堀井清水

東京漫才を彩った人々
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堀井清水

 

 人 物

 堀井ほりい 清水せいすい

  ・本 名 堀井 一吉
  ・生没年 1915年7月?日~1980年5月8日
  ・出身地 東京

 

 来 歴

 漫才に含めるかとなると微妙な点であるが、東京漫才の本拠地であった松竹演芸場の常連であり、かつ多くの浪曲漫才に影響を与えたという観点から(それに多くの人を紹介したい管理人の思惑もあるので)採用することにした。

 出身は東京。実家は「大井軒」というカフェーで、裕福だったという。真山恵介『寄席がき話』(136~7頁)に、

大井軒という大カフェーの息子が三味線抱えての“流し”になり、ついに浪曲学校の門を叩き、いまの三波春夫や末広友若らの曲師もやったという、とにかく三味線の虫。

 とあるのが確認できる。

 流しを経て、東家楽燕が校長を勤める日本浪曲学校に入学。この日本浪曲学校は、日本大学芸術学部の下につくれっきとした学校だったそうで、学校の経営は崔永昌なる凄腕プロデューサーが一枚噛んでいたという。三波春夫は一期下の後輩だったという。

 そこで浪曲及び三味線を習い、21歳の時に卒業。この卒業公演が写真入りで『都新聞』(1937年6月28日号)に出ている。写真は用意できないが、浪曲学校の事が書かれた貴重な資料なので、記事だけ引用する。

ハリキル浪曲學校大會
東劇に溢れる観衆
引續き本日も晝夜二回開演

天下大衆の心肝に触れ、その霊魂の共鳴を呼起すものは我浪曲であると言ふ信念を常に言つてゐる楽燕が、一昨年四月日本浪曲學校を創設してから早や三年、既に四十名の卒業生を出した今日、堂々と東京劇場に出演廿七、八両日昼夜四回(判別不能)を持つた事は楽燕の(判別不能)と言つてよからう、日本浪曲學校を始めたのは、要するに若手浪曲家の正しい教育がなくてはその将来性がないと見込んでの事であつた、そして學校制度による科學的教育の下に、彼の所謂天才教育を實行してきたわけである、自分の興行を半減してもと、飛び入り公演などをやらせて天才發見につとめ、殆どその私財を投じて万全に期したなどの佳話を持つ程楽燕の熱の入れ方は非常なものであつた廿七日の公演會第一日は流石に大入満員で、晝よる二回共に東劇を大入りにしたのは當然とは言へ賞められてよからう、観客も新しい時代層を作るものと言はうか、學生や若婦人連の多かつた事は、斯界人の注目してよい點である、楽燕はこの日迄静岡縣下に出演中の處稽古指導暇を見ては上京した程、今度の大公演會には嬉しさを抑へられず自動車を飛ばして上京、やつと自分の出番迄に劇場へ来て、流石満員の盛況を喜んでゐた

出演中の卒業生も色々な階級人がゐるのも面白く、朱雀道子は未だ女學生であり乍ら堂々熱演振りで、有望さを見せてゐた、廿七日の岡野金右衛門、大石山鹿護送を演じる落合繁、雲芳雄は何れも師匠十八番物をやるので、非常なハリキリ方だつた、尚廿八日の晝の部の梶川三兵衛も、校長楽燕の得意物で、これをやる北原白峰はまだ一中學生であるなど、今度の公演は愛好者のみならず浪曲界そのものの前途に一つの若々しい光彩を投ずると言つてもよからう、尚楽燕は廿八日の晝赤穂義士外伝、夜召集令の二番をやつてゐる【寫眞上は出演者卒業の挨拶、前が室渓水師、下は堀井清水の口演】

 その後、浪曲三味線――曲師として、末廣友若・松平国十郎といった多くの浪曲師に随行をして経験を積む。若き日の三波春夫の三味線も弾いたというのだから、実力は優れていたのだろう。

 卒業後、暫くして召集令状が届くものの、これを拒否。うまい具合に慰問団に潜り込み、合法的に兵役拒否をした――というような逸話を『私は召集令を破った 芸道戦記』で読んだ気がするが、この本は未所有のため、責任のある事は書けない。

 然し、反戦主義的、戦争が嫌だったのは事実だったようで、しつこい召集令や兵役を軍事慰問や皇軍慰問でかわした、というのは本当のようである。堀井清水の本の存在は知っているものの、そのほとんどが稀覯本になっている為、知ろうにも知れない状況が続いている。

 1945年1月15日、息子の堀井茂樹が誕生。清水自慢の一人息子であった。

 戦後、焼野原の日本に戻って、浪曲を再開。GHQの方針で、仇討ちや三尺物が禁じられたため、独自のネタを弾き語りでうなる――という一人芸のスタイルを考案。所謂、歌謡浪曲の先駆けであったが、当時は認められなかったらしく、『歌謡漫談』『浪曲漫談』などと名付けられていたようである。

 1947年10月、浅草松竹演芸場に出演。『旬刊芸能ヴァラエテイ』(10月1日号)によると、

評判の藝能大會

◇漫  才  目玉・玉千代
◇漫  才  光児・光菊
◇漫  才  團治・時子
◇漫  才  マンマル・ミチオ

◇時局小唄  東富士郎
◇浪曲物語  堀井清水

◇落  語  桂枝太郎
◇落  語  三遊亭金馬
◇講  談  一龍齋貞山

◇歌謡ショウ 朝日日出丸
◇歌舞伎舞踊 浅草桃太郎

 1947年、松竹の斡旋でアメリカ・ハワイを巡業したーーというが詳細は不明。邦字デジタルコレクションにも出てこない。

 1948年頃、浪曲の新軌陸を目指して、歌謡浪曲グループを結成。

 当初は、三人でやっていたらしく、ギター・伊藤光雄、アコーディオン・小川久雄、トランペット・馬場宏がメンバーで、「ダイヤトリオ」といった。後年人数が増えたため、「ダイヤグループ」と改名した模様。

 その頃の芸風が、真山恵介『寄席がき話』に出ているので引用する。

林家三平の自前楽団『笑うリズム』に続いては、歌謡浪曲の堀井清水が率いる”ダイヤルグループ”がある。もっとも結成の年代は後者の方がはるかに古い。”ダイヤ”は和合征夫、三木俊夫、 伊藤光雄、小川久雄、馬場宏らの面々でピアノ、ベース、ギター、アコ、ぺットで、それに御大堀井の三味線が加わる。グループのほとんどがいわゆる”子飼い”という古い古いつき合いで、ペットの馬場会なんか、堀井のクントウで浪曲作家としてもなかなかで、昨秋のNHKコンクールに応募し”埋もれ木の鷲”の一節でみごと第一位に入賞している。しかもこの方のペンネームは友田聰……と抜け目もない。

以上のことでも分るように、このグループは堀井の三味線と節に、よく乗って、実にヨキ”音”を出す。浪曲の節には「合いの子」「うれい」「せめ」「あて」などがあるが、そのそれぞれを全くよく奏でる。堀井はこの嬉しいバックを得て「瞼の母」「沓掛時次郎」「一本刀土俵入り」「関の弥太っぺ」「唄祭三度笠」「弥太郎笠」など一連の股旅モノから「シェーン」「OK牧場の決闘」「誰が為に鐘は鳴る」「ジンギスカン」などのアチラ物までも、作詞作曲ももちろん自分でデッチ上げる。特にアチラ物ではピストルから機関銃まで飛び出して度胆を抜かせる。茶目ッ気の強い演出である。

それと彼堀井は、年来の悲願である世界の誰れにも弾ける三味線、どの楽器にも合う三味線、 そして――三味線の五線譜化、世界最高の楽器”三味線”の顕彰――という主張がやっと認められ”音楽の友社”から「堀井流三絃教本」の一冊が発売になり、来を期してこの三味線 の大リサイタルを読売ホールで催すことになったことで近時ますますハリきっている。

歌の方もいまの弟子青山明子で五人の歌手を世に送っている。それで旅館のオヤジでもある…… (この方は茂子夫人の受持ち)というタフさである。あの若さしさで実は大正四年生れの四十六才という不思議さからもウナける偉人?である。大井軒という大カフェーの息子が三味線抱えての“流し”になり、ついに浪曲学校の門を叩き、いまの三波春夫や末広友若らの曲師もやったという、とにかく三味線の虫。朝鮮馬山の巡業で、憲兵将校を父にビルマ派遣軍副官を兄に持つ現夫人をタッタ十五分間で口説き落したのが十六年前で、今年十四才で自分と同じ高輪中学へ通う茂樹君という一人息子に「とにかくオヤジは偉いです。トニカク」といわせるあたり正に偉い――堀井と清水と二人前を一人で使う彼、ダイヤグループと共に伸びるだろう。

 なぜか電気三味線が出ていないのは、まだこの時点では(1957年頃)、使用していなかったという事だろうか。

 1957年3月、浅草松竹演芸場の下席に出演。他の喜劇同様一枚看板であったらしく、当時の広告(大谷図書館所蔵)に、

3月下席

五一郎劇団 人情悲喜劇『楽しき人生双六』

大朝家五二郎構成演出のロマンスガールズの全国民謡歌の旅

お笑いボンゴ 服部清美
ギターと踊り 明石美雪
アコーディオン 三峰多枝子
男装の麗人 豊茂美

堀井清水とそのグループダイヤトリオ

三味線 堀井清水
ギター 伊藤光男
アコーディオン 小川久夫
トランペット 馬場宏

中野弘子劇団・蝶々座『遠山櫻江戸ッ子奉行』

腹話術(歌と楽器で)チャー坊と後藤宗吾
漫才(とかく浮世は)東右太郎 京左太郎
落語 三遊亭圓右
漫才(歌謡コント)片岡竜夫 竜子
奇術 塚田春雄

 とあるのが確認できる。

 後年、三味線の改良と発展を願い、三味線を改造して、電気と音響を生かした「電気三味線」を考案、舞台で使うようになる。

 但し、注意しておくべきは、堀井清水はあくまでも電気三味線の奏者、改造者であって、創設者ではない。三味線の電気仕掛け、電気三味線というものは、戦前、長唄の杵屋佐吉や技師の石田一治が考案して、邦楽界を賑わせたものである。

 もっとも、杵屋佐吉のそれは殆ど単発の企画に終わったのに対し、堀井清水は電気三味線を20年以上使用し続け、この楽器でテレビ出演・レコード吹込みまで行っている。この活動・活躍から、中興の祖、のような評価は与えられるであろう。

 1962年、高輪高校を中退した息子・茂樹がグループ入り。森茂樹の名義で、ボーカルを勤めることになる。

 1965年、楽器を使った歌謡漫談グループの結束と地位向上を図るために結成された「東京ボーイズ協会」に参加。そのことを記念して発行された『歌謡漫談読本』の中で、こんな自己紹介をしているので引用しよう。

 東家楽燕(あずまや・らくえん)主宰 の浪曲学校はかなりの俊秀を世に出している。堀井清水もその一人で、有望な若手浪曲家として、同時に三味線の妙手として前途を約束されていた。終戦後二年目、早くも歌謡浪曲としての名乗りを上げた。現在数多い歌謡浪曲の第一号で、作家松浦泉三郎と組んで続々新鮮な読み物を提供し、舞台に放送に花々しい活躍ぶりを示した。当時、まだNHKでは歌謡浪曲の名称は認めず、歌謡漫談の名で電波は乗せていた。

 その舞台が松竹に認められ、その手でハワイからアメリカ本土各地を長期巡演したのが昭和二十二年、これも芸能人アメリカ行きのトップである。その巡演中に深く感じたのが、「世界的な楽器である三味線を真に世界的なものにするには現在のままではいかん、基本調絃の確定を基とした五線譜の奏法が絶対に必要で ある」ということだ。かくて彼の電気三味線が生れ、「堀井雄三絃教本」の出版となったのである。

 その後、弾き語りの歌謡浪曲からダイヤグループを率いての現在のボーイズ的形態をとるに至ったのは当然の成行きであろう。浪曲嫌いの若い世代に、これが 浪曲だ! 三味線は世界の楽器だ!! ということを知らせるべく、雑音曲などのそしりも何のその、新らしい芸能の分野の開拓に勇戦奮闘しているのが今の堀井清水の姿である。

 この堀井清水が率いる「ダイヤ・グループ」のメンバーは三木敏夫、伊藤光雄、青山明子、森茂樹、片倉チエである。

 この時にはもう、電気三味線を使用していた模様である。

 また、「東京ボーイズ協会」結成に際し、『東京新聞』が当時一線で活躍していた歌謡漫談グループを連載。その中に堀井清水の事が取り上げられている。以下は『東京新聞・夕刊』(1965年3月24日号)の記事の引用。

われらボーイズ⑥
“0教教祖”を中心にドサ芝居
堀井清水とダイヤ・グループ

 堀井清水は元浪曲の曲師(三味線ひき)だ。東家楽燕校長の浪曲学校を出た。三波春夫は彼の一期後輩。二十一歳の時にそこを出ると末広友若、松平国十郎の三味線をひいて戦地慰問。戦後はアメリカ・ハワイなどを巡業。昭和二十三年ごろから歌謡浪曲に転向、チーム結成。

 現メンバーは歌い手に青山明子、森茂樹、ドラムの三木敏夫、ギターの伊藤光雄、アコーディオンの杉野正恵、時々ゲスト歌手に神楽坂とり子などを入れている。

 舞台ではまず堀井がリズム浪曲というのを三味線をバリバリひいてアドリブ入りで一席。「ロカビリーみたいなもので、お客を熱狂させるわけです」それから歌、コント、踊りなど、更にボーイズ式歌謡漫談があって終わるという盛りだくさんな構成。堀井は「ま、ドサ芝居のふんいきかな」と塩から声でカカ大笑。

 大変な議論好きである。楽屋だろうと、街角だろうと口角アワを飛ばして三味線奏法の革命をブツ。いわく「三味線が世界的な楽器にならないのは基本調弦の確定ができないからである」いわく「一万人の客の前で演奏するためには音のボリュームをあげなければならぬ。ゆえに私は電気ギターから思いついてアンプを三味線に組み込んだ、シャントロンと名付けて特許申請中である」また「三味線の糸は三千年の歴史を持つ。絹糸の微妙な味わいは電気との結合により万人のものとなった」「西洋でも最近は東洋の旋律が流行しつつある。西にバイオリンあり、東に三味線あり、東洋の神秘的な音と世界の音楽のために取り組むつもりだ」等々。グループの面々は議論の煙に巻かれつけているから仕事が終わると「お先に」かなんかいって帰って行く。最近は議論が宗教? にまで及び「自分のエネルギーのままベストを尽くす」という”0(ゼロ)の幸福”をとなえ出し、0教教祖と自称。ある新興宗教の支部長が祈伏にきたが、大論争を展開退散させたのが自慢である。

 もうこの時には、「0教」「0の哲学」が考案されていたというのだから、おかしい。 

 1971年2月、芸旗プロ出版部より『0の幸福 私は狂っている』を発行。このころ、盛んにレコード吹込みなどをしている。

 1975年、株式会社サンデーより『私は召集令を破った 芸道戦記』を出版。己の半生を綴ったというが、管理人は古書市で一読したのみであるため、無責任なことを書けない。

 晩年は、健康を害したらしく、人員を減らして、細々と活動を続けた。最後のメンバーは、神宮寺舞、森茂樹の二人だけであった。

 それでも相応の人気は保ったらしく、最末期の松竹演芸場、1979年5月の国立演芸場など、相応の舞台を踏んでいる。

 また、晩年は「東京ボーイズ協会」の監査委員としても活躍。長老としても睨みを効かした。

 1980年5月8日、気管支炎喘息をこじらせ、64歳の若さで死去。訃報は会報誌『国立劇場演芸場』に拠った。

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