大空みのる・都上ゆたか
大空みのる・都上ゆたか(右)
人 物
大空 みのる
・本 名 宮川 秀男
・生没年 1931年1月19日~1996年7月13日
・出生地 東京
都上 ゆたか
・本 名 野口 保美
・生没年 1930年代?~??
・出生地 ??
来 歴
大空みのる・都上ゆたかは戦後に活躍した漫才師。写真の通り、ギターの演奏と声帯模写を得意としたハイカラなコンビであった。
ゆたかは都上英二・東喜美江の門下生。そのくせ経歴に謎が多い。本名は澤田隆治氏旧蔵の『漫才研究会名簿1961年』より割り出した。
青空うれし氏に伺った所「深い付き合いはないからあれだけど、年齢は俺らとそこまで変わらず(うれし氏は1935年生れ)、弟子入りは俺らより若干遅い気がする(氏は1953年デビュー)」。
そう考えるとみのるとほぼ同期だったのかもしれない。
都上英二・東喜美江門下に入り、「都上ゆたか」。師匠譲りのギターを持った漫才で、親戚弟子の大空みのるとコンビを組む事となった。1950年代後半の事であるそうな。
一方、みのるは、宮川貞夫・大和家かほるを両親に持つサラブレッド。
同じく漫才界で活躍した大和わかばは妹、民謡界に行った二代目かほるは弟というのだから、毛並みはいい。
親が芸人だった事もあって、芸事が身近にあり、ギターや話芸など仕込まれた。戦後まもなく母親の相方、大空ヒットの門下になり、「大空みのる」を名乗る。
長らくヒットの下にいたそうで、大空一門の若手のリーダー格的な存在だった由。
後年、都上ゆたかとコンビを組み、ギター漫才をやるようになる。なかなか達者なコンビだったらしい。
しかし、活躍は長く続かず、1960年頃に解散した。
ゆたかは、弟弟子の東しのぶとコンビを結成し、引き続き音曲漫才を展開。『浅草松竹演芸場』(1961年8月下席・国立劇場所蔵)のパンフレットの中に、
都上ゆたか 東しのぶ
漫才研究会の会長、英二、喜美江の弟子で、歌謡声帯模写は二人とも達人の域を出ている
と紹介されているのを確認できる。
このコンビで、活躍したそうであるが、東喜美江の死と前後してなぜか消息が不明となる。廃業した模様か。
一方、みのるはコンビ解散後、弟弟子の大空みつると1、2年程コンビを組んでいた。その傍らで、司会もやっていたそうで、秋田民謡の大御所、佐々木実の上京の手助けしたのはこの人。
『秋田魁新報』(2016年3月21日号)「シリーズ 時代を語る 佐々木實 運命変えたあの電話」の中に「民謡酒場七五三で大空みのるが司会していた」という記載を見つける事が出来る。
1963年頃、東まゆみとコンビを解消した妹、大和わかばをコンビ結成。
みのるがギターを持ち、わかばが歌い踊るという音曲漫才を展開し、浅草を中心に活躍。当時、漫才に力を入れていた落語芸術協会にも気に入られ、盛んに定席へ出演している。
兄妹とだけあって、もっとも息のあうコンビであったが、1970年頃、コンビ解消。このコンビの事は、また別項を立てる。
わかばとのコンビ解消後は、漫才から一線を退き、司会者に転向。「白雲閣」の芸能部長としても働き始めるようになる。
芸能部長就任前後で、この頃から「七尾みのる」と名乗り始めた。「七尾」は七尾市に因んだそうで、自身の出生か、家族の出身地としてゆかりがあった――とご遺族の証言。
多分、母・大和家かほるの出生地からとったものだと思われる。
以来、歌謡ショーの司会者として、司会や漫談などを披露。時折、古い仲間である伏見痴か志などと司会漫才を演ずる事もあった。
1974年、秀和が誕生。この子は父の没後、司会者となり、現在「ナナオ」の名前で活躍している。
この芸名が父の「七尾」からとられているのは言うまでもない。
20年間近く、堅実に多くの歌謡ショーを担当してきたが、1994年、病に倒れ、一線を退いた。
1996年、惜しまれながら死去。息子の売り出しを見る直前に亡くなったのが惜しい。