入船米蔵(茶番)

入船米蔵(茶番)

 人 物

 入船いりふね 米蔵よねぞう
 ・本 名 板橋 啓次郎
 ・生没年 1877年8月15日~1927年以降
 ・出身地 東京

 来 歴

 入舟米蔵は明治~昭和にかけて活躍した茶番の芸人。落語家としても活躍した。魚屋につとめながらセミプロとして活動していたが、後年、談洲楼燕枝の門下に入った。漫才勃興以前の滑稽茶番に独特の趣を持っていたそうで、瀧川鯉かんとのコンビで人気があった。

  経歴には謎が多いが、元々魚屋であったという。『読売新聞』(1927年6月18日号)のラジオ欄に以下のような記載がある。

談洲楼燕枝の門へ入って梅枝その時深川蛤町の魚屋で同じ天狗連で顔なじみの男が錦枝の名で燕枝門下に居た、これとうまくあつて掛合をやるやうになつたこの錦枝が後燕玉となり入舟米蔵となつたのである。

 実家の家業を手伝う傍ら、天狗連に加入し、セミプロとして活動していたというが、柳亭燕枝に入門。「柳亭燕玉」と名乗る。

 1904年、師匠が「談洲楼燕枝」と改名した事もあってか、それに触発されて春風亭錦枝と改名。

 間抜けな風貌と独特の面白味、それに踊りも芝居も茶番もこなす芸人として注目を集めるようになった。

 1907年、森暁紅が記した批評集『芸壇三百人』の中で既に取り上げられている。

 二七七、春風亭錦枝 よだれの出そうな口元は気になれど、話口どこにか旨い処が有る、踊りは上手なれど気障りで締りが無し、芝居などさせると中々味をやる

 辛口なのは相変らずであるが、「芝居がなかなかの味」という誉め言葉を引き出しているのは偉い。

 この頃より瀧川鯉かんとコンビを組んで、「鯉かん・錦枝」として掛合茶番のコンビで高座に出るようになる。

 1912年5月、「入船米蔵」を襲名。相変わらず掛合で稼いでいたが、大正に入るとすれ違いが起こるようになった模様。

『朝日新聞』(1914年3月22日号)に――

 ◎米蔵大威張り 鹿の米蔵に或人が今度の芝居に相棒の鯉かんは謙杖等を勤めるのに何故お前は出ぬと聞くと私の様に板につく者は大役が付かぬと、蒲鉾だつて板につくソウ威張るな

 1914年秋、鯉かんとコンビを解消。『朝日新聞』(1914年11月1日号)に――

〇灰汁沢山の鹿 鯉かんを離れた米蔵の気障ものが先頃も黒田騒動の暗試合で栗山大膳にしては男が綺麗すぎると言ひたがや自ら口の端を捻つたはイヤナ奴

 この頃になると色物の色合いが強くなったそうで、音曲や珍芸を得意とした。「病人の夕暮れ」という珍芸を得意としたそうで、この概要が『朝日新聞』(1916年5月24日号)に出ている。

『泥臭い洒落』米蔵が例の病人の夕暮を踊り唸つて粉薬を飲む真似から腹を押へて苦しみ結局紙を出して高座の隅へ蹲むと前の田吾作が喝采は鼻摘み

 甚だ下品、よく怒られなかったものである。

 1917年、演芸会社に入社するも、すぐさま退社。柳亭左楽などと共に睦会へ参入している。演芸会社に重宝された鯉かんと遂に袂を分かつことになった。 

『朝日新聞』(1919年9月15日号)に、睦会所属とハッキリ書いてある。

○察しが悪い 睦会の米蔵が筒袖の衣物羽織に靴履き尻端折で電車に乗るを乗合はせ、が請負師か、連がナニ鹿さ、ウンさうかぢやア鹿の皮、請負師かは○はなし

 その後も色物枠・長老として睦会に出ていたが、震災に遭遇し、睦会が解散。落語協会に身を寄せたが、これ以降はあまり寄席へ出なくなった模様。

 1924年にラジオが開局すると、これに「掛合噺」として呼ばれるようになった。これによって事実上カムバックを果たす事になる。

 1925年12月31日、JOAKの「年忘れ寄席の夕」に出演し、鯉かんと共に滑稽茶番を披露。

 1926年5月22日、JOAKに出演し、「晩春の賑わい」を放送。

 1927年6月18日、JOAKに出演し、「長短のかっぽれ」を披露。ラジオ欄にその事情がかかれている。

 踊り抜きで聴かせる掛合噺「長短のかっぽれ」久し振に顔合せの米蔵と鯉かん
 鯉かん米蔵の掛合噺は今ではもう放送でなければ聴かれないものゝ一つに数へられる。何しろこの二人は今を去る事二昔前錦枝、梅枝と呼ばれて高座を廻って居た頃の合方で明治四十三年梅枝が瀧川鯉かん錦枝が入舟米蔵と改名して鯉かんの音曲米蔵の踊を売物に人気を集めて居たが落語界が今の様に幾つに分離する最初の頃この二人も分離して、もう一昔以上過ぎて居るこの前の放送の時一緒になったぎりでけふはほんとに久しぶりの掛合である。

 長短カッポレとは古風な掛合で、ヘタクソなカッポレを踊るボケ役にツッコミ役が「固すぎる」「柔らかすぎる」「遅すぎる」「早すぎる」とツッコミを入れる。ボケ役はそれをうのみにして、「柔らかすぎる」といわれるとロボットのように踊り、「柔らかく」といわれるとグニャグニャになり、「遅すぎる」というと手振りを適当に踊り――と、相手を呆れさせるそれである。感覚としては砂川捨丸の「舞い込み」に近い。

 目下のところこれが最後の消息である。この1年半後、鯉かんは死んだため、二度と掛合ができなくなってしまった。

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