耕田實

耕田實

 人 物

 耕田こうだ みのる
 ・本 名 岡田 實
 ・生没年 1923年~?
 ・出身地 神奈川県 横浜市

 来 歴

 耕田實は戦前・戦後活躍した漫才師、腹話術師。元々は漫才師として町田武(後の二代目柳家三亀松)とコンビを組んでいたが戦時中に解散。戦後は腹話術師として活躍し、「司会もできる腹話術師」として人気を集めた。

 前歴には謎が多いものの、大体の経歴は『アサヒグラフ』(1956年6月24日号)掲載の「告知板 腹でモノをいう人たち(腹話術師)」に詳しい。

 戦争中六年ほど吉本興業で漫才をしていましたが昭和十八年ころ澄川久さんのをみて腹話術に転向しました 僕はコリ性で人形も最初は浅草の仏壇屋にたのんで 当時五十円もかけてつくりました 現在も人形だけは三万円位のものを使っています 漫画の主人公や等身大の娘など次から次へと人形を変えたので今までにも 二十以上もう使いましたが最近のはコーちゃんのほかチャッカリさんとミイコちゃんの三つです ネタは十ほど持っていますが新聞や映画流行の音楽などを材料に世相を漫才調で風刺するのが僕の行き方です 人形相手なら意見の衝突もないし気楽にやれるのが取柄です いろんな批判もあるようですが 今後はラジオで聞いてもテレビでみても面白いものにしようというのが僕の念願です 腹話術師の大同団結はまだ時期が早すぎるとおもいます(本名岡田実 横浜生れ)

「戦争中六年ほど漫才をやっていた」という経歴から見るに「少年漫才」としてデビューした模様か。当時の芸名は不明。

 また、『NHK新聞』(1957年8月18日号)にも経歴が出ている。

ただ今売出し中 世相漫談で笑わせる人形漫談 耕田実さん
「歌う演芸館」で、 小金馬らと一しよに出場者の相手役をつとめている人気者の一人。 本業は人形漫談だが漫才畑の出でもと町田たけし(柳家亀松)と六年間コンビを組んでいた。
 戦時中、その相棒を徴用にとられてからは漫才をあきらめて独立後になって腹話術の人形漫談に転向した。
「歌う演芸館」のレギュラーとなったのも、そうした漫才や人形漫談の経験が買われての出演である。
“人形漫談をもつと大衆演芸に”という腹話術協会会長花島三郎とともに彼はその副会長をしているが、彼の腹話術はだれに教わったものでもなく、アメリカ放送界の人気者「チャーリー・マッカーシー」を手本に研究したもの。一貫五百匁という相棒の人形コーちゃんは浅草の人形屋で作ったものだが、そのコーちゃんを操る手さばきもあざやかに、世相風刺の掛合いで笑わせている。
 台本は自分で書く。スマートな外見のとおり人柄もおとなしく静かで、芸にもハデなところがないが、先日の「歌う演芸館」のオペレッタで「冬はおフロが一月一度ですむ」てなことをいつた彼、相手の若奥さんに「なーんて不精な耕田さん、そんな人に私の娘はやれません」といわれて恐縮「……そ、それじゃこれから毎日フロに入りますから、どうぞお嫁さんに」と、なんとかトボけて笑わせたあたり楽しい芸だった。横浜生れ、三十三歳。

 1941年頃、趙相元のせがれで少年漫才の町田武とコンビ結成。「町田武・紺田実」と名乗る。共に10代の青年ながら大人顔負けの芸を見せることで結構人気があったという。

 1943年発足の帝都漫才協会に所属。

 1943年半ば頃まで「武・実」として吉本の花月や寄席に出勤している様子が確認できるが、町田武が戦争に取られてしまったためにコンビ解消。

 当人は「腹話術師になった」といっているが、実際は岡田敏子という漫才師とコンビを組んで活動していたという。

 その証拠に――1944年3月21日より銀座全線座で行われた「吉本名人会」の広告がある。

 出演順
 漫 才 耕田實・岡田敏子
 新講談 服部伸
 体 技 奥野イチロー・竹本ジロー
 浪 曲 早川燕平
 落 語 三遊亭圓生
 落 語 鈴々舎馬風
 のんき節を捨て新作發表  時事小唄 石田一松
 春日ひばりと楽團花詩集  ”花の回覧板”

 しかし、岡田敏子とのコンビも長くは続かず、1943年内に解散。その後に腹話術師になった模様である。

 戦中戦後はどういう伝手があったのか、東宝芸能に移籍してそこの専属となった。当時は腹話術師が珍しかった事もあり、結構優遇されていた模様。

 東宝専属の肩書は結構あとまであったらしく『教育社会』(1948年12月1日号)のPTA文化祭で――

二十六日プログラム
 御挨拶
1、踊    中內芙佐子 中內香津惠 
2、歌    國島英子
3、歌    宮下きく子 六角都彌
4、歌    石橋達子
5、舞踊   龍鄉豐子
6、歌    ポリドール専屬 丸山陽子
7、中央音頭 新樹會有志一同
8、奇術   東寶專屬
9、童謡   第一齊唱隊
10、歌   並木惠美子
11、    仁科悅子
12、歌   青木俊子・青木紀子
13、踊   龍鄉嘉津榮・同豐子
14、歌   新井弘子
15、万才  リーガル千太・萬吉
16、歌   八並千代子・秋山秋童
17、踊   花柳花芳
18、歌   國島英子
19、舞踊  白井とくゑ・澁谷まさゑ 
20、腹話術 東寶專屬 耕田實
21、舞踊  畠山迪子
22、万才  大西忠夫・小森保雄
23、踊  佐藤かつ子・西畠かづゑ
24、歌  安藤正一・おはやし連中
25、小唄 勝太郎

 とあるのが確認できる。

 これ以降、華々しく売り出したようで、若干20代にしてラジオやテレビに出演。「人形漫談」をぶらさげ、花島三郎などと共に腹話術の一時代を築いた。

 1952年4月27日、熊本公会堂で行われた「オリンピック募金演芸大会」に出演。NHKが全面協力の下、『いだてん』で知られる金栗四三、円盤投げの名手であった児島フミが応援として参加。「三つの歌紅白試合」「腹話術」「落語」「歌謡曲」が放映された。共演は柳亭痴楽、佐々琴次、越山アツ子。

 1953年5月28日、開局したばかりのNHKテレビの「演芸の時間」に出演。共演は金原亭馬生の『酢豆腐』。

 1955年2月7日、NHKの人気テレビ番組「お好み風流亭」に出演。共演は物真似の江戸家猫八、古今亭今輔の『嫁とり』。

 同年7月12日、NHK「演芸の時間」に出演。共演は江戸家猫八、奇術の吉慶堂李彩。

 同年11月30日、NHK「演芸の時間」に出演。共演は江戸家猫八、桂米丸の『虎之助』。

 1956年4月6日、NHK「お好み風流亭」に出演。共演は三升家小勝の『饅頭怖い』。

 5月23日、NHK「演芸の時間」に出演。共演は中国曲技の范少宏・張千代子、奇術の吉慶堂李彩。

 7月29日、NHK「日曜こども会・七月のおたんじょういわい」に出演。幼稚園に出張して同月の誕生日の子供と一緒にお祝いをするという番組であった。

 8月、「腹話術協会」を設立。副会長に就任。『演劇界』(1956年9月号)の雑報に――

 腹話術協会は”同業者相互の福祉、将来の發展”を目的とし全國で約二百人ある中の、四十名がまとまったもの。第一回顔合せは八月九日朝文京區上富士前町六義園內心泉亭で、各自人形持参で参った。會員は
 花島三郎(発起人)耕田實、名和太郎、木下ぼく兒島、島ミキ雄、宮越一郎、アザブ伸、林二三夫、加藤柳美、稻富一夫、田邊日出雄、二宮一、あらき邦夫、海野一路、山地幸雄、小淺浩司、大塚光雄、畑中良一、小野榮一、柳澤よしたね、竹本嘯虎、榊原風兒、並木アキラ、天津城逸郎、長谷寛、セキヤ正夫、久世紋太、松井明、白山はじめ、仲ノブハチ、津村ヒサシ、竹馬都夢、成美ヒサシ、長澤克彦、神楽坂扇雀、藤乃家たぬき、川上のぼる、大海晴夫。

 この頃、NHKの専属芸人になったらしく、当時のパンフレットや雑誌などで「NHK専属・耕田実」と確認できる。

 1957年3月10日、NHK「演芸の時間」に出演。共演は奇術の松旭斎天右一行、曲技の清水一郎、奇術の吉慶堂李彩。

 4月より、NHKのバラエティラジオ番組「歌の演芸館」の司会者に就任。

 1958年3月16日、NHK「お好み日曜座 ヴァラエティー・ショー」の「風来坊の天使」に出演。共演は江利チエミ、世志凡太、千葉信男、千秋みつる、八波むと志、カトウ・ハジメ、スミス・ブラザース、張静子、江川マストン、淸水一郎、内田ファミリー、キャンディ・ボーイズ、耕田実、引田天功、横山高志、須田カンター・戸川ハッピー、美山みち子など。

 3月22日、NHK「ミュージカル・プレー ルミコよ・わが子」に出演。共演は藤村有弘、フランキー堺、楠トシエなど。

 1959年1月1日、NHK「イノシシ物語」に出演。同年の干支を面白おかしく解説する番組だったらしい。

 以来、1960年頃まで専属として活躍。全国を飛び回る忙しい日々を送った。

 任期満了後はどういうわけか、ほとんど表舞台に出て来なくなり、消息が辿れなくなる。どうしたのだろうか。一説によると転身したらしいが――

 1968年9月22日、『笑点』に出演。これ以降の消息は不明。

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