滝の家鯉香・お鯉
在りし日の滝の家鯉香
麻雀に夢中の鯉香
人 物
滝の家 鯉香
・本 名 佐々木 敏子
・生没年 1916年1月27日?~1984年以後
・出身地 浅草?
滝の家 お鯉
・本 名 須田 浜子
・生没年 1910年3月30日~1979年5月15日
・出身地 長野県
来 歴
滝の家鯉香・お鯉は戦前戦後活躍した女流漫才。ただ、芸風や肩書は「女道楽」といった方がいいのかもしれない。それでも寄席色物の傑物であり、漫才師と交友深かったのでここに採録をした。
瀧の家お鯉は、後の千家松人形・お鯉のお鯉である。人形・お鯉のページを参照にしてください。
鯉香は、横浜の出身。ただしこの人の経歴はどれが本当なのか全くわからない状態である。どれが本当で、どれが嘘なのかさえも判別つかない。
『名人鑑 三越名人会200回記念』では、
「瀧の家鯉香(本名佐々木宇た) 大正一〇年一月二七日生」
とあるのだが、これは眉唾。流石にこんなに若くないはずである。それに本名もこれではないと思われる。なんでこんな微妙な名乗りをしているのか。
『出演者名簿1963年』では、本名・佐々木敏子。「大正15・1・27日生れ」という事になっている。
『NHK年鑑』では、本名・佐々木敏子。「大正3・2 」生れだという。
個人的には『出演者名簿』が一番正解に近く、本名は間違いなく「佐々木敏子」だと推測している。
経歴には謎の点が多いが、『漫才』(1970年7月号)の柴田信子「対談おいでやす」の中で語られている。曰く、
鯉香 あたしは、子どものころから芸ごとが好きでね、親も好きだったものだから、六才の時から稽古ごとをやりだしたの。九才ごろまで常磐津をやってたけどさ、常磐津は人気がなくてね、清元や長唄に転向しちゃった、声もよかったらしいし、カンもよかったらしいしね。
柴田 センダンは二葉にしてなんとやら、と云うわけですね。
鯉香 だけど家が貧乏だから苦労したのよ――その当時のお金で、たった二円の三味線のお古が買えなかったの。古道具屋にある品物よ。だけど念願がかなって、その古三味線だったけど、他の新しい三味線を持っているお弟子さんより、いい音が出るってよくお師匠さんにほめられたものよ。
柴田 やっぱり頭がよかったんや。
鯉香 いやいや、学校の勉強は、からっきしダメ。
また、茅ケ崎南郷園で芸妓をやっていたという。美貌を考えればわかる話である一方、けんかっ早いためにすぐ暇を出されたという。
柴田 この道へはいるまえに芸者になったとか……。
鯉香 茅ケ崎南郷園でね。弟も小さかったし学資もいるし、そのうえに両親がわずらって入院ということもあって、だけどね、そのころから、めっぽう喧嘩っはやくて、色気がなくて、ちょっとお客からヘンなことを云われるとカッとなってやっちゃう、だから、いいお客がつかずじまい。
芸妓を廃業後、当時東京を中心に廻っていた女道楽の「滝の家連」に入団。ここで修業を積んで寄席に出るようになった模様。
ただ、当時の広告は「滝の家連」とまとめられている事が多く、どこから出演していたのか判別しない所がある。
1938年、日本舞踊の花柳佐輔に入門。1942年に名取を許され、「花柳佐栄輔」と名乗る。
戦後も滝の家連のメンバーとして活躍していたそうで、「鯉香・お鯉」のコンビで売っていた。女道楽と銘打っていたが、実際は漫才風のネタを展開していたという。
若い頃、宇都宮で鯉香・お鯉を見たという清水一朗氏によると、「普通の音曲漫才というかね、お鯉さんがボケで、鯉香さんがツッコミだったかな、滑稽な掛合をしながら三味線で歌を奏でて、最後に踊りの踊りあいみたいな事をしていたと記憶している」。
1952年春、お鯉とコンビを解消。お鯉はいったん廃業し、鯉香は落語協会に残留し、三味線漫談に転向した。
色気たっぷりに高座に現れ、三味線をいじりながら、お客に語り掛けるように時事ネタや小咄を振り、「お座付き」から「都々逸」や端唄俗曲を歌い、笑いを繋げながら、トリネタにのんき節や「汽車旅行」と名付けた駅名を読み込んでいく曲を演奏して舞台に降りたという。
ノンキ節は正岡容に勧められ、演じるようになった――と『大衆文学研究(特集・正岡容)』の中で語っている。このノンキ節がなかなかの売物となって、戦前ノンキ節で売った芸人の石田一松にちなみ、「女一松」とあだ名されたという。
青木純二という人物がノンキ節や俗曲の替歌や歌詞を作っていたという。古い関係者の話では「新聞記者上がりの人」で「鯉香さんのお旦那というか、カバン持ちというか」だったという。旦那と言っても、夫婦関係ではなく、所謂花街の御旦那に近い感覚だったようである。
立川談志が『立川談志遺言大全集14』の中で、その芸風を辛口に批評している。
独りになった滝の家鯉香さんは、「ずっきん節」なんていうのを演ってたけど、嫌だった。
〽指の手かげん 穴へと入れりゃ どっと出るくどっと出るく
と振っておいて、
〽パチンコね
〽入れておくれよ かいくてならぬ
あたし独りが蚊帳の外
思わせぶりで、最後は逃げて落げるって昔よくあった
〽降りてとたんにまた乗りたがる
休むまもない三輪車
等、同様である
色歌というか、猥歌に近い。嫌だなと思った。何せ下品だったし。でも、三味線は達者な、いや悪達者かな、でも結構な「女道楽」であった。
その鯉香さんの旦那、という人が新聞社をリタイアした人で、「鯉香さんの男」として、鯉香さんの鞄を持って付いてた。地方新聞の社長くらいの人だったが、“もう老いさらばえた”というか、鯉香さんに縫ってるというか、新聞記者だったから鯉香さんのネタを書いていたが、普段は鯉香さんに怒鳴られていたっけ。
その鯉香さんとて、現在いりゃなァ……といういつものフレーズは間違っているのか。つまり郷愁なのか……ノスタルジィですよネ。いまにいても現代とはつながるまい。 私だけのモノでしょう。 いやとそれを聴いていたその頃のファンとの······。
しかし、大衆の人気は大したもので多くのラジオやテレビ番組に出演。寄席番組には欠かせない存在になったという。
また、悪達者ともいえる芸風は何かとアクが好まれる大阪でも愛好され、地下歌舞伎劇場、千日前劇場、角座などの大劇場に出演。大阪でも広く受け入れられた。この点は東京一本で過ごした都家かつ江と違う。
また、戦後は左派系に近づき、共産党系の演芸会や赤旗まつりなどに列席した。林家彦六、大空ヒット、木村忠衛などと並んで進歩系の芸人としてうたわれた。
1966年、今も続く「民族芸能を守る会」に参加。林家彦六、大空ヒットなどと共に多くの会や演芸会に参加し、会の隆盛に尽力を尽くした。
1966年11月発行の会報誌『民族芸能7号』に「俗曲の染め直し」を掲載。
この頃体調を崩したらしく、『民族芸能8号』の中で「この頃、体の調子も回復したようにみえるが……」と書かれている。中年にして体調不良と戦っていたのであろうか。
その後も寄席の色物として、落語協会系の寄席に出ていたが、1970年代に入ると休演が目立つようになった。理由は不明。
1974年1月の香盤を最後に落語協会を退会している。
1974年5月12日、第115回紀伊國屋寄席に出演。古今亭志ん駒、林家正蔵、三遊亭圓生、橘家圓蔵、柳家小さん、金原亭馬生が出演。
その後は、小唄端唄の師匠をしていたらしい。『読売新聞』(1980年7月12日号)の「寄席の伝統「のんき節」復活を望む」という記事の中に、
戦後は一松なきあと、滝の家鯉香が女道楽コンビのお鯉と別れて以来、俗曲の高座でテーマソング的に「のんき節」を歌っていたが、歌詞そのものは、添田知道、石田一松の線とは趣を異にして痛烈な風刺精神が後退し、かなり通俗的なものになっていた。この人も寄席から姿を消して久しく、端唄俗曲家元となり……
とある。
しかし、1980年代に入ってカムバック。柳家小三治が懇願してカムバックさせたという噂もあるが真偽不明。
1983年3月24日、第219回紀伊國屋寄席に出演。十一代目金原亭馬生、三遊亭円弥、三遊亭円歌、桂文朝、柳家小さんが出演。
1984年まで活躍が確認できるが、その後間もなく亡くなったという。
甥っ子が、ナンバーズ研究家で多くの予想本を書いている佐々木聖市氏であるという。取材したのであるが、なかなかうまくいかない。鯉香の消息ご存じの方、ご一報ください。