上田五万楽

上田五万楽

 人 物

 上田うえだ 五万楽ごまんらく
 ・本 名 上田 歳三
 ・生没年 1897年2月4日~1979年以降?
 ・出身地 関西

 来 歴

 上田五万楽は戦前戦後活躍した漫才師・喜劇役者。どちらかというと喜劇役者の側面の方が強かったが、1930年代に漫才界へ参入し、けれん味たっぷりの浪曲漫才を展開。高い人気を集めた。戦後は喜劇界に戻り、喜劇映画や松竹新喜劇の座員として枯淡の演技を見せた。

 戦後まで活躍した事もあってか、経歴はある程度把握できる。

 その中でも、1964年9月――雑誌『演劇界臨時増刊』の「現代の舞台俳優」に掲載されたプロフィールは特に詳しい。

上田五万楽
①上田歳三②初③井筒屋④くるいきり⑤明治三〇・二・四⑥大阪市住吉区住江(現住所)町⑦上田梅吉・会社員⑧中学出る⑨明治三七・一京都南座『寺子屋』の子役⑩松竹新喜劇⑪なむなみだぶつ⑫スポーツ・浪曲(趣味)⑬一・七二米⑭六十キロ⑮一日一〇本(煙草)⑯北千島軍人慰問の時感謝状を受く⑰おはぎケ(好きなもの)⑱一七才の時松竹劇団喜楽会一座に入り・大阪弁天座にて幹部・二〇才より劇団上田五万楽一座組織地方巡業・大一三・一〇月よりマキノ映画入社主演約二十本、昭三より実演五万楽一座にて巡業・昭三二松竹新喜劇に入る・恩師は三世實川延三郎・門下になり芸名実川延笑 長らく「義士廼家由良之助」として活動していたが、1924年頃に「上田五万楽」と改名。

 当人は初舞台を「明治三十七年一月」と言っているが、実際は1904年3月24日より南座で行われた市川市蔵一座に上置き市川団蔵と嵐橘三郎に出演したのが最初の模様か(1月は映画と人形文楽で南座で歌舞伎の上演なし)。上演は右の通り。

3月24日~4月4日 南座 
朝日新聞小説小猿
菅原伝授手習鑑 車場 寺子屋
日露交戦予備兵

 因みに4月に入ってからは演題を変えて(菅原伝授は据え置き)演じられている。

 その後、しばらく子役として出ていた模様であるが、間もなく廃業。中学まで進学したが、結局は俳優にカムバックした。根が演劇好きだったのだろう。

 当時曾我廼家喜劇に対抗して生まれた喜楽会に所属。喜楽会は田宮貞楽や千葉萬楽、宮本五貞楽が中心となってできていた劇団で、ニワカの味わいを残すナンセンス喜劇で、曾我廼家に並ぶ人気があった。メンバーのほとんどが「○楽」と名乗るのが常であったという。

「五万楽」と名乗ったのは、いうまでもなく、この喜楽会のルールに従ったからであろう。

 明治末に独立し、「上田五万楽一座」として独立。ただ、この独立はうまくいかず、喜楽会に戻ったり、これまた別の喜劇一座を立てていた義士廼家由良之助一座について、喜劇に出るようになった。

 座長の由良之助が「曾我廼家に戻る」という理由で名跡を譲られ、「義士廼家由良之助」を襲名――以来、義士廼家を率いる事になった、と三田純一『上方喜劇 鶴家団十郎から藤山寬美まで』にある。

 この一座で主に関西圏で活躍。人気は相応にあったと聞く。

 1921年、中野児童劇団の一族であった女優・中野時代と結婚。この時代は戦前戦後、剣劇女優の第一人者として知られた中野弘子の義姉であったという。

『日本女性録』に――

上田時代
松竹新喜劇俳優上田五万楽氏夫人
福岡県久留米市出身
明治33年12月25日生
旧姓 中野時代
(経歴)今村松太郎氏の二女として生る中野家の養女として入籍 学卒後東邦キネマ入社映画に出演 大正一〇年上田歳三氏と結婚 以来芸能界に活躍し多忙な夫君の健康に留意明るい家庭の中心として今日に至る

 とある。旅回りで恋に落ち、結婚したのだろうか。

 この結婚により、五万楽と中野弘子は義理の兄妹となった。

 1924年5月10日より、京都相生劇場に出演した際、「義士廼家由良之助改め上田五万楽」に改名したという記録が『近代歌舞伎年表京都編』にある。

 その後しばらくの間、喜劇一座を率いていたが、1925年頃、一座をいったん解散して、映画のマキノプロに入社。

 1926年6月8日封切りの喜劇『夢の芝浜』に出演し、主演をつとめた。

 1926年秋、当時の人気小説『鳴門秘帖』(吉川英治原作)の敵役・お十夜孫兵衛に抜擢され、脇役として地位を築いた――が、普段の印象が強すぎるために孫兵衛として威張っても、観客が「喜劇だ」と吹出す笑い話が残っている。

 それでもなんだかんだで終幕まで抜擢され続けたそうで、マキノプロと縁づくようになった。彼の喜劇映画出演は結構多かったりする。

 しばらくマキノにいたものの、『鳴門秘帖』の完結やマキノプロダクションのトラブル(『忠魂義烈 実録忠臣蔵』事件など)を理由に独立し、再び元の喜劇稼業に戻った。

 その後、東京へと移住。浅草金龍館を中心に東京の劇場へ出勤するようになる。

 この頃、どういうわけか浪曲のレコードを吹き込んでいる。独学のそれであったというが、普通に上手かったという。内外レコードから「奧丹後震災美談」「大石と村上喜劍」などをオーケストラ入りの浪曲で発売している。

 1930年5月に、娘の絢子が誕生。平成まで活躍した喜劇女優・丘みどりである。『日本女性録』に――

丘みどり
映画俳優(金星プロ)
東京都台東区出身
昭和5年5月23日生
本名 上田絢子
(経歴)現在松竹新喜劇所属上田五万楽氏の娘に生る 昭和二二年蔵前高卒 同一一年六才で市川猿之助一座にて「虹物語」で初出演 戦後西川サクラの芸名で西川ヒノデとコンビとなり活躍 朝日放送専属を経て吉本興業専属となり丘みどりの芸名で アチャコエンタツの相手役で映画放送に活躍「陽気な探偵」「チョビヒゲ漫遊記」「アチャコ青春手帖」「旗本退屈男」「右門捕物帖」出演 同二三年同プロ所属となり今日に至る

 この娘の誕生と前後して、雲井月子とコンビを組み、「浪曲萬歳」として浅草の舞台に現れるようになる。

 1931年6月、ヒコーキレコードより『娘エロ時代』を発売。

 1931年7月9日より10日間、中座で喜劇公演を実施。十八番の『じゃがいも』を演じ、京都の客を笑わせた。

 1931年9月、ヒコーキレコードより『喜劇・馬賊の夢』を発売。

 1931年11月、オリエントレコードより『泥ちゃん御用』を発売。

 同年12月、オリエントレコードより『上手』を発売。

 一方、喜劇役者としても活躍を続け、浅草萬成座などの舞台に立った。1932年3月1日の『都新聞』に――

▲萬成座 一日より安来節宗子、駒奴一座へ上田五万楽、秦玉章、成三郎、日の出家連喜代丸、勝利、新加入、五万楽主演「埋もれ木」「水兵万歳」流行小唄舞踊数種

 1932年11月、ビクターレコードより『喜劇・娘見るなよ』を発売。

 1933年1月、リーガルレコードより『娘エロ時代』を発売。

 1933年5月、ビクターレコードより『野球斧定九郎』を発売。

 1933年9月、ビクターレコードより『忠臣蔵七段目』を発売。相方は太神楽の日の出家小直。

 1935年3月、ビクターより『大東京の屋根の下』を発売。

 1935年3月29日、萬成座の再開場記念のこけら落としに出演。中野一座、義士廼家と縁故が集まった。

 1935年5月、ビクターレコードより『浪花節芝居』を発売。

 1936年8月、歌舞伎座公演の「虹物語」に娘の絢子が出演。この「虹物語」は、岡田八千代、池田窯子、木村富子の合作で、天平時代の伝説を琴や三曲を入れてレビュー調に展開する前衛的舞踊劇として注目を集めた。

 1937年春、長年勤めた万成座を脱退。漫才師に転向。

 1930年代後半に入ると妻の時代と共にコンビを結成。本格的に漫才稼業に勤しむようになる。後に妻から一条サヨリという女性コンビと変えている。

 1940年代に、新興演芸部に所属。

「五万楽ショウ」(上田五万楽とその一党)を結成し、漫才・コント・寸劇何でもありの舞台を展開した。内容は喜代駒や波多野栄一の「漫劇」に近かったという。

 太平洋戦争勃発後は慰問等でも活躍。娘の絢子も参加するようになった。

 1945年夏、樺太守備隊に頼まれて巡業を行っている。樺太前線で表彰を受けて、北海道に戻ってきた日が終戦――間一髪のところでソ連侵攻を免れたという逸話がある。

『主婦と生活』(1960年8月号)掲載の丘みどり『大泊暁部隊の小川九郎少尉』によると

(昭和二十年八月)私は数えて十六歳、父の劇団(松竹新喜劇上田五万楽)で暁部隊の慰問のため、樺太に渡りました。
 樺太での慰問が終り、宗谷海峡を渡り、稚内に着いたのは、忘れることのできぬ八月十五日でした。思えば夢のように十五年過ぎました。

 とある。

 戦後は古巣の関西へ戻り、喜劇一座を率いて活躍。松竹新喜劇にも顔を出すようになる。

 一方、娘の絢子は「丘みどり」と名乗って、西川サクラと生き別れた西川ヒノデとコンビを組み、数年活躍する事となった。

 1957年、本格的に松竹新喜劇に参加し、幹部となる。主に老け役や敵役といった渋い役に味わいを見せ、渋谷天外や藤山寛美などをよく支えた。

 1960年代後半まで活躍したものの、松竹新喜劇の分裂や藤山寛美一強体制に嫌気がさしたのか、退座。その後はあまり舞台に出なくなった。

 それでも一線から退いたのちも健在だったらしく、1979年10月に出された『キネマ旬報』の「日本映画俳優全集・男優編」の中では「健在」として扱われている。結構長く生きた模様。

 娘の丘みどりは平成に改元後も喜劇公演などに出て、アピールしていたが、今はどうなったか。

無断コピー・無断転載はおやめください。資料使用や転載する場合はご一報ください。

タイトルとURLをコピーしました