隆の家栄龍・万龍

 

隆の家栄龍・万龍

栄龍(右)・万龍(左)

 

 人 物

 たか 万龍まんりゅう

・本 名 佐藤 由乃
・生没年 1911年9月6日?(10月3日?)~1975年2月9日
・出身地 新潟県

 たか 栄龍えいりゅう

・本 名 伊藤 三江子(旧姓・飯田)
・生没年 1924年2月25日~1996年10月
・出身地 千葉県

 

 来 歴

 万龍は新潟の豪農の家に生まれ。宮村小学校卒業後、芸事好きの父親の隆治が「隆の家興行」を興した事がキッカケとなり、デビュー。若い頃は、美しい看板娘として、全国を巡業していた、という。ただ、その出自のせいか、誕生日がはっきりとしていない。

 宮村小学校卒業後、父を興行主に二人の妹と共に隆の家興行を結成、女道楽(若い娘たちが諸芸全般を披露するバラエティショーのようなもの)を看板に、全国巡業に出るようになる。以下は『アサヒグラフ』(1948年8月11日号)に掲載された「漫才家告知板」の紹介文。

 萬龍さんは越後の富農の娘に生れたが父が没落して上京妹の千龍さん百々龍さんと共に隆の家三姉妹一座を作って元浅草オペラ館で所作事をやった 昭和四年漫才に転向 女の才蔵(主役)は珍らしかったので大いにウケた 現在月一回はラジオに出演するが傷痍軍人や引揚者の慰問に精を出したいとのこと猫好きでは有名で「留守中は猫が心配なので地方への進出はしません」

 また、万龍自身が隆の家の由来を語ったものに、『郵政』(1964年新春特大号)掲載の「龍年のよろこび」がある。

 最初私が十代で舞台を踏んでいた頃は「東家みどり」という名でした。その後「東家燕奴」と名乗り(女だてらに浪曲や劔劇を取り入れて)大いに高座で、女流漫才として暴れていた、ちょうどその頃です。
 生れつき私はよく夢を見るたちでしたが、何か良いことがある前には奇妙なことに、必ずといって良い位、龍の夢を見るのです。そんなことからワタシはいつの間にか夢占いというものを信じるようになっていました。
 ある夜のことでした。
 私は夢の中で大洪水に襲われていました。身体はどんどん押し流されて息もつけないくらい、すると家の庇に一匹の真ッ白い龍が手招きして(手はありませんから赤い舌をペロペロ出してだったかな?)「こっちへ来い、こっちへ来い」と呼んでいるのです。抜き手を切ってやっとの思いでその庇の側まで泳ぎついたところで私は目がさめたのです。
 翌日、私は一人で夢の中のことを思い出してました。らんらんと眼を光らせた龍神の姿、この眼の中になんともいえない優しさを堪えて――それはちょうど私のこれからの一生を守って下さる尊いものに感じられたのです。
 私は「ハッ」と膝を叩きました。(丸ぽちゃな私の膝を良い音がしました)昔、左甚五郎は不忍の池で昇天する龍神の姿を見て、いまだに残る東照宮の水呑みの龍を彫っています。
「そうだッ、龍神を私の芸道の守護神にしよう、そして芸名も龍にあやかろう」
 私は早速家号を隆の家(昇天する隆盛の意味と、父親の隆治の一字をとって)三人の姉妹が全部萬龍、千龍、百々龍とつけ、ここに隆の家三姉妹が新生し、ジャンジャン売りまくったものです。

 美人三姉妹として全国を廻った後、大正末に上京。浅草の劇場を中心に寄席や劇場へ進出するようになる。以下は『都新聞』(1926年10月8日号)に掲載された最古の部類に入る広告。

 ▲研究座 六日より五日間演藝と浪花節一座に安来節隆の家万龍、千龍、百々龍一行加入

 因みに同月、この隆の家一座へ東喜代駒が参加しているのが面白い。ここで後年の相方、駒千代と出会った模様か。

 縁戚に浪曲師、東家燕左衛門がいた事から女流浪曲師「東家燕奴」としても活躍をしていた。芝清之は『東西浪曲師大名鑑』の「前田勝之助」の項で、「万竜(東家女燕山)」と記している。

 長らく女道楽と浪曲の二足わらじで活動を続けていたが、漫才の勃興や義母、小幡小圓の存在もあって、漫才に近づくようになる。

 1929年、隆の家圓タクとコンビを結成し、漫才へ転向。相方の圓タクは男であった。但し、この頃はまだ隆の家一座の看板娘としても人気を集めており、バラエティ一座の演目の一つとしてやっていた模様。そのため、相方も数人変わっている。一時は橘ノ花香ともやっていたようである。以下は年代順にまとめた『都新聞』広告の動向。

▲萬歳舌戦會 十三、四両夜牛込亭に、出演者は、
吉丸、明月、花香、万龍、金茶九、一丸、芳子、小ゑん、松江、正三郎、九州夫、静子、一丸、源一

(1931年11月13日号)

▲駒込動坂亭 廿一日夜より五日間演藝萬歳會、出演者は

萬龍、千龍、百々龍、楽三郎、直太郎、花香、米政、圓タク、小勝、大船、小秀、張来貴、武夫、美津江、萬歌、萬菊

(1932年6月19日号)

▲三友館 二十一日より諸流演藝會 万歳(大道寺、天津城、花香、万龍、花輔、デブ子、八重子、二郎、末廣、安子)

(1933年4月21日号)

 1935年頃に妻の家妻吉とコンビを結成し、女流漫才として売り出す。この頃から男勝りの毒舌を吐く痛快な漫才を得意としていたという。

 主に浅草の劇場を拠点に活躍したが、その人気を買われて、東宝名人会やその支流である笑和会などに出演を果たしている。但し、レコード吹き込みはしていない。

 戦時中は新興演芸部にスカウトされ、同会に所属。京阪の劇場にも進出した様子が確認できる。

 1944年5月に開場した浅草松竹演芸場のこけら落とし頃まで、妻吉とコンビを組んでいたが、この直後に妻吉が失踪。戦前戦後の一時期、山路はるみ――十返舎菊次と組んでいた事もあった。

 栄龍は万龍の夫、佐藤康成――元々は豊年斎梅坊主の弟子で岩松といった――の連れ子で、幼少期は康成の実家である千葉で過ごした。

 ここには面白い逸話が残っている。

 変り種では、母娘漫才で売っている隆の家万竜がいる。三人姉妹の長女なので、婿を迎え、興行師の父を助けて、千竜、百竜の妹と共に舞台を踏んだが、四つ木の小屋で興行した際、漫才師が時間に遅れて来ない。急場を救うために万竜さんが代って出たのが、漫才を始めた動機で、当時二十四歳だった万竜は、子供も出来そうもなかったから、婿の康成さんに養子を相談した。

 ところが康成さんは、一向耳を傾けない。傾けないのも道理。康成さんには千葉の実家で老父母が育てている先妻の娘があったので、ある日、その娘がひょっこり訪ねてきた。

「始めまして、おっかさん」と挨拶されて万竜はおどろいた。「あんた結婚の時、和紙は童貞じゃと言ったじゃないの。童貞で子供が生れんの」と言えば、康成さんもすかさず「そやかて、マリヤさんみい。処女で子を生んだやないか」万事はそれでけりになったというから、いかにも漫才式。ところがこの娘が大変な代物で「おっかさん、あたしも舞台に出る」と、自ら進んで万竜の相手を買い、今では万竜、栄竜の水入らずコンビとなったというわけ。

『別冊週刊サンケイ』(1958年7月号)111頁

 ただ、これは面白おかしく脚色している感がある。上京後、義母である万龍と暮らすようになったが、二人の関係は大変良好で我が子同然に育てられた。

 因みに栄龍には、飯田音次郎という兄がおり、この人は千葉の松戸に住んでいた。奥さんはSKDの踊り子だったとか何とか、そんな話を嘗て一緒のアパートに住んでいた漫画家の根本圭助氏より伺った事がある。

 相方で娘の栄龍は、幼い頃から芸人に囲まれて育ったが、当初は芸人にならずに軍需工場の女工として働いていた。『アサヒグラフ』(1948年8月11日号)に掲載された『漫才家告知板』の中にも、

 栄龍さんは以前東京田端の軍需工場の女工さんとしていた頃から會社の演芸會で人気者だつたが十九才の時義母に當る萬龍さんに弟子入りし、二十三歳でコンビとなつた。

 とある。1942年に母の万龍に入門。隆の家栄龍と名乗る。両親が営む隆の家興行の芸人の一人として巡業に付いて歩き、芸を磨いた。

 1945年秋、母娘漫才を結成。万龍の豪快で男勝りの話芸とハスキーボイス、栄龍の美貌で瞬く間に人気を集め、ラジオなどに出演。東京漫才のスターとして君臨した。

 1950年から1年にかけて、浪曲師の芙蓉軒麗花一行に参加し、ブラジル、ペルーなど、南米巡業をしている。この思い出話は『ブラジル民謡』というネタとなった。

 1953年、帝国劇場で行われた漫才大会に出演。以来、東京漫才のスターとしてラジオ、舞台で大いに活躍した。

 1955年の漫才研究会の設立にも関与したが、同年、栄龍の結婚の為、コンビ活動を休止。関係者の話によると、結婚相手はサラリーマンで、「宝石や装飾関係の人だと記憶した居りますが」。後年、現在の松旭斎美智氏を養子にとった。

 1956年、万龍は椿一龍とコンビを組みなおす。この椿一龍は、戦前夫婦漫才で人気のあった橘真理子

 1958年の東京漫才分裂騒動時には宮田洋容体制側につき、漫才研究会を離脱。間もなく設立された東京漫才名人会に所属し、幹部待遇を受けた。

 以来、名人会関係の漫才大会や演芸大会に出演するようになる。

 但し、しばらくしてまた漫才研究会へ帰参している。

 その後は折を見て舞台に出ていたが、完全復活には至らず、いつの間にかフェードアウトしてしまった。万龍は高円寺で夫と共に暮らしていたが、1975年に死去。万龍の没年は『著作権台帳』(第十七版)に有る。

 相方であり母を失った栄龍は舞台を退き、市井の人となった。娘の美智との関係はまずまずだったそうで、晩年まで娘の舞台を見に来ていたという。

 清水一朗氏曰く、「昔、国立演芸場に行ったら、美智に母が来ている、と言われて紹介されたことがある。白髪の品のいい老婆だったが、思えばあれが栄龍さんだったんじゃないのかね」。

 栄龍の没年は、美智氏から伺ったほか、『国立劇場演芸場』(1997年4月号)に

松旭斎美智・美登の美智は、昨年10月末、最愛の母が脳梗塞で死去、「今年一年は喪に服して、ペースを守りながら静かに送ります」。

 という記載から割り出した。

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