東京太・京二
東京二・京太(右)
私服の東京二・京太
人 物
人 物
東 京太
・本 名 菅谷 利雄
・生没年 1943年7月21日~ご健在
・出身地 東京生まれ・栃木育ち
東 京二
・本 名 神田 公司
・生没年 1935年11月5日~ご健在
・出身地 北海道 札幌市
来 歴
東京太・京二は戦後~1980年代まで活躍した東京漫才師。松鶴家千代若に厳しく仕込まれた京太と俳優出身でWけんじ門下の京二の凸凹ぶりが売り物であった。ノリロー・トリロー、みつる・ひろしと並んで「東京漫才の御三家」として活躍。長らく東京漫才を牽制し続けてきた。
東京太の前歴
東京太は高座で「~だっぺ」としゃべる所から「栃木生れ」と思いきや、実は東京板橋区の生まれ。生後1年すぎ、空襲や食糧難を避けて家族の実家の栃木県真岡市へ疎開。
以来、16歳で同地を離れるまで、栃木で育つ事となる。そうした関係から「栃木県出身」と記される事が多い。後年の武器となる栃木訛りの口調はこの成長の過程で身についた
4歳の時に母親と死に別れ、小学4年生の時に父親の再婚に伴い、養母の実家である芳賀町へと転居した。芳賀町の中学に進学し、卒業している。
中学卒業後、「金の卵」として認められ、集団就職で上京。食堂の料理人となり、下働きをしていた。
この頃、初めて生の漫才を見たそうで、当人曰く「確かねえ、ラッパでアクロバットやる漫才だから、あれは高波志光児・光菊がはじめての漫才だったんです」。
この食堂の下働き時代に、贔屓の客として来ていたのが西秀一時代の松鶴家千とせ。芸人を勧められる。
1961年1月、松鶴家千代若に入門し、内弟子となる。雑用や師匠の身の回りの世話をする昔ながらの修行を経験した数少ない漫才師となった。
入門後4ヶ月で、瀬川伸ショーの司会に抜擢。岡山の劇場で舞台を踏む――が、本人曰く、「全く何もしなかった。」「間違えて呼ばれたようなもので、先方から『司会できないの』『漫談もできないの』『困ったなあ、でも来て貰っちゃったし……おとなしく見ていてくれればいいよ』って応対だった」との由。
内弟子の仕事に励む傍ら、浅草演芸ホールの紹介で二つ年上の永田宏育とコンビを組み、「松夫・竹夫」を結成。鶴田竹夫と名乗る。
この松夫は兄弟子と紹介されるが、当時の名簿を見ると「木田鶴夫・亀夫方」と住所が降ってあり、どうも鶴亀コンビの弟子だったようである。「鶴田○夫」と名乗る時点で木田鶴夫・亀夫の弟子とみてもおかしくはないだろう(後で当人に確認したら、木田鶴夫亀夫の弟子でした)。
神戸一郎一座の司会漫才として山陽、九州を巡業したが、訛りの強い漫才で全く受けなかったという。
丸目狂之介のアドバイスで方言漫才に進む事を決意するが、わずか1年半で鶴田松夫とコンビ解消。松夫は相方に優しすぎる人間だった――と『「東京漫才」列伝』の中にある。
1963年、Wけんじ門下の神田公司とコンビを組み、西菊二・若二と名乗る。「西」は姉弟子の西〆子の人気を期待して、千代若が授けたものだという。
東京二の前歴
相方の京二は京太より年上で、北海道の出身。
父親は軍人で、北海道美幌の航空隊の将校で終戦を迎えたのを縁に、そのまま北海道へ移住。当時、三千円で四町歩の土地を買い、他に山を一つ所有する酪農家へと転身した。幼い頃から母親に連れられ民謡になじんで育つ。
19歳の折に俳優にならんと父の反対を押し切って上京。マキノプロの養成所第一期生になるために、キャバレーのボーイなどのアルバイトをしてお金を貯め、六本木の俳優座養成所の聴講生となった。
エキストラ時代は『月光仮面』などにも出演していたが俳優としての仕事がなかなか得られず、1959年には、司会者としても活動するようになる。
この頃、本名の「神田公司」名義で司会漫才をやっていたそうで、北海道を巡業していた事がある。その時にコンビを組んだのが松鶴家千とせであった。宮田羊かん氏曰く、「あの時、神田は用があるとか言って、千とせを置いて先に帰っちゃったんだよね」。
1961年、東けんじに師事。それ以前から柳家三亀松の鞄持ちをするなど、演芸界に近づくようになった。
1963年、Wけんじや千代若の紹介で、コンビを組み、「西菊二」と名乗る。但し、『漫才』(№16)などでは、「1964年9月」と紹介されている。
この頃、さえずり姉妹にいた西美佐子と相思相愛の関係となる。この一件で千代若夫妻をしくじる事となったが、間もなく元の鞘に収まり、無事結婚をした。
いなかっぺ大将風のボケとスマートな二枚目然としたツッコミという対比の妙がうけて、漫才研究会のホープとして目された。
東京太・京二の売り出し
「若二・菊二」の名前で漫才を続けていた所、1966年2月19日、当時人気を博していた落語家・柳亭痴楽と松鶴家千代若の斡旋で東京都知事、東龍太郎と面会し、「東京二・京太」の名前を名付けられた。
その時の命名書の写しがあるので引用する。
ご両人はこのたび、去る二月十九日午前九時十分、都道府県会館に於て、丸目狂之介氏松鶴家千代若師立合の下、東都知事より次の様に命名許可書を受与されました。
「あなたは、斯道に新鮮な意欲を燃やし、東京都民をはじめ、日本中に笑いの憩いを提供しようと芸道に精進されることになりました。 よって本日ここに、わたしは東の姓を与え、芸名を東京太(東京二)と命名することを許可いたします。
昭和四十一年二月十九日 東京都知事 東竜太郎
以下は『1973年漫才大会パンフレット』に記載された東龍太郎の祝辞である。
『光陰矢の如し』私の所へ若き漫才家の西菊二・若二両君が訪ねて来たのは十年も前の事。その時に芸への精進に燃える二人に『西へ静かに沈む太陽よりも、君たちは若い!これからだ!東から昇り始める太陽の如く力強く進み給え!そして都民の皆さんに健康な笑いをおくってほしい――』と、こゝに私が名付け親となり、東京二・京太のコンビが出発した。あれから幾星霜、立派に成長した両君が輝かしい真打幹部に昇進して再び訪ねて来た事は本当にうれしく、喜ばしい事だ!!よく今日まで頑張ってくれた!立派になった!心より祝福を贈ります。
但し、「東」の亭号を名乗った事により、喜代駒一門であった東笑児から横槍を入れられたそうで、東喜代駒の所へ挨拶に行き、仁義を通した。本人曰く、「東を名乗ったところで、喜代駒さんから別に何とも言われませんでしたよ」。
同年、落語芸術協会に所属。寄席の定席に出演するようになる。
1966年2月27日、第14回NHK漫才コンクールに出場。『淡島富士子』を披露して次点。
1967年2月25日、第15回NHK漫才コンクールに出場し、『受付百景』で第3位。
1968年3月2日、第16回NHK漫才コンクールに出場し、『いろはにほへと』でまた第3位。
1968年9月、若手漫才グループ「グループ21」の結成に携わり、あした順子・ひろし、松鶴家千とせ・羊かん等と鎬を削った。後年、グループ21の会長に選出されている。
1969年2月15日、第17回漫才コンクールで『忍法虎の巻』で、優勝を果たした。当初は独特な栃木訛りを批判される事があり、矢野誠一は『キネマ旬報』(1969年3月下旬号)の中で、
結局、優勝は東京二・京太の「忍法虎の巻」。正直、意外というほかない。理由が、過去二回のコンクールで連続三位という実績からだとしたら、ひどいはなしだ。当日の出来もさることなから、優勝にふさわしい格と品が皆無。泥くさく、稚拙なこのコンビが、この優勝で、実力を認められたものと単純に錯覚してもらっては困るのである。それに、ナマリがひどいことも、きき苦しく、今後の課題はかなり多い。
と口を極めて酷評しているが、これは言いすぎであろう。
むしろ、その特徴的な話術を活かした「方言漫才」を開拓。逆に笑いの取れる人気漫才師へと成長し、後輩の大瀬しのぶ・こいじ等と共にしゃべくり漫才における方言漫才というジャンルを確立した点は記憶されるべき功績である。
この頃より、新山ノリロー・トリロー、大空みつる・ひろしと共に「東京漫才御三家」として称された。
1973年9月5日、朝日生命ホールで行われた「漫才大会」で、三代目真打ちとして認定され、漫才協団の幹部となる。口上には師匠の松鶴家千代若、コロムビアトップ、リーガル天才・秀才が列席した。
1976年、現相方のゆめ子と結婚。新山ノリロー氏によると、「京太とよく行っていた店にいた娘で、それがいつの間にか仲良くなって結婚した――って聞いた時はたまげたよ」。
この頃が人気の絶頂で、レギュラー番組やラジオ番組を掛け持ち、寄席や名人会で大喝采を得る忙しい日々を過ごしていた。東京二は一時期髭を生やしてモダンさを売りにしていた事もある。
以来、東京漫才の幹部の一組として寄席やメディアで活躍。安定な活動を見せたが、コンビ結成20年前後辺りから仕事の減少や相方とのすれ違いが多くなり、解散を考えるようになる。
先輩の新山ノリロー・トリローの電撃解散や漫才ブームの衰退などを受けて、「もうそろそろやめよう」とコンビの仕事を減らし――1985年、コンビ解消。
京太のその後
京太はピン芸人として司会や漫談、パーソナリティとしてラジオの番組レギュラーになるなど、安定した活躍をみせていた。
しかし、漫才への思いも断ちがたく、妻に正直な思いをぶつけた。家族の勧めもあって、1993年、妻のゆめ子とコンビを組み、夫婦漫才を結成。
全く舞台経験のない専業主婦を漫才師にしたという事から、話題になった。
結成当初は息が合わず、かつてのコンビと比べられるなどして、苦労の連続であったが、絶え間ない努力と天性の呼吸で忽ちコンビの味を身に着けていき、今では漫才界を代表する夫婦漫才へと成長した。
師匠千代若・千代菊譲りの女性優位の夫婦漫才を展開。味のある芸を見せるようになる。また千代若の鼓漫才を継承し、正月やめでたい席では鼓を持って千代若風の漫才を見せるようにもなった。
その努力と功績が認められて、2010年、第65回芸術祭賞大賞を受賞。
2023年現在も、漫才協会の大御所として、落語芸術協会の名物漫才として、意気揚々と活躍している。
京二のその後
一方の京二は、1985年の冬、妻の捷子と夫婦漫才を組み、「東京二・笑子」として再スタートを切っている。妻が元「さえずり姉妹」だった事も大きな力となった。
ブランクこそあったものの、笑子はすぐに勘を取り戻し、笑子のギターに合わせて京二が渋い喉を聞かせる音曲漫才へと転身を果たした。
1985年12月下席に落語協会系の寄席へ進出したのをきっかけに、落語協会へ所属。
1986年8月頃より正式な入会を果たし、寄席の色物としても活動するようになった。
その後は貴重な音曲漫才として舞台を彩り続けていたが、2004年3月頃にコンビ解消。笑子が事故に遭って一時期体調を崩したことや「孫の面倒や何やらでそろそろやめたい」と京二に相談した結果の円満解散だったという。
2004年3月に弟子の結城たかしとコンビを組み直し、引き続き「東京二・たかし」として、ギター漫才を続けてきたが、こちらも2008年で解散した。
以降は誰ともコンビを組むことなく、司会や漫談の道へと進んでいった。
2023年現在も漫才協会に所属し、長老の一人としてご健在である。
2023年1月より、弟子の結城たかしとコンビを組み直し「J・J京二・たかし」と、ジャニーズみたいな名前で高座に上がるようになった。「J・J」は「じいじ(爺)」という洒落らしい。