内海突破・並木一路

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内海突破・並木一路

戦後直後、人気絶頂期の二人

晩年、再結成をした二人

 人 物

内海うつみ 突破とっぱ

・本 名 木村 貞行
・生没年 1915年2月24日~1968年6月8日
・出身地 愛媛県 宇和島市

並木なみき 一路いちろ

・本 名 松村 興優
・生没年 1912年5月13日~1990年代?
・出身地 東京 本郷

 戦前戦後に活躍した東京漫才の大スター。放送媒体を中心に活躍をつづけ、漫才師として一世を風靡した功労者的存在でもある。

 突破の出身は南宇和郡内海村魚神山。父親の助六は建築業を営んでおり、愛媛県各地を転々とした。兄の力馬が御荘金吾と名乗ったのも、御荘村の生まれだからである。

 戸田学『凡児無法録――「こんな話がおまんねや」漫談家・西条凡児とその時代』に「小学校を六年間に七回かわったという」とある。但し、この出典元は不明。

『愛媛県史人物篇』に芸能界入りまでの経歴が出ているので引用する。

内海突破 大正4年2月25日南宇和郡内海村魚神山の生まれ。本名は木村貞行。父は建築業であったので県内各地を転々とした。小学校卒業後は宇和島市内の商店にも奉公したが、のち大阪市役所港湾局に勤めながら、浪華商業を経て、関西大学専門部を卒業する。

 また、『人事興信録』(第24版)にも、経歴が載っている。

 大正4年2月25日愛媛県助六の二男に生る関西大学専門部中退大阪市役所港湾局勤務昭和11年西条凡々の芸名にて漫才の初舞台を踏み後内海突破と改名浅田家日佐丸平和ラッパ一座吉本興業籠寅演芸部浅草義太夫座を経て並木一路と組み同16年東宝演芸会社専属となり東宝名人会日劇に出演同24年コンビを解消NHK専属となり、「陽気な喫茶店」「のんきなタクシー」等で活躍……

 浪華商業学校には後年の師匠となる西条凡児が在籍しており、面識があった。学生時代は応援団に入団。この時の応援歌や演舞から着想を経て、後年応援団の漫才を作っている。

 関西大学専門部に進学するものの、中退。卒業と記されている資料もあるが、中退が正しいようである。

 大阪市港湾局へ正式に入社し、事務員として働いていたが、芸人の夢断ち難く、港湾局を退職。戸田学『凡児無法録』では「大阪市役所港湾部に務めたが、上役と喧嘩をしてやめたという。」とあるが、出典が明記されてないため、真偽不明。

 1936年2月26日、西条凡児に入門し漫才師となる。その前から芸能界にはいたようで、小島貞二は『漫才世相史』の中で、「一時期水谷正吾(水谷八重子と島田正吾が好きだったそうだ)の名で旅役者の群れに投じていたこともある」と記している。

 入門の経緯は戸田学『凡児無法録』に詳しいので引用する。

(2・26事件当日に神戸へ引越したという話があって)凡児の記憶はそうではなく、雪の降る、この日、ひとりの男が同窓のよしみで弟子にしてほしいと頼って来た。木村貞行のちの内海突破 (初代)だ。どちらにしても神戸への宿がえはこの頃のことであろう。
 木村貞行は大正四年二月二十五日、愛媛県南宇和郡内海村字魚神山に生れ、小学校を六年間に七回かわったという。浪花商業学校時代は応援団長をやり、その後、大阪市役所港湾部に務めたが、上役と喧嘩をしてやめたという。

 1936年、師匠の凡児とコンビを組み、「西条凡々」と名乗り、同年4月1日、神戸新開地「千代之座」で初舞台を踏む。早くからその才能は注目されたものの、諸事情あって西条凡児の元を去った。以下は『凡児無法録』に掲載されている離脱の経緯。

 その浅草演芸館出演中に木村貞行が訪ねてきた。
「先生、勝手をしました。二年前のおわびにまいりました。 ただいまは、この近くのガラス湯の通りのミルク・ホールの二階を借りて、どうやら仕事をしております。先生にいただいた『西條凡々』はもったいないので、生まれた四国の地名をとって、『内海突破』と申しております」。
 木村は内海突破という名前で仕事をしているらしい。その時、「奥さんの指輪と、お母はんの金の義歯を、通用のためのにお借りして行きました」。
 と白状した。
 突破は、一緒に出奔した谷とともにそれらの品を質屋へ持って行った。当時、凡児の母親・ふさは食事のたびに、
「どこへ忘れたんかいなあ。もう先が知れとるのに、新しいのをこしらえるのももったいない」
 とよく、ボヤいていた。珠子は凡児から犯人日目の件を聞くまで指輪紛失のことは何もいわなかった。

 その後の動向は『潮』(1962年10月号 137〜139頁)に掲載された『突破談義』に詳しいので引用。この資料を探すのが大変だった。わざわざ立正佼成会まで訪ねて行ったのは思い出である。割かしいい対応をしてもらった。

 私が浪商を卒業して大阪市役所に勤めたものの落着かず、子供の頃から憧れていたし、同じ役の字がつくのなら役所よりも役者になろうと、あちらこちら頼んでみたが、背は低いし顔もご覧のとおりなものだから、何処でも体よく断られ、半分やけを起こして飛び込んだのが漫才界で、昭和十一年四月一日が初舞台です。
 場所は神戸市新開地の千代廼座(今はありません)最初の芸名は師匠西条凡児とコンビを組むため西条凡々、でもこの師匠と芸名には僅か半年でさよならして内海突破と改名し、新コンビ原田活歩君を連れて広島新天地の演芸館に看板を掲げて以来二十六年間使っている芸名だけに、本名以上に愛着を感じています。
 この芸名の由来は、私の郷里が愛媛県南宇和郡内海村なので生まれた村の名と、その当時古川ロッパさんが全盛期だったのであやかるべく、しかも、瀬戸内海を突破して黒潮躍る太平洋へ乗り出さんと希望に満ちて付けたのですが、どうやら名前負けの感じです。

 上京後、「内海トッパ」の名前で相方を転々とする。鳩ポッポとのコンビを除き、殆どは結成と解散を繰り返すような有様であったという。

 内海突破の芸名は出身地の「内海」と、当時人気を集めていた喜劇役者の古川緑波を私淑して名付けたそうで、『愛媛県史 人物篇』に、「古川ロッパにあやかり、故郷の名をとって内海突破と命名」とある。

 一方、一路は旅回りの役者の家に生まれ、幼い頃からドサ回りの劇団を転々として育った。幼少期には謎が多い。

 1936年、上京して粟島すみ子劇団に入団。粟島狭衣に師事して劇場に出演するようになる。

 まもなく独立し、「古沢隆一」名義で剣劇の梅沢昇、不二洋子一座などを渡り歩いた。

 1938年、粟島劇団の同僚、村瀬と漫才に転向し、「大山キリン・ビール」を結成、背が高い所から大山キリンと名乗る。兵隊漫才や寸劇風の漫才を武器に、浅草の劇場に出演するようになった。

 1940年、太神楽の鏡味小仙の仲介で内海突破を紹介される。コンビ結成の話が持ち上がったとき、「突破とはやめろ」と止められたという。『週刊読売』(1965年6月20日号)の連載、近藤日出造『対談やァこんにちは』にコンビで呼ばれた際、

 近藤 漫才としては、突破さんのほうが先輩
 一路 大先輩です。僕はそれまでに、一年ぐらい漫才ふうのものをやっただけで。
 突破 彼の舞台を見にいきました。浅草の木馬館でしたか。「おれと組むことになったキリンビールっての、どっちだい」「背の高いほうだ」目の前でいっちゃわるいけど、幼稚な漫才やってましてね。それで、仲介の労の人といっしょに会った。そうしたら、わたしにあこがれていた、いうようなことをいうんですよね。
 一路 自分に都合のいいことばかりいってるね。(笑い)
 突破 それでね、キリンと突破じゃゴロがわるいし、わたしは山本有三の『真実一路』という小説が大好きだから……。
 近藤 ほんと?(笑い)
 一路 結局「突破」に対しては「一路」だ。「一路突破」がいいんじゃないかということで……。
 突破 一路は並み木路だから、並木一路がいいだろう……リンゴの歌の並木路子よりも、並木一路のほうが早かったんです。

 と本音をぶちまけている。

 1940年9月、鏡味小仙の斡旋で大山キリンとコンビを結成し、「内海突破・並木一路」と改名。

 コンビを組んだ二人は、小仙等の斡旋で、義太夫座などの浅草の劇場に出ていたが、秦豊吉らに見出される形で、1941年4月下席より東宝名人会の若手公演「笑和会」に招聘され、東宝小劇場の舞台に立つようになる。

「青春コンビ」と銘打たれ、都会的なカラーを生かしたシャレづくしの漫才を展開。学生層やインテリ層を中心に爆発的な人気を博した。その人気と実力が認められ、東宝笑和会の常連となり、東宝との専属契約を結ぶ事となった。

 1942年2月上席、夜の名人会に抜擢され、名だたる名人やお歴々の間に挟まって漫才を披露。名実共に売れっ子漫才の一組として数えられるようになった。

 多くの漫才が時局的な漫才を披露する中で、二人は洒落とダジャレを多用したほのぼのとしながらも、都会的なエスプリにあふれた漫才を展開。この独特な芸風は若年層を中心に人気を集めた。

 立川談志はこの二人の漫才をよく覚えており、『立川談志遺言大全集14』の中で、

 戦中の人気ナンバー1の漫才に並木一路・内海突破がいた。突破は、戦後、NHKの「陽気な喫茶店」という人気番組で「ギョギョッという流行語を生んだ人だが、この一路・突破は漫才時代はこの部分を「この間、風呂ン中で会ってね、お互い何にも着ていないんで思わず……裸のまま』 で失礼します」と演った。
書いても判るまい。口に出してみると、判るよ。“裸のまま”と“高田馬場、音が似てるのだ。このネタはそのまま「山手線」という一路・突破の当たりネタの一つであった。
「君、今度、大きな航空母艦の、新しいのが出来たんだよ、短く言うとシンオウクウボ」
ところが痴楽師匠のは単純に「新大久保のおじさんに」とか「高田のバーヤ(婆ァのことか)」、いずれにしろ駄洒落になってない。とにかく工夫がない。

 と、柳亭痴楽の芸と比較して見せている。

 1944年、戦局悪化に伴い、一路が召集を受け、麻布六聯隊に入隊。コンビ活動を停止する。間もなく外地へ飛ばされるが、朝鮮龍山へ出兵。

 一路出征後、突破は一人で司会漫談や歌謡ショーの司会をやっていたが、1945年4月、応召され、同月15日「相浦海兵団」へと配属される。同地で兵隊教育を受けている間に終戦。武装解除後に復員、芸能界に復帰した。

 間もなく並木一路も朝鮮から復員し、コンビを復活。明るくユーモアあふれる上品な漫才で一世を風靡し、戦後を代表するコンビとして君臨した。その人気を買われる形で、ラジオや映画に多く出演。

 1949年3月、10年続いた並木一路とのコンビを解消。人気コンビの突然の解消は、世論に大きな衝撃を与え、様々な批評や批判が飛び交う形となった。以下は其のことを報じた記事の一例。

 ……コンビは足掛け十年になる、人気を得たのが丸の内街で、奇抜に富んだスマートな掛合いが若いサラリーマンや学生層に支持されるという漫才人には珍らしい賣出し方をしたものだが、芸能界を□の不振はその名の如く人気街道を一路突破して来た二人にも行詰りを感じさせるようになった、それに加え、有名になるに従ってわがまゝが出るようになつた二人が衝突する機会が多くなってきた(サラリーマンタイプの一路と台本も書き一切をきりましていふ派手な突破ではどちらかが譲歩しなければ無理なのだが)これが舞台に現れてだん/\気が合わなくなるし別れ話も幾度出たが、突破と別れることの不利を知っている一路の譲歩と興行会社、ひいき筋の仲裁で納まつていた、こんな内紛が内輪で済んでいるうちはよかつたが、次第に舞台に現われるようになり昨年あたりからファンの間にも「一路・突破はちかごろ増長している」「行き過ぎだ」という声が高まってきた

『ラジオ新聞』(1949年4月21〜27日号)

一路突破はどうして別れたか

記者 一路さん、突破さんと別れなければならなかつたソモその譯は
一路(体に歌舞伎のシナを作りながら)アーイ、恋しい突破様と別れなければならなかつたソノ譯は(ハンカチを眼に)オロロン/\トッパ/\/\
歌笑(註・三遊亭)オイ/\、下手な洒落はよせよ
一路 ハイどうも済みません、いや本当の所は一路突破の漫才は行き詰つてスランプになつてしまつた、この壁を破るには一応二人は別れて夫々新しい道を拓こうではないかと突破君から申し込まれたのです、私はこの際別れるのはスランプではなく逃避だと言つて非難したのですが

『アサヒ芸能新聞』(1949年8月9日号)

 コンビ解消後、突破はNHKと専属を結び、『陽気な喫茶店』『のんきなタクシー」などといったレギュラー番組を抱え、一躍ラジオの人気者となり、一世を風靡した。

 特に『陽気な喫茶店』は戦後ラジオ番組の中でも指折りの当たり作品で、漫談家の松井翠声との軽妙洒脱な掛合は、今でも語り草になっている他、何かに付けて、「ギョ」「ギョギョのギョ」と奇声を張り上げて大きな目玉を見開くギャグでも大当たりをとった。

 その人気は凄まじかったと見えて、『日本俗語大事典』などにも、「ギョ」の項目がある。『アサヒ芸能新聞』(1950年3月14日号)に、

 ”ギョ‼”とは擬音で日本古来の言語だとさる文学者がいつたとかいわないとかだがそれは兎もかくとしてこの”ギョ‼”で一體NHKの人気番組筆頭にのし上がつた”陽気な喫茶店”すでに四十七回を数えるに至つた
この番組が発足したのが昨年一月先ず内海突破氏を中心に松井翠声が加わつてささやかな座談会に過ぎなかつた
 当時は作者四人が交たいで持つて回つたこの喫茶店明日の方針にゆきくれて陽気どころか主催者側ではむしろ”沈憂な喫茶店”ですらあつたというこうした有様がいつしかゲストにミスNHKの荒井恵子を迎えたり手紙の形を借りたりしてどうやら突破、翠声がはからずしも一致した”ギョ‼”が連発できるようになったのは三十回を日数を経てからでそれまでの苦労時代は言語に絶するものがあつたようだ

 また、元活動弁士出身の司会者、西村小楽天について、司会の勉強をし、歌謡ショーやラジオ番組の司会者としても活躍。『アサヒグラフ』(1952年7月23日)掲載の『舞台の司会者告知板』に、

 内海突破氏(37)

 本名木村貞行 愛媛縣生 昭和十五年に南京広東方面への慰問団一行に加わり その司会で評判を高め 翌年 一路突破の名コンビで軽音楽大会の司会をやり「これが当つて その地位を確保した」この道の師匠は西村小楽天 当初はプログラムのワクの外に名前が出る程度だつたが 今では「出演者が突破の司会ならOKする」ほどの大御所――

 とある。その一方で人気が高まるに連れて仕事に対する注文やトラブルも増えるようになる。また、三回の結婚と離婚は『アサヒ芸能新聞』をはじめとする芸能誌を大いににぎわせた。

 突破と別れた一路は漫才を続投。1949年夏、宮田洋容とコンビを組み、「洋々・一路」を結成。二枚目同士のスマートな立体漫才を武器に放送や舞台で活躍。なお、コロムビアトップと組む話もあったが(当時青空トップ)、これはご破談となっている。

 洋容とは中々息の合うコンビだったそうで、松浦善三郎は、『アサヒ芸能新聞』(1953年2月3週号)掲載の『帝劇関東漫才大会』で、

つづいて一路・洋容、これも何時もと変らぬネタ。濃青ビロードのワリドンにこのコンビの白っぽい背広は極めてマッチして、ヤジロー・キタハチの場合と違ってクッキリ浮び上って絶。洋容のボケに女性の笑い声しきり(十五分)。

 と激賞しているが、1953年3月24日限りで洋容とのコンビを解散。『朝日新聞夕刊』(同年3月12日号)によると、円満解散だったという。

別れもたのし
一路・洋容コンビ解消

  漫才の並木一路、宮田洋容は放送では先月24日の文化放送、舞台では今月24日の熱海での興行を最後に、約四年間のコンビに終止符を打つことになった。コンビ解消の原因は、洋容が子供でもわかる安易な演出で演技も軽くリアルに行こうとするのに対し、一路は飛躍的な演出を希望とする演出上の見解の相違ともう一つの難点は二枚目と三枚目がはっきりせず、お客が戸惑いしている点をお互いに感じて行詰りがきたもの。
コンビ解消後の行き方について洋容は、音楽をとり入れた漫才を希望して、大阪で漫才をやっている女性とのコンビを交渉中で、23日には決るらしく一路とのコンビで出演していた文化放送の「漫才電車」も4月からこの新コンビで再発足し、ピアノ伴奏にとり入れた新形式で放送することになっている。
一方、一路の方はきっぱり漫才をすてる決心で、映画俳優として身を立てたいという意向を持ち、夢としては、テレビにそなえて女性を交えた三人の立体漫才といったものを考えているが、九年間のコンビであった突破とわかれた時と違って、お互い芸の上のケンカはしても、個人として将来とも交際するという円満なわかれかたなので、当分はあせらずに勉強するといっている。

 1955年2月、漫才研究会発足に伴い、元相方の並木一路と共に賛助会員として参加。同年春に行われた発足記念大会にはゲストとして出席。以来、ラジオ『陽気な喫茶店』『のんきなタクシー』などで、コンビ活動を再開するようになり、共演も増えるようになった。

 1956年1月、並木一路とのコンビを復活させる。このコンビで東宝名人会や演芸場などに出演したが、単発のような形で終わった。

 1961年3月、東京漫才協会設立に関与し、両人共に賛助会員として名を連ねた。

 1965年3月、芸能プロダクション「水車」の斡旋や周りの推挙もあり、並木一路とのコンビを復活。6月4日、日劇で行われた畠山みどりショーで正式に復帰した。以下は『東京新聞夕刊』(3月6日号)に掲載された復活の報道。

 一路・突破のコンビは昭和十五年から九年間続いた。東宝名人会の昼席「昭和会」に出たのを故・秦豊吉が見込んで日劇秋のおどりの舞台に起用、東宝専属のモダンで活気のある漫才として売れっ子となった。
 昭和二十四年、突破のNHK入り(ラジオ「陽気な喫茶店」の専属)でコンビを解消。それぞれがボードビリアンとして今日に至っている。
 この間、一度、NHKラジオ「のんきタクシー」でコンビ復活の機会があり、東宝名人会に出たこともあるが、長続きしなかった。
 今度の復活は正真正銘の漫才コンビとしてで、芸能プロダクション・水車の杉本吉安社長があと押しして話が決まったもの。杉本氏が昨年末、テレビの演芸ものでふたりが二、三分かみ合ったのを見て、まだ衰えぬイキのうまさに感心、東京漫才が社会、政治風刺と毒舌に傾いているおりから”イキの芸”をやれる二人を放っておくのはもったいないと、ふたりを呼んで漫才復活をすすめ、当人たちもその気になった。
 二人はボードビリアンとコメディアンとしてそれぞれの道を歩み、一路はテレビの仕事と五月は明治座の森繁劇団公演出演が決まっております、突破は三ー五月に熱海のレストラン・シアターに出演しスケジュールがあくのは五月末なので、再出発の舞台は六月四日から日劇で行われる畠山みどりショーでと同十一日からの東宝名人会の中席という予定になっている。

『東京新聞夕刊』(3月6日号)

 東宝名人会や歌謡ショーなど先行きの良いスタートを切り、前途を期待されたものの、かつての人気は取り戻すことができないまま、自然解消をしてしまった。

 一路は喜劇、映画畑に戻り、堅実な活動を続けた。1990年代まで健在だったというが、1970年代後半頃より隠棲するようになった模様。1985年、芸団協から表彰を受けているのが確認できる。

 一方の突破は、目まぐるしく変化する時世についていけず、コメディアンの仕事が減少、人気も落ちた。

 然し、副業の喫茶店とスナック『鳩ポッポ』『おかめ』の経営に成功し、悠々自適の生活を送っていた。その中で地方の舞台や結婚の司会、漫談などを続ける形となる。

 経営者としての才覚はあったらしく、その道のプロとして、テレビやラジオのゲストとして呼ばれたこともある。金に不自由をしなかったのは、幸せな事だったと言えよう。晩年の1961年には創価学会に入会して、話題を振りまいた。

 1967年12月、テレビ東京の『いつでも君は』に出演、久方ぶりのテレビ出演に張り切ったが、同月28日に胃癌に倒れる。

 東京医大附属病院に入院するものの、末期癌の為に手の施しがなく、半年の闘病の末に、胃癌及び癌性腹膜炎の為に没。53歳の若さであった。

 先述の『突破談義』に、

 面白いことに私がロッパにあやかるべく突破にしたら、その後に私に憧れてつけた芸名のコメディアンに八波むと志君がいる。
 昨年の春ロッパ先生が亡くなられた直後ある口の悪い奴が「ロッパさんの次はトッパさんですの順だね」というから「冗談じゃない、ロッパとトッパの間にはハッパがいるよ」と言ってやったら、ああなるほどと感心していた。

 と、冗談を飛ばしているが、その八波むと志は1964年1月に自動車事故で急死。はからずもその冗談は真実となったとは、奇談というべきか。

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