春日富士松・雪雄

春日富士松・雪雄

雪雄・富士松(右)

春日富士松(右は晩年の相方・たけお)

水原雪雄

ハッタリーズ時代
右から水原雪雄・辻ひろし・山下こう太

(『子どもの頃に失ったものを取り戻す旅』なるブログに辻ひろしとハッタリーズ時代の写真が置いてあります。各自参考にしてください)

人 物

 人 物

 春日かすが 富士松ふじまつ
 ・本 名 島崎 正徳
 ・生没年 1919年10月2日~1991年12月20日
 ・出身地 山梨県 甲府市

 春日かすが 雪雄ゆきお
 ・本 名 菅谷 武司
 ・生没年 1928年4月9日1999年7月18日
 ・出身地 北海道 函館市

 来 歴

 戦後活躍した漫才師。富士松は、戦後直後の一時期、林家三平の名相方であった小倉義雄とコンビを組んだことがある。富士松はめまぐるしく相方を変えたため、非常に厄介な点が多い。雪雄はコメデイアン水原雪雄として有名。

冨士松の前歴

 富士松は元歌舞伎役者、という異色の経歴の持ち主。その前歴は真山恵介『寄席がき話』に詳しい。

洋服漫才編も、楽器使用の女性コンビについで男性コンビの順番となるが、第一に、三味は富士松、ギターは雪雄ハンサムぞろいだ……。
と、佐渡おけさのプロローグで人気の、春日富士松、雪雄のコンビをまずあげよう。
富士松は、故六代目菊五郎が校長だった浅草石浜町の俳優学校の優等生。しかも、女形志願で、もっぱらその方を勉強。目下の舞台でも、そのナヨナヨしさからうなずけるものがある。
「へい。顔には自信があったんですが、どうも僕の声ってものは、女形向きじゃあないってんで、無念の涙をのんで、漫才に転じました。ええ、顔は……ね」
と、この説を強調する。声には自信がないのだから、三味線を習った。終戦直後の日本中の貧困時代。富士松もご多聞に洩れず、そこで亡くなった寄席の名下座、伊藤 すい(桂小文治のツレ下座)について、月謝いらずの修業をした。そのかわり、時間は、すいさんの都合次第だから、ずい分と苦しいものであったという。
今では、なんでもイケルようになったが、これが富士松の、三味線エレジーである。それにしても上手になった。

 生年月日と出身地は『日本演芸家名鑑』から割り出した。一部資料には「林正徳」とあるが、これは旧姓だろうか。

 一時は役者を目指していたものの、俳優学校の閉鎖や戦争の悪化で、夢断たれることとなった模様。

 終戦直後間もなく小倉義雄とコンビ結成し、「春日富士松・雪雄」。当初は富志松とも表記した。以来数年間アコーディオンと三味線の音曲漫才を展開し、落語協会にも入会して定席にも出演するようになった。

 1955年前半に小倉義雄と別れ、しばらく「春日ひろし」というアコーディオン弾きの芸人とコンビを組んでいた事もある。一方、『内外タイムス』(1955年11月4日号)に、

水原雪雄、春日富士松と漫才新コンビ
ショウ・ダンサーの露田光と軽演劇の村上速夫が漫才(万坊エイト・ナイン)に転向したのはつい先だってのことだが、今度はこれももとアパン館や新宿フランス座で活躍していた水原雪雄が三味線の春日富士松と組んで漫才に転向した。
水原は二十八才、春日雪雄を名乗ってギターを奏でるが富士松のこれまでの相手役がやはり同名の雪雄だったというのは不思議な因縁。

 とあるのが気にかかる。どんなものだろうか。

 1956年11月1日、春日雪雄とコンビを結成。但し、前述の『内外タイムス』の記録と齟齬がある。

春日雪雄の前歴

  春日雪雄は春日雪緒、水原雪雄とも表記する事がある。水原雪雄の芸名が一番長く続いた。 

 出身は北海道函館、高校卒業まで同地で過ごした。中央大学経済学部の試験に合格し、単身上京。

 在学中に教員免許を取得、1952年3月、同校卒業後、横浜市立神橋小学校の教員となり、2年間、勤務――という異色の経歴の持ち主である。教師上りという点では、美和サンプク邦一郎などと似ている。

 そんな異色の経歴からか、真山恵介の『寄席がき話』では、

 雪雄はとくると、これはまた変っている。北海道の函館に生れて、高校をおわってから上京。中央大学の経済学部に学んだというのだから、将来は腹を突き出して、ゴルフをやる事を夢みていたのだろう。それがなんとなんと、中大を出て、横浜の小学校のセンセイになった。いろいろの事情、就職難とか、女難とかで……。
 それがさらに、なんとなんと、東洋興行KKの専属になって、旅回りのコメディアンになった。そして、小倉義雄とのコンビを離れた冨士松と、三十一年の十一月一日から組んで、漫才に転じたもの。

 と冷やかされていたりする。なお、生年月日と本名は『日本演芸家名鑑』から割り出した。

 1954年3月、教員を辞職し、コメディアンに転向。旅回りの一座を経て、1955年11月、浅草の東洋興行と専属を結び、フランス座のコメディアンとして舞台に出演するようになる。

 1956年11月1日、小倉義雄とコンビを解消した春日富士松に請われ、コンビ結成。但し、『内外タイムス』(1955年11月4日号)では1955年結成となっている。

冨士松・雪雄コンビ

 落語協会に所属し、協会の定席に出演。冨士松の三味線と雪雄のギターの音曲漫才を展開し、「湯島の白梅」や「滝の白糸」など新派風のネタを武器に活躍。なよなよとした冨士松と、ヌーボーとした雪雄との対比で受けたそうで、主に冨士松が主導権を握った。

 1955年の漫才研究会設立には、諸事情で(コンビの事情などもあったのだろう)入会していないが、それからしばらくして、入会した模様。

 若手の音曲漫才師として売り出され、1957年秋に行われた第2回NHK漫才コンクールでは見事準優勝を射止めている。しばらく寄席の漫才として活躍していたものの、1958年秋頃から落語協会の定席に出なくなり、翌年解散した模様である。

 当時の落語界を知る清水一朗氏より伺った話では「上野鈴本の楽屋の前で(冨士松さんが相手をつかまえて)喧嘩をしていたんだけど、その楽屋というのが、今と違って小さな庭とかがあって観客も往来できるようになっていた。その前で小言なんぞやっているのだから別れるに決まってますよ」。

 コンビ解消後、冨士松は、以降は相方を転々としながら、「三味線エレジー」と称する一人漫談にも挑戦したが、うまく行く事なく、一旦芸能界から引退。雪雄は歌謡漫談に転向し、長らく活躍を続けた。

冨士松の晩年

 この富士松は芸人稼業の傍らで、長らく造花業を営んでいたという。中でも葬儀で使う花輪や造花の製作販売などは中々の売り上げがあったそうで、漫才作家の遠藤佳三氏曰く、

「一回訪ねて行ったら大きな店を持っていて、こちらが驚いたことがね、ありますね。資産はあったんでしょうね。晩年の活動を見ると、お旦那、って感じがしました。」

 高度経済成長期の波に乗って、店を大きくしたそうで、工場を持つほどの経営者だったと聞く。そのせいか、晩年まで金払いに困ることはなく、鷹揚たる所があった、と聞く。

 一介の経営者として成功をおさめたものの、芸人の夢断ちがたく、1976年頃より、芸能界へ復帰をはじめ、「三味線漫談」「三味線エレジー」などと称し、浅草木馬館などの舞台に立ち、ピンで出演をはじめるようになる。

 1977年、春日雪緒とコンビを組み直し、復活を遂げる。翌年3月の第26回NHK漫才コンクールに出場。三味線漫才『湯島の白梅』を出し、舞踊まで披露する熱演ぶりで喝采を得たが、この出場に際し、審査員や関係者は随分と困惑したという。この時の出場者がツービート、さがみ三太・良太など若手揃いだった事を考えると、その困惑は無理もない。

 当時を知る遠藤佳三氏いわく、「確かに芸達者で、面白いには面白いのかもしれませんが、富士松さんは審査員を務めるトップさんとほぼ同期で、第2回NHK漫才コンクールで準優勝をしている経歴もありますから、関係者が困ってしまって……」。

 このコンクール後、間もなく雪緒と別れ、1978年12月、若葉しげるとコンビを結成し、「春日富士松・しげる」。若葉茂氏にこの旨を尋ねたところ、

「俺も飲食店経営して、別に生活には困っていなかったんだが、ある時、冨士松さんが来てね、コンビを組んでほしい。返事に困っていると、百万円の札束を出して、これは準備金、っていったもんだから驚いたことがある。結局、そこまでいわれては……と思ってコンビを組んだんです。

 というような旨を話して下さった。

 1979年、第27回漫才コンクールに出場。『シャレ落ち夫婦喧嘩』なる演目を披露しているが、結果は振るわなかった。

 これ以降、流石に懲りたと見えて(関係者からのクレームもあったと聞く)、以来コンクールに出場する事はなかった。

 以来、1年近く落語協会系の定席に出演していたが、1980年、若葉茂がコンビ解消を申し出た為、コンビ解散。

 同年9月、歌謡浪曲の鹿島伸とコンビを組み直し、「富士松・伸」を結成。引き続き落語協会系の定席に出演していたが、こちらも長くは続かず、1981年8月頃解散。遠藤佳三氏によると、

「なんか鹿島さん雇っているようでしたね。鹿島さんも自分のチームを持っていたのに……それと兼用でやっていましたから、多分別で謝礼を渡していたのでしょう」。

 1981年8月下席より、年下の春日たけお(本名・井上蝶次 1937年4月10日~? 立川市出身)とコンビを結成。このコンビはうまく行き、富士松が没するまで続けることが出来た。

 然し、『日本演芸家名鑑』では、1982年4月コンビ結成とある。冨士松と年譜が食い違っていて地獄である。よしてほしい。

 落語の間に挟まって三味線を弾き、時折芝居の真似事をする古風な音曲漫才を演じていたそうで、凄まじいアナクロニズムの芸で、寄席ファンに衝撃を与えたと聞く。

 1991年、同年限りで落語協会を勇退という宣言を出し、寄席まわりに勤しんでいたが、その年の暮れに死去。宣言した勇退は叶わなかった。遠藤佳三氏によると、来る引退に備えて、大々的に告知をし、引退披露目の手ぬぐいを作っていたというが、これが香典返しの一つになってしまったというのだから、なんとも無情なお話である。

その後の雪雄

 漫才コンビを別れた雪雄は、伝手あって、一時期芸能界から一線を退き、ハワイへ移住。同地でナイトクラブと劇場を経営したという。

 然し、半年で失敗したらしく、『東京新聞夕刊』(1965年3月20日号)に掲載の『われらボーイズ』の中に「のちハワイへ行ってナイトクラブと劇場経営をまかせられたが半年でつぶした」とある。無責任の限りである。

 帰国して間もない1961年頃、再編成をした「辻ひろしとハッタリーズ」のギタリストとして加入し、歌謡漫談に転向。

 三木のり平や大村崑のように、ずり落ちた眼鏡をかけた三枚目の役回りとして活躍。1965年に発足した「ボーイズバラエティ協会」の初期メンバーとしても名を連ねている。

 1966年、ハッタリーズを脱退、新たに「冗談プレイボーイズ」を結成。この頃、コメディアンとしての活動も再開し、喜劇の舞台などにも立つようになった。

 1970年、「冗談プレイボーイズ」を発展させる形でコミックバンド「プレイボーイズ」を編成した。長らくコミックバンドを率いる傍ら、コメディアンとしての活動を続けてきたが、思うところあって、グループ解散。

 1977年、春日富士松とのコンビを再結成する事となった。翌年3月の第26回NHK漫才コンクールに出場、三味線漫才『湯島の白梅』を披露しているが、完全復活には至らず、1年足らずで別れている。

 コンビ解消後は水原梅介とコンビを組み、「ぼやきジャッキー」なる名前で活動。さらに、コンビを転々として、1980年、ボーイズ時代の知り合いだったみのべ実とコンビを組み、音曲漫才「お笑い新幹線」を結成。

 みのべは元々美山ジロー、石田正巳と共に「お笑い新幹線」なるグループを組んでおり、再編成という形で参加した模様。このコンビで演芸会や寄席へ出演。

 1991年、ボーイズバラエティ協会の人事異動に伴い、理事に就任。1994年頃には副会長へと昇進。会長灘康次の右腕として活動を続けてきたが、1996年頃、ボーイズバラエティ協会相談役へと退いた。

 晩年、歌謡漫談、コント、コメディアンと器用な所を魅せて活動を続けていたが、間もなく病を得、21世紀の幕開けを見る事無く没した。

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