国守一誠(剣舞)
人 物
国守 一誠
・本 名 国守 一誠
・生没年 1887年11月1日~1954年以降
・出身地 鳥取県
来 歴
国守一誠は戦前活躍した剣舞の芸人。見事な風格と力強い舞台は日比野雷風・大輪正秀と並ぶ程の人気があったという。剣舞家として色物席にたびたび登場をした。
経歴は『大衆人事録 第14版 東京篇』に出ている。
国守一誠 日本革正会本部 国守演芸 映画及アトラクション配給業 【略歴】鳥取県孝恭四男明治廿年十一月一日生る京都千城中学卒業武道体育化を唱導立憲革新青年党幹部たり昭和二年創業の地に日活専属たり
当時としては珍しい旧制中学卒業のインテリであったが、政治・思想的に志す所があり、明治末に剣舞師となり、高座に上った。
居合術と剣舞を売りにし、隆々たる髭面と勇猛な振りを売りにした。中でも「棄児」は大当たりで、「棄児の国守」と称えられるほどの名人芸であった。
その演じ振りは剣舞中興の祖・日比野雷風と肩を並べるものがあったらしく、『全日本吟詠家名鑑』の中で、
「剣舞の三羽烏のうちに数へられるゝ名人、日比野雷風、大輪正秀、国守一誠は、批点を打つところない堂々たる名流。」
と記されている。
1927年11月、「立憲革新青年党」の結成に関与し、幹事となっている。この政治的な思想は戦後まで続く事となる。
1930年代はどういうわけか、東喜代駒などと行動しており、喜代駒が「漫才新興連盟」を結成した際は、彼らの興行に毎月の様に出演している様子が確認できる。
そのかたわらで「国守演芸」を設立し、興行主としても活躍した。
1939年8月10日、「時局演芸の夕」に出演し、松尾六郎、津田勝人等の古老と共に大演武を演じている。
長らく浅草に事務所を構え、剣舞舞踊家と興行主の二足草鞋を履いていたが、戦争で焼き出され東京を去った。
ただ戦後も健在だったらしく、箱根で遊技場を経営していたという。
『アサヒ芸能新聞』(1954年4月2週号)の松尾六郎の項目に――
往年剣舞の松尾として国守一成、寺田末次郎、五条家弁慶らと五指にあげられた大先輩で国守は箱根で遊技場の主人、寺田は鳥取で浪曲を主にあつかう興行業にと、いずれも舞台に立っていない今日、六郎の剣舞は保存芸術の価値充分。
とある。その後没したらしいが――