初代江川マストン(曲芸)

初代 江川マストン(曲芸)

逆立ち曲芸を演じるマストン(左)

映画で玉乗りを披露するマストン

 人 物

 江川えがわ マストン(初代)
 ・本 名 迫 熊吉
 ・生没年 1881年5月15日~1955年5月31日
 ・出身地 広島県 尾道市

 来 歴

 江川マストン(初代)は戦前戦後活躍した曲芸師。「江川の玉乗り」として一世を風靡した江川一座の出身で、「空中軒マストン」を経て、「江川マストン」を襲名。玉乗り曲技の名人として名声誉れをほしいままにした。倅も玉乗りの二代目江川マストン。

 Wikipediaには「初代についてはほとんど知られていない。」などと書かれているがそんな事はない。阿久根巌『元祖玉乗曲藝大一座』に詳しい経歴が出ている。

 前歴は阿久根巌『元祖玉乗曲藝大一座』に掲載された二代目江川マストンの調査メモに詳しい。

 父親の熊吉は、広島の尾道生まれ(明治十四年五月十五日)、早くして両親に死に別れ、それから九州で育てられる。たしか、長崎あたりを興行中の江川の太夫元清水亀吉に貰われる。六歳頃のことらしい。追姓を名乗っているので、養子ではなく、弟子入りの扱いである。熊吉は、玉乗り、撞木、小きんは、針金渡りと足芸が得意、師匠と弟子の間であった。

 清水亀吉は「江川の玉乗り」の太夫元で、江川亀吉とも名のった。父・藤作が香具師や興行師をしていた関係から自らも興行の世界に入り、明治時代に「江川一座」を結成。年端も行かぬ少年少女を養子にもらって「江川」の名を与え(本名・清水の名も与える)、厳しく芸を仕込んだ。

 小金、玉子、奴、小徳、トウ、亀子などが亀吉の養子として江川一座の主力メンバーとして活躍した。

 一方で、普通の子供も弟子に取り、「江川」の名を与えていた。マストンは後者だった模様である。

 亀吉や姉弟子たちから(年下の先輩)から厳しく芸を仕込まれ、初舞台を踏む。「江川梅吉」と名乗り、江川玉乗りの花形として活躍。

 江川というと玉乗りが想起されるが、実際は空中ブランコの方が得意だったという。後に名乗る「空中軒」はここから来た模様か。阿久根巌『元祖玉乗曲藝大一座』のマストンの談話によると――

 あたしの父親(熊吉)というのが、小柄でしてね、あたしより身丈が低いですからね、五尺そこそこ、まあ、玉乗りだけじゃなく、いろんな芸をやっていました。撞木っていう、ブランコですね、その撞木が得意でした。親父のは頭立ちっていって、ブランコの横木に頭で立っちゃうんです。大抵は横木に皿をネジで止めて、そこに頭を当てるんですけど、親父は何も無しで逆立ち。それから親父は、真田紐の輪っかを口にくわえて、相手役が二人もそのサナダにぶら下がって、撞木を揺らしながら芸をするんですよ、歯で食い止めてるんだ。

 1910年の『浅草繁盛記』では既に「玉乗曲芸 江川梅吉 迫熊吉」という記載がある。主力メンバーでは一番の最年長者だった模様である。

 この前後で一座の花形の清水小金と結婚している。小金は姉弟子で、亀吉の愛娘(養女であるが)であった。

 1910年3月、長男の迫与三郎誕生。これが二代目のマストンである。

 しかし、与三郎誕生後間もなく二人の関係は破綻し、離婚。マストンはキネマ倶楽部の売店の従業員と再婚し、これに二代目を育てさせたという。

 ちなみにこの小金は後に「東富士子」と改名し、「日本一の針金渡り」を自称した。東富士夫・東富士郎の師匠としても活躍する。

 1917年、倅の与三郎が初舞台を踏んでいる。当初は「江川茶目」といい、後見やアシスタントをやらしていたがいつのまにか舞台に上がるようになったという。

 最年長者で芸はうまかった事から、書記や番頭などもやっていたというが、好きな酒で身を持ち崩してしまった。その酒が元で、親方の亀吉と喧嘩をし、江川一座を追い出される。

 これを機に「江川梅吉」の名前を捨てる事となった。

 路頭に迷いかけたマストンを救ったのが、太神楽の家元・鏡味仙太郎であった。寄席に顔の通じる仙太郎は「寄席に入らないか」と持ち掛けて、当時勃興していた柳亭左楽率いる睦会へと斡旋した。

 この時、柳亭左楽との相談して「空中軒マストン」と改称。マストンが生涯の芸名となる。このマストンの由来は『都新聞』(1935年3月18日号)掲載の「曲芸家座談会」に詳しい。

 森     マストンさんが、寄席に出て居られたのは何時頃でしたかね
マストン   大正七年頃睦会の方に入って昭和五年頃まで、最初は玉乗りは、ネタが運ぶのが大変でやりませんでしたが、自動車も安くなったので古いものを引っ張り出したと云ふ訳でした
鈴木(義豊) 江川で九龍紋と云ったら有名なものですよ
マストン   元来私は広島のもので、江川が九州の方へ巡業に行って、今はありませんが広島の集産場でやって居る時に親に死なれたりして入った訳でして、七つの頃からやって居るんです
 古川    マストンと云ふ芸名はどう云ふ処から来たものですか
マストン   席に出て居る時分に五代目の柳亭左楽さんがつけてくれましたもので、其の頃真ッすぐに逆立ちするのを得意でやって居りましたが、船のマストと云ふ見立てでさうなったのぢやないかとこれは私がさう思ふだけなんですが

 一方、「左楽と相談している所へ、下座の島崎マスが飛んで来たので、左楽が『おますが飛んできた……マストンだな』といってつけた」という伝説のような話もある。いずれにせよ、柳亭左楽がつけたのは間違いない。当時は「升豚」「升頓」という資料もある。

 当初は逆立ちや皿回し、曲杖など玉乗りのついでに覚えた軽曲技を演じていた。倅の与三郎には「空中軒小マストン」の名を与えて舞台に立たせていた(江川小マストンになるのは昭和に入ってからである)。

 関東大震災後に交通網が整備され、大規模な大玉や道具の搬入が簡単になった事もあり、玉乗りを演じるようになった。以来、マストンといえば玉乗りのイメージがつくようになった。

 上では「昭和7年頃まで寄席に出て居た」と語っているが、実は昭和に入ると睦会や落語家団体から距離を置き、浅草の色物席に出てくるようになる。

 1932年には浅草三友館の専属的な扱いを受け、長らく曲芸を演じていた。

 1934年頃に漫才が勃興するようになると「曲芸漫才」「玉乗り漫才」と称して倅の小マストンと共に「漫才 空中軒マストン・小マストン」というコンビ活動も行った事がある。

 もっとも「漫才」の肩書はあくまでも売り込みのためで、舞台の中心は曲芸と玉乗りであった。

 この頃、古川ロッパや徳川夢声主催の「笑いの王国」に出演。「見世物王国」なるレビューで息子と共に玉乗りを演じた模様。

 1935年頃、「江川マストン」に改名。

 1936年11月、上野公園で行われた「明治天皇上野公園行幸六十年記念」の余興に出演。『明治天皇上野公園行幸六十年記念誌』に「玉乗り 江川マストン」として二日間出演した――という記載がある。

 戦時中は主に浅草を中心に活動を続けていたが、老齢や病の関係から一線を退く形となって居た模様。

 1942年に結成された大日本太神楽曲芸協会では倅の小マストンは参加しているものの、親父は参加していない。既に一線を退いたと解釈すべきか。玉乗りの移動や曲芸の制限など、戦争の統制がマストンにとっては面白くないものだったのかもしれない。

 戦後、進駐軍慰問の勃興や余興の復活で再び一線に戻り、古き良き玉乗りを見せていたという。老衰こそあったものの、70過ぎて玉に乗っていたというのだから驚異である。

『小説公園』(1952年2月1日号)に、安藤鶴夫が書いたであろう「江戸趣味芸能特選」の感想が掲載されている。

▽お次が七三歳といふ江川マストンの玉乗り、大きな赤玉をごろ/\転してひょいと乗っかることから輪抜け、はね桟ばしなどの曲技も昔のまゝで、合の手に口上をいふのにひどい息切れがしてゐるのが痛ましく、ジンタのメロディに乗って江川のびろおどのカーテンからピエロの姿で飛んだり跳ねたりし乍ら登場したその昔のマストンを思い出して、一所懸命に拍手をし乍ら泪をこぼした。

 1954年、老弁士・西村楽天の解説、北条秀司の台本で「浅草今昔」という番組が放送され、マストンもそこに列席する予定であったらしいが、楽天の急逝でオジャンとなった(徳川夢声『マイクと死と』)。

 1954年8月28日、「第56回三越名人会」の納涼の夕べに息子・小マストンと共に出演。

 この出演後、マストンも老衰をはじめ、1955年に死去。残された息子の小マストンが「二代目マストン」を襲名し、平成まで生きた。

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