かんだ」に加え、末弟子の「大空あきら」が名乗っていた事がある。

 長らく、大空一門で頑張っていたが、師匠・大空ヒットの勘気に触れ、破門される。深い事情があったというが、真相は不明。

 漫才師としての命運が閉ざされかけた時、コロムビアトップに拾われる形で復帰。「青空あきお」と名乗り、兄弟子の青空月夫――こと、青空はるおとコンビを組んで「はるお・あきお」となったが、これはすぐに別れた。

 1962年、弟弟子の坂上とコンビを組み、彼に二代目「青空はるお」を名乗らせて、再出発。このコンビは成功し、1967年にはNHK漫才コンクールで優勝している。このコンビの経歴は別稿を参照→青空はるお・あきお

 以降は、「横山あきお」と名を変え、俳優路線へと転向。『楢山節考』の雨屋の親父、『李さん一家』の李さんなど、老け役や怪しい外国人役を中心に活躍。

 長らく一線で活躍を続けてきたが、2014年6月20日、肺炎のために死去。享年83歳。

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