高原妙子・松林桂右

高原妙子・松林桂右

 人 物

  高原たかはら 妙子たえこ
 ・本 名 松原 玉江
 ・生没年 1924年7月12日~1996年以降
 ・出身地 長野県

  松林まつばやし 桂右けいすけ
 ・本 名 松原 敬三
 ・生没年 1920年4月14日~1996年以降
 ・出身地 長野県

 来 歴

 戦後に活躍した夫婦漫才であるが、ヒジョーに謎が多い存在である。一枚だけ写真が残っているので、これを掲載する。

『出演者名簿』や『文化人名録』等を覗くと、両方長野生まれの旨が明記されている。出生年などもここから割り出した。

 前歴には謎が多い。長らく長野県に居たようである。1946年には息子のサイクル松林を長野県で生んでいる。

 1955年、漫才研究会発足に参加し、会員になっている。その頃から突如として活動が目立つようになる。上の写真にあるようにギターとアコーディオンを持った音曲漫才だった。

 当時を知る青空うれし氏や新山ノリロー氏にお尋ねすると、「兎に角いい人で、他人を押しのけて自分の芸を見せてやろうというタイプではなかった」、「性格的にはすごくいい人で、人格者ではあったけど、芸人に向かない性格でもあった。あまりにも人が良すぎて売り出すような気配がなかった」、「夫婦仲も悪くなかったし、悪い噂の立つような漫才師ではなかった」というような事である。

 よく言えば人格者、悪く言うと消極的な漫才師だったようだ。そのせいか、表舞台にはあまり出られず、長らく浅草の舞台や巡業が中心だった。

 1989年時点では引退をしていたが、健在だったようで、神津友好『にっぽん芸人図鑑』のサイクル松林の頁に、

 すでに引退したが東京漫才の長老、松林桂右、高原妙子コンビが両親。十六歳のときに自転車曲乗りの名人ミッキー山本に弟子入り。師匠は「芸はぬすめ」と、なに一つ教えてくれなかった。
 独学で一輪車のショーをくみたて、米軍キャンプやわりから、ようやく昭和四十年に船橋ヘルスセンターで初舞台、生活するために一日二十回もステージをつとめて、帰りに足が動かなくなることもあった。
 現在、太神楽曲芸協会員だが、最近の学校などにおける一輪車の普及でユニサイクルインストラクターとして技術指導の仕事も多い。年季が見えるプロのステージ。昭和二十一年長野生まれ。

(神津友好『にっぽん芸人図鑑』183頁)

 という記載がある。

 1996年にサイクル松林が死去。その頃にはまだ健在だったらしい。写真家・美術家である森直実氏のブログ(http://blog.naomi-mori.main.jp/?eid=116)に、サイクル松林の話が出てくるが、カメラをくれた父上というのは間違いなく敬三――桂右であろう。

 だが、それ以上の事は判らない。サイクル松林の子孫が居ればおのずから知れる事なのかもしれないが――

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