喜楽家ヘナチョコ(四つ竹雑芸)
人 物
喜楽家 ヘナチョコ
・本 名 原 生次郎
・生没年 ??~戦前?
・出身地 関西
来 歴
喜楽家ヘナチョコは関東大震災以前から昭和初頭にかけて浅草の色物席や安来節一座で活躍した芸人。四つ竹を叩いて、端唄小唄や流行歌を奏でながら、珍妙に踊るという珍芸を得意としたそうだが、経歴には兎に角謎が多い。
経歴はほとんどわからない。『読売新聞』(1928年10月24日号)に「原生次郎」とあり、他に「関西出身」という事が漠然とわかっているのみである。
『読売新聞』(1927年9月11日)のラジオ欄に――
四ツ竹浮世節を初放送する喜楽家ヘナチョコ名はヘナチョコだが藝はしつかりしたもの、このヘナチョコ君震災前は東京の色物席で相当人気を呼んで居た殊に公園の万盛舘(震災後ない)辺りでは大変な人気だつたが、震災後郷里関西に帰つて居てこの五月再度上京して来て目下御園座に出演してゐる、奇態なことにはヘナチョコ君留まらぬ忙しさで舞台を降りるとつぎの出番迄行方をくらます事に妙を得て居る、妙を得てるも云へば彼の四ツ竹こそはまことに妙を得たものでけふも踊り乍ら唄ふ、ファン諸君は彼の珍な格好の四ツ竹を想像して聴けば又一段と面白いこと請合です
これが唯一の経歴だろうか。
1921年10月、演芸会社の四谷喜よし上席に出演。これが事実上の初お目見得の模様。
同年11月、扇風会に移籍。こちらは関西の吉原興行が東西会から分離して生まれたものである。
1922年2月、東西落語会へ移籍。この東西落語会は吉原興行が抜けた後に再建された団体である。
1922年10月、三遊亭歌奴(二代目円歌)を中心に立ち上がった「東洋落語演芸会」に参加し、主要メンバーとなった。
何かと人材不足の中の会において、たくましい人気を見せつけ、たちまち一枚看板となった。特に浅草の万盛館では目覚しい人気を集めた。
当時の広告を見ると毎月のように万盛館に出勤している。
1923年6月末、万盛館をしくじったそうで、新聞広告に「ヘナチョコを使うべからず」とまで書かれた始末であった。『都新聞』(6月28日号)の中に――
◆ヘナチヨコ 万盛館をしくぢり新聞広告にまで無断に両人をつかつた待合は抗議を申かねまじき怒り方に当人手も足も出ず、名の通り是が本当のヘナチョコ
これが原因で東京を離れる羽目になり、数年間は関西へ逼塞していたようである。
1927年5月、再上京し、当時流行していた安来節の御園劇場に飛び込んだ。
1927年9月11日、大津お万とともにラジオに出演。「四つ竹浮世節」なる珍芸を披露している。四つ竹を叩きながら磯藤、槍さび、二上り新内、御所車などを歌って踊るものであった。
1928年1月、安来節の帝京座に出演。
民謡人気之焦点大和家三姉妹出演
露西亜之空中飛行團マルテニー一行
大和家八千代・春子・清子 花江 宗子 すみ子 定子 若吉
小原節 小原栄龍
追分 島子
高級萬歳 浅田家日佐丸・朝日
四ツ竹歌道楽 ヘナチョコ
剣舞 松尾六郎
萬歳 春雄・かほる
その後も半年以上、帝京座に出演。安来節席では相応にウケたようである。
1928年10月24日にもJOAKのラジオドラマ「歓楽情緒」に出演。
帝京座を離れた後も、定期的に安来節系の劇場や色物席に出勤。
さらに、東京漫才が勃興するようになると漫才大会にも出演。1931年11月25日より行われた漫才大会でも珍芸を演じている。『都新聞』(11月22日号)に――
▲宮戸座 廿五日より五日間十一時開場昼夜二回関東関西萬歳競演會 出演者は、
定子、奈津丸、ちと世、千代若、葉子、榮丸、ぽん太、政之助、與五郎、圓十郎、一丸、源一、六郎、和可子、逸郎、春之助、月子、友衛、デブ子、花助、ヘナチョコ、時二郎、清之助、小太郎、小柳連、美佐子、琴助、君子、房江、とん子
とある。このヘナチョコが多分喜楽家ヘナチョコだと推測される。
それ以降も1935年頃まで名前が確認できる。主に漫才劇場で活躍した模様か。