高峰愛天・東天
左・東天 右・愛天
人 物
人 物
高峰 愛天
・本 名 唐沢 英
・生没年 1942年2月8日~2012年以降
・出身地 群馬県 太田市
高峰 東天
・本 名 清水 勝吉
・生没年 1944年2月4日~2012年秋頃?
・出身地 宮城県 築館町
来 歴
高峰愛天・東天は戦後~平成に活躍した漫才師。リーガル天才門下の俊英で、一時期はホープとして目されていた事もある。東天は8代目三笑亭可楽の門下で落語家、小金井芦州の門下で講談師を経て漫才師になったという不思議な芸歴を持っていた。
二人とも平成まで活躍していた事もあってか、一応の情報が残っている。
愛天の前歴
愛天は群馬県太田市の出身。芸人関係者の話では「学校を出て普通に仕事をして暮らしていたけども、思う所あってリーガル天才先生に入門した」という。ちなみに「唐沢英」は婿入りした後の名前らしく、長らく「二瓶英」と名乗っていた。
1968年に天才門下に入り、「高峰愛天」と命名される。兄弟弟子で4歳歳下の「高峰敬天」(本名・山田隆稔 1946年7月22日~?)とコンビを組み、「高峰敬天・愛天」。「敬愛精神」から名付けられたという。
初舞台は浅草の木馬館。以来、浅草の木馬館や松竹演芸場を中心に腕を磨き、高峰一門のホープとして売り出した。
1974年2月13日、第22回NHK漫才コンクールに出場し、「プレイボーイ」なる演目を披露。ただ、入賞を逃している。
敬天とは7年ほどコンビを組んでいたが、1975年にコンビ解消。敬天は「高峰奇才」と改名して、独立をしている。
1975年、東天とコンビ結成。
東天の前歴とコンビ結成
一方の東天は宮城県の生まれ。
高校卒業後間もない1962年に上京して当時売れっ子であった八代目三笑亭可楽に入門。見習いとして師匠の傍について落語を覚えた。
しかし、その頃師匠の可楽は既に病を患っており、1963年にはガンで倒れてしまう。その治療の甲斐もなく、1964年8月に息を引き取っている。
師匠の死によって落語界への未練を失くしたのか、当時「東京オリンピック」の新作で目覚ましく売り出していた田辺一鶴門下へ移籍。「田辺三鶴」の名前を貰い、講談師となった。
しかし、噺家時代に覚えた口調がなかなか落ちなかった事や一鶴が多忙の余りにすれ違いが起きていたようで、1968年に小金井芦洲門下へ移籍。
ネット連載『小金井芦州啖呵を切る』によると、「一鶴さんの元をやめて本格的にやりたい」と芦州に志願に出た。芦州は当初断っていたが、「本当に本格的にやりたいから」と余りにも熱心な嘆願に加え、「弟子が今いないから一人くらいはいいだろう」という気持ちになって、一鶴と話しをつけた上で、移籍させたという。
移籍後、「小金井清州」と改名し、芦州から芸を仕込まれた。芦州によると「落語みたいな口調をしていた」との事であるが、筋は悪くなかったようである。
5年ほど師匠に仕えたが、思う所あって小金井芦州門下を去り、リーガル天才門下へ移籍。漫才師となった。
1975年にコンビを組んで、「高峰愛天・東天」を結成。
コンビ結成後間もない1976年3月6日、第24回NHK漫才コンクールに出場し、新人として華々しくデビューをしている。
1977年3月5日、第25回NHK漫才コンクールに出場し、「珍説・大村益次郎」(遠藤佳三作)で優秀賞(2位)を受賞。
解散・再結成と晩年
しかし、1978年頃にコンビを一度解消している。東天は、弟弟子の栄天とコンビを組み直し、「東天・栄天」。
1979年3月2日、第27回NHK漫才コンクールに出場し、「ほめ方心得帳」なる演目を披露している。ただ、このコンビはあまり続かず、2年ばかりで解散。1982年頃、高峰開天とコンビを組んで、「高峰東天・開天」として活動していた事もある。
一方の愛天は敬天とよりをもどし、「ダックスフンド」というコンビ名で再出発。「ダックスフンド」の由来・理由は不明。「ダックスフンド敬天・愛天」と名乗ったが、数年で名前を戻している。
なお、ダックスフンド時代に愛天は結婚(再婚?)して婿養子になったらしく、「唐沢」と名が変わった。
結局、思う所があったと見えて、1985年頃にコンビを戻して「高峰愛天・東天」を復活させる。以来、2000年代までこのコンビを続けることとなった。
一応、古老として平成中期まで活躍したが、2000年代に入ると活動も低迷。高峰コダマなどと共に幽霊会員というような形になってしまった。
2006年頃、愛天は協会を離脱し、「愛天・東天」のコンビを解消。東天も漫才協会に籍を置いたが、間もなく抜けている。
愛天の消息は不明であるが「引退して隠居している」「早稲田の方にいるとかなんとか」と話を聞いた事がある。2012年の電話帳に名前が出ていたので、多分この辺りまでは健在だった模様。
一方、東天は高円寺の自宅を改築(?)した木造アパートの経営をして余生を送ったという。妻と二人きり慎ましい暮らしだったというが、のんびりとした日々を送っていたようである。
震災後間もない2011年に入居して来たのが、今若手落語家として注目を集めている立川笑二である。
笑二によると、優しいおじいさんだったそうで、「払えない時、家賃は無理に払わなくてもいい」といってくれたり、夫婦の部屋に笑二を誘っては鍋やご飯を食べさせてくれた――という。
そのことは日経スタイルに掲載された『寒い4畳半アパート 熱い東天先生、温かい鍋の思い出』に詳しい。
笑二の事を可愛がってくれたものの、その頃既に体調を崩しがちで、1年ほど経ったのち、入院を繰り返すようになったという。最終的に入居から1年半ほどで東天は亡くなり、高円寺のアパートは取り壊されたという。
落語関係者・並河逸成氏の2012年10月1日付のツイートに「この人(※立川笑二)が住んでいる高円寺の木造アパート四畳半風呂無し、便所共同の大家さんが漫才の高峰東天さんだった。過去形で書いたのは最近亡くなったため」とあるのが確認できる。
ここで「最近」と語られている事、笑二が「入門1年ほどして」と語っている所を照らし合わせると2012年秋に亡くなった模様か。