海老一鐵五郎(太神楽)

海老一鐵五郎

 人 物

 海老一えびいち 鐵五郎てつごろう
 ・本 名 菊田 鐵五郎
 ・生没年 1887年8月16日~1928年4月ごろ?
 ・出身地 東京

 来 歴

 海老一鐵五郎は明治~戦前活躍した太神楽芸人。海老一宗家の倅として生まれ、若い頃は兄・海老蔵、弟・繁司とともに海老一三兄弟として売れに売れた。後年、独立し「海老一鐵五郎一座」を主宰。浅草から出発し、後に大阪・京都でも人気を博したが、関東大震災で苦労を重ねて、最後は朝鮮へ渡ってしまった。

 父は「海老一」の親方であった菊田国太郎。この国太郎は明治維新後没落した太神楽や獅子舞の営業再開に力を注ぎ、明治14年に願出を提出して、「獅子舞営業許可」を受けている。

 実兄は海老一海老蔵、腹違いの弟は海老一繁司。『都新聞』(1913年10月22日号)の「太神楽生活」の中に「海老蔵さん鐵五郎さんは御存じの通り兄弟です繁司さんは妾の子だそさうで海老一兄弟とは胤は一緒だと聞いています」とある。

 兄と共に幼くして芸を仕込まれた。「太神楽生活」によると海老一家は「手を取って教えない」そうで、殆ど教えないが間違ったり覚えが悪いと殴られたりドヤされたりしたという。

 若くして「海老一一行」を立ち上げ、海老蔵・鉄五郎・繁司と高弟・巴家寅子と共に浅草を中心に出演するようになる。

 とにかく芸達者なのが売りで、曲芸は無論のこと、踊り、茶番、鳴物、喜劇までこなす芸達者ぶりであった。

 1907年頃、徴兵検査に合格し、徴兵を受ける。旭川二十六連隊に所属。

 1909年12月3日、向島札幌ビール庭園で「海老一鉄五郎除隊祝園遊会」を実施。自分たちの曲芸の他、梅坊主の雀踊、都築文男の喜劇が余興として行われ、来賓には寄席芸人や鏡味親子の他、伊井蓉峰、村田正雄、藤井六輔、尾上栄三郎、坂東三津五郎、守田勘弥などが出席。

 1910年代の人気はすごく、浅草では常打を行っていたほどであった。

 1910年代後半に兄たちと別れ、「海老一鐵五郎一座」として独立。関西へと向かう事となった。

 1917年3月28日~4月3日まで、京都夷谷座で「海老一鐵五郎一行」の公演。さらに、大阪・京都を打ち出し、朝鮮・満洲へと向かった。

 8月には朝鮮に到着。『朝鮮新聞』(8月8日号)に――

 ●海老一一行来る 日本麦酒の後援にて九日より壽座に開演満洲及支那方面を巡業中なりし曲芸及喜劇を以て有名なる海老一鐵五郎一座は今回京城壽座に於て興行の事に決し八日午後七時三十分南大門駅着にて華々しき乗込みをなし九日より開演の筈なるが初日は日本麦酒会社の愛飲家観劇会をなし一行の為め景気を添ゆる由なるが海老一鐵五郎の曲芸は嘗て今上陛下が東宮に在す時台覧の栄を荷ひたる事あり斯界の権威として一般に認識せられつつあるが最近曲芸に同人一流の喜劇を加へ一新機軸を出したりと云へば日本麦酒との後援と相待ちて定めて盛況を呈すことなるべし

 以来、数年間関西を中心に活動する事となる。

 1920年に兄の海老一海老蔵の斡旋で、ハワイ巡業をする話もあったらしいが、感冒に倒れて急遽キャンセルという事もあったらしい。『都新聞』(1938年5月10日号)の談話に「その鉄五郎も大正九年に、一旗挙げやうと一切お膳立をしながら、感冒でころりと参ってしまいまてね」とある。

 1922年11月、巴家寅子と手を組み、吉本花月各地を巡業。『芸能懇話』(18号)にこのビラと解説が出ている。

 太神楽曲芸界に覇を競ひし両花形の提携は、昔を今に返り咲き、間髪を入れざる意気の投合は、得意の人滑稽は愈抱腹絶倒
 巴家寅子 海老一三郎 海老一鉄童 海老一小鉄 海老一鉄五郎
 東都声色歌舞伎会柳亭春楽 講談界の寵児神田伯龍
 出番順 落語鯛六 落語里鶴 落語小雀 奇術正一 落語盆と玉円坊 音曲手をどりやの治 大正笑話文雀 剣舞天地・景山 落語舞桃太郎 身体曲技夏雲起 落語文団治 太神楽音曲曲芸寅子・鉄五郎 講談伯龍 落語舞勝太郎 声色春楽 新講談残月 落語枝鶴 曲独楽源朝

法善寺境内南地花月亭 吉本興行部 電話南四三八番・四一一九番

 その活躍は、太神楽の復権と目されたと見えて、『大阪毎日新聞』(11月12日号)に、

 復活せる権威ある太神楽 当派幹部連総出演の外新に……
 皆様お待ち下さいました、此花形合同に拠り海老一一座を復活させました、寅子が懸命の撥冴せえ、鉄五郎が洒脱せる滑稽と舞踊と相挨つて近頃に無き興味ある一座で御座います。
 巴家寅子・海老一鉄五郎合同一座
 本月の交代連として講談界の寵児 神田伯龍

 當十一月十一日夜ヨリ 毎夕五時開演 南地花月亭
 宣伝の為に特に普通の入場料 金五十銭

 皆様お待ち下さいました、此花形合同に拠り海老一一座を復活させました、寅子が懸命の撥冴せえ、鉄五郎が洒脱せる滑稽と舞踊と相挨つて近頃に無き興味ある一座で御座います。
 巴家寅子・海老一鉄五郎合同一座
 本月の交代連として講談界の寵児 神田伯龍

 當十一月十一日夜ヨリ 毎夕五時開演 南地花月亭
 宣伝の為に特に普通の入場料 金五十銭

 同年12月、紅梅亭に出演し、合同一座で人気を集めた。

 1923年、東京で関東大震災に被災。ここで大きな損失を出したらしく、鉄五郎は東京を離れて朝鮮まで行ってしまった。朝鮮の関係者の手引きで同地に住み、余興や巡業などをして静かに暮していたという。

 1925年12月、再起をかけて台湾巡業に出かけるも大損を蒙ったという。さらに女にも騙され、台湾に取り残される苦難に遭遇している。『朝鮮公論』(1926年5月号)に――

 海老一鐵五郎と言えば、震災の年ひどい打撃をうけ、今京城に寄寓してゐるが、東都で名の声えた一流の芸人である事は、いづれも先刻御承知のところである。ところが、茲に、さる銀行の頭取の寵妓で、リン子と呼ぶ変態性の芸者があるが、こぞのくせ、せっぱ詰ったが、思ふように頭取殿が面倒見しくれぬので、遠い/\台湾へ仕かへを思ひたったものである。台湾ならば常夏の国だから第一着物も大しているまいし、苦労も少なからうといふ譯だったかどうかしらないが、兎も角彼地へ押し渡る段取りとなり、さる手蔓から、海老一を先達におし立て、八重の潮路をはる/\と台湾についたのは師走もスッカリおし詰ったときだった。つくや否や海老一の骨折りで話がスラ/\とまとまり、いざ受け渡しといふ段になると肝腎のリン子の姿が見えない。それもその筈、リン子の変態性は全く朝令暮改、台湾に渡りは渡ったもののにわかに朝鮮が恋しうなり、矢も楯もたまらず、海老一をおいてきぼりにしてスタコラ朝鮮ににげ帰ったものだ。サア、島流しを食った海老一は、先方の芸妓屋からは人を馬鹿にしてゐると、怒られ、旅費はなしといふのですっかりとりこになって終った。 
 お陰で可愛想に海老一は、この正月を台湾三界で丸二ケ月も宿の人質にとられたとはとんだ被害だった。

 とネタにされている。結局こうした不運が募ったのか、行く先々の興行も行かなくなり、弟子や仲間は去り、最終的には弟子一人と貧窮にあえぐ羽目になったという。昔のよしみで朝鮮新聞の関係者が面倒を見ていた。

 昭和に改元する前後に、「日本本土でもう一度やり直す」と心機一転し、帰京。「海老一一座」を再興して巡業に出た矢先、倒れ、そのまま亡くなった、という。最期の様子は、石森久弥『朝鮮統治の目標』に出ている。

彼は何んでも満洲の興行かで大しけを食って、京城に流れて来た時には、 たのみとする一座の者には一人去られ、二人にげられ、ひよろくになってあえいでゐた。 自分は朝鮮新聞にゐた時、彼を助けてやつた關係上、彼は一から十まで彼の身の上の事を報告に来てみた。
 間もなく彼は、ほらかんになるといふて来た。その時は、大分やつれてみた。
「こんどといふこんどは、まるつきり閉口しやした。米がねいんですもの、食ふ米がねいんですもの、あつしはかまいませんけどね、弟子が一人ゐるんですよ、どこにも行くところがねいつてんで、家において居りやすが、おかゆを喉はしてあるんですよ。それにあつしも喘息でよなか中、咳をしてられませんでねへえ。幇間にでもなって何んとか喰はなけれやねえ先生。」
 彼はいひながらせら咽喉を鳴らしてゐた。
 江戸藝人の末路……江戸藝では名人といはれた彼の末路がこうも悲惨なものかと自分も咽喉をこくりした。
 私は極力ほうかんはよせと諫止してやった。それはほうかんの職業に對して反對したのではない。彼の眼の球の飛び出た凄い死相は到底お客の前に出て、御機嫌を伺ふ顔ではなかった。
「いけない。いけねい。それは止せ。」
 こういふて私は暗然とした。
 寒い冬も過ぎた。 春寒時に襟元に襲ふも、なごやかな春が来た。
 或日、彼は多少欣躍してやって来た。いよ/\内地で旗をあげたい、その機運が来たといふ。余もよろこんで心ばかりの餞けなどして前途を配ふてやった。
 その後、彼から二度ばかり端書のたよりがあつた。新潟と名古屋から……。 自筆であらう。貧弱な筆つきではあるが、私はうれしかった。えらい義理の堅い男だと思ふた。また音沙汰がなくなった。
 昭和三年四月の中旬、私は大阪に旅した。神戸の旅舎で突如鐵五郎の死を六號活字で二三行書かれてゐる新聞を見た。何處で死んだかわからない。
 私は大阪で演藝関係の友人に彼の生死を聞いて見た。友人は無雑作にいふた。
「海老一も死んぢやつたよ。××座の楽屋裏でぼくりいつてしまつた。それでも奴、死ぬ時、日本一の海老一だといふて死んだ。矢張おもしろい嘘があるなハハ……」
 友は簡単に片付けた。

 兄の海老一海老蔵のように在京し続ければラジオや寄席で食う術を得ていたかもしれないが、遂に流浪の民で死んだのは余りにも惜しいことであった。

 関西時代に仕込んだという「海老一鉄夫」という男の弟子から、後年、「海老一太郎」が生まれ、この太郎の弟子が鈴子、さらに現在関西曲芸で頑張っている「海老一鈴娘」と繋がる。

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