ミス高峰・ミセス高峰
人 物
ミス 高峰
・本 名 岡村 保二
・生没年 1933年~ご健在?
・出身地 新潟県 加茂市
ミセス 高峰
・本 名 南 マチ子(一時・岡村)
・生没年 ??~ご健在?
・出身地 ??
来 歴
ミス高峰・ミセス高峰は戦後活躍した漫才師。ミス高峰は高峰青天・幸天で売った青天、ミセス高峰は青天の元妻で相方――というややこしい関係であった。リーガル天才一門に属し、長く活躍したが、後に夫婦そろって講談師・神田山陽の門下となった。
ミス高峰の経歴については、「東晴々」を参考にせよ。
ミセス高峰の前歴は『漫才』(№16・1969年)に掲載されたプロフィールに詳しい。
夫婦じゃないの ミスター高峰・ミセス高峰
男女コンビでステージに立つ場合、それが夫婦であってもなくても今はあまり問題ではないが、夫婦でないコンビが夫婦のような型でステージに立つのはチョット珍らしいケース=ミスター高峰・ミセス高峰がそれである。
ミセス高峰は児童劇団から軽演劇と芸歴は古いが漫才はミスター高峰と組むのが始めて。 ミスター高峰はかつて「雨が降っても晴天です好天です……」と活躍した青天幸天の青天で・リーガル一門の最古参弟子。背のスラーッとした二枚目で学生時代は高校・大学(早稲田)を通し卓球選手として国体にも出場したスポーツマン・それに将棋も段もちときているので頭も一人倍きれる。
「秋田実先生が上京されると・いつも将棋のお相手に指名されます」とうれしそうに語る彼を、ミセス高峰がいつ迄この侭放っておくか?
=念のため二人は独身&独身=
八月一日にスタートしたこの新コンビに、 グループ21の仲間達は温かい拍手を贈っている。
コンビ結成は1969年8月1日と見るべきだろうか。
このコンビで、東京太・京二、大空みつる・ひろし率いる「グループ21」に参加し、一時期はこうした若手たちの鎬を削っていた。
しかし、ミセス高峰・ミス高峰の名称は長続きせず、1970年に「高峰青天・南マチ子」と改称する。達者な青天が、純粋なマチ子をリードしながら、マチ子が容赦なく青天を攻める――というようなオーソドックスな夫婦漫才を得意とした。
1971年4月12日、第19回NHK漫才コンクールに出場。当時の紹介が残っているので引用。
ことしの初参加は祝天・祭天、Wエース、清美・由美とこのコンビの計四組であるが、祝天・祭天をのぞいて、すべて芸名をかえて出場している。古い衣はぬぎすて、心身を一新して、このコンクールに臨む心意気が痛いほどわかる。
この二人は、つい去年までミスター高峰(青天)・ミセス高峰(マチ子)といっていた。四十四年八月の結成だから、コンビとしては一番新しい。
もっとも青天はかつて青天・幸天で鳴らし高峰青天で、リーガル門下の最古参だから、キャリアのほうは充分。つまり旧名に復したことになる。スマートな二枚目で、高校・大学を通じて卓珠選手として国体に出たこともあるというスポーツマン。ジャイアント馬場をイトコに持つ。将棋も段もち。
マチ子も児童劇団に長くいたが漫才は新人だけに、どうしても青天のリードにおんぶする。素人くさい対話が、逆に新鮮さを感じさす。ネタの中で時に夫婦になったり、恋人になったりする。きようのコンクールでは、唯一の男女コンビである。
その後、どういうわけかこの二人は結婚。数年間夫婦であったという。
王道な活躍を続けていたが、1972年10月にコンビを解消。1973年正月、夫婦そろって神田山陽一門に入り、講談師と転身。青天は旧名のまま、マチ子は「神田紫」と改名した。『講談研究』(1973年4月号)に――
〇漫才のリーガル天才・秀才門下だった高峯青天は、先頃「講談瓦版」のタイトルでもとの芸名のまま山陽一門に参加した。
とある。また、『リハビリテーション』(1974年10月号)の中に講談入りの事情が少しだけ触れられている。
さて漫才コンビを解散したのが四十七年十月、そして昨年の正月、神田山陽師に入門、 講談界に入る。びっくりしたのが何んとお客さんの数、成程これでは亡びゆく、又忘られゆく大衆芸能といわれても仕方がない。でも最近は若い人たちのお客さんも少しづつではあるが増えている。聞けば聞く程味わいのある大衆芸能の第一位は講談巷談では無かろうか。日本全国で僅か四十人足らずの職業講談。その中にあって小生が講談界のプリンスとして活躍する日ももう直ぐ来ると思う。 その日の一日も早く来たらん事を祈りつつ。(講談師―タイトルを巷談かわら版という)
入門直後に講談協会が分裂する。師匠・山陽と共に日本講談協会を立ち上げ、そちらについた。
1974年末、青天は「神田勢山」の名をもらい、改名。
1975年4月、紫は「はすき・かなりや」と改名。『講談研究』(1975年5月号)の中に――
神田山陽門下の異色女流、神田紫は四月から「はすき・かなりや」と改名しました。ハスキー・ボイスの「はすき」です。
しかし、この名前は流石にあざとすぎたとみえて一年足らずでもとの「神田紫」に戻している。
1975年6月、神田勢山、はすきかなりや、田辺波浪の三人が二つ目に昇進する。
この頃、勢山と紫は「異色講談師」として売り出され、一時期はちょっと有名であった。
神田紫の美貌は有名で、『寄席爆笑帳』にこんな話が出ている。
三十女が十六歳では…… 神田紫
女流講談師の名前として、現在の神田紫は二代目である。
初代は大衆演劇の出身で、リーガル天才・秀才門下の漫才師と結婚し、高峰青天・南マチ 子の名で漫才をやっていた。その後夫婦そろって漫才に見切りをつけて、神田山陽の門に入り、講談師になり、亭主が神田勢山、女房が神田紫と改めた。時を同じくして、小金井芦洲 門下の小金井清洲がリーガル天才・秀才門下に移って漫才師高峰東天となったので、講談界と漫才界の珍しいトレードとして当時談判になった。 南マチ子改め神田紫は三十代のなかばを過ぎていたが、小柄で童顔で、ことに写真うつりが若く、高座姿の写真は二十歳ぐらいにも見えた。
昭和四十八年、天の夕づるが本牧亭で太腿もあらわなポルノ講談を演じ、講談界が賛否両 論でまっ二つに分裂した(山陽、光陽、貞丈、一鶴などの講談協会と、ろ山、伯治、芦洲、貞水、 琴鶴などの講談組合とになった)とき、両派それぞれ新しい仕事場の開拓につとめたが、講談協会は熊本の寄席との契約に成功して、協会は早速出演者の写真を送った。その中に神田紫の写真があったわけだ。
寄席側は神田紫に着目した。「この娘はハタチ前だろうな。十六歳にしても通るだろう」と、看板に早速、「十六歳の天才少女講談師来る」と大きくうたった。
さて、初日を迎えて、神田紫が登場した。客があきれた。「こりゃどげん見ても三十は超えちょると」と、客席がざわめく。まさか入場料を返せとまではならなかったが、寄席がはねたあと、誰が書いたか表の看板に、「紫」という字がコノイト(此糸)ともじれることから、 「コノイト(この人)インチキ」と落書きがあった。
その後、神田紫の方は長続きせず1979年頃に廃業。今の紫さんが正式入門したころにはすでに辞めていたと聞く。その後の消息は不明。
神田勢山はその後も山陽一門のホープとして活動していたが、1982年に山陽一門を離脱し、フリーとなった。『講談研究』(1982年3月号)に――
▼神田勢山は事情あって師匠神田山陽門をはなれ、講談協会を退会した。
とある。その後はフリーの講談師として活動を続けていたが、昭和末に山陽一門との関係をこじらせたそうで、1990年に破門を受けている。
しかし、破門を受けてもなお勢山は特に名前も返さず、講談師として高座に立っていた。その後は独自に勉強会などをこさえてアマチュアの育成や、独自の新作講談を演じたりしていたという。
2003年4月、中野区議会議員選挙に立候補。落選をしている。
2013年には「芸歴60年パーティ」を実施したという。
2020年当時では健在だったらしく、立川志ら玉氏が新井薬師内の木札の奉納者にその名前があった事を確認している。