大瀬しのぶ・こいじ

大瀬しのぶ・こいじ

大瀬しのぶ・こいじ(左)
ご遺族提供

スタジオでの二人

人物

 人 物

 大瀬おおせ しのぶ
 ・本 名 小笠原 敏夫
 ・生没年 1930年7月24日~2004年9月15日
 ・出身地 青森県 十和田湖町

 大瀬おおせ こいじ
 ・本 名 伊東 達
 ・生没年 1930年2月6日~2014年12月
 ・出身地 東京

 来 歴

 大瀬しのぶ・こいじは戦後~平成に活躍した漫才師。共に30代後半でコンビ結成するスロースターターであったが、方言漫才を確立し一時代を築いた。後年、東京から東北へと拠点を移し、元祖ローカルタレントとして活躍。しのぶは「青森が生んだ大スター」といわれるほどの人気を博した。

しのぶの前歴

 大瀬しのぶの経歴は、自伝『わだス大瀬しのぶでござんス』に詳しい。また、ご子息の証言も大変参考になった。このご子息も先年亡くなられた。

 しのぶは青森県十和田村で小笠原一志、サトの長男として出生。実家は「関の村」と呼ばれる地主の家で、かつては「他人様の土地を踏むことはない」と自慢できるほどの土地持ちであったという。

 ただ、父親は病弱で、莫大な貯蓄や土地は父の医療費や生活費に消えてしまったという。

 それでも戦前はまだ余裕があり、村のガキ大将として君臨。小学校進学後も悪ガキとして、様々な武勇伝を残した。

13歳の時、父親と死に別れ、叔父の養子となる。高等小学校卒業後、中学には進学せず、地元の消防署に就職。ただ、ここでも悪ガキぶりを発揮したそうで団員にいたずらをしかける、村人に悪戯をしかける――など、今なら炎上必須の案件を繰り返していたそうで、まもなくクビになっている。

 その後は叔父の経営する牧場で、牛の面倒を見るように命じられ、従業員となった。しかし、ここでも悪戯ぶりを発揮し、叔父と大喧嘩をした(当人曰く、牛のしっぽを縄のように結び付けておいたら、しっぽが取れてしまい、叔父にどやされたという)。

 仕事が長続きしない事を悟ったしのぶは家を飛び出し、以降は仕事については離職する放浪のような日々を過ごすこととなる。

 この頃、素人劇団を結成し、芸人としての一歩を歩む。出し物は決まって「国定忠治」であったという。

 1955年頃、三戸で人気のあった沢村菊太郎主催の「沢村劇団」に入団。下回りをしながら、芸を覚え、「奥入瀬荒太郎」と名乗る。一座で様々な役を経験しながら、東北各地を巡業、名門の「盛岡劇場」にも出演したこともあった。

 数年ばかり役者稼業を続けていたが、まもなく見切りをつけて一座を離脱。

 1961、2年頃に、福井に嫁いだ長姉を頼って、母親と次姉と共に福井に転居。流石の敏夫青年も遊んでばかりいるわけに行かず、まず包装関係の会社に入社するが、まもなく退社。

 ついで「マツダオート福井」に入社。持ち前の話芸と明るさで車を売りまくり、一躍エリート社員として目された。本社に出仕する話も出た程であったが、仕事をズル休みして、福井に来ていた都はるみショーを見に行ったのが露見、「君は仕事を何だと思っているのだ」と上司に激昂され、対立。最終的に辞職する羽目になった。

 この頃に福井県で知り合った女性と再婚、1963年には子供を授かっている。これが証言者の御子息である。

 ご遺族によると、2人は文通で交友が始まり、何回かするうちに女の方からしのぶの許を訪ね、その時に偶然、大雪に遭遇。はからずも一緒に過ごす事となり、結ばれた――などという、ロマンスがあったと聞く。

 辞職の一件から再び芸人を志し、都はるみショーの斡旋をしていた興行師を頼って上京を志すようになる。

 その途中、舞鶴市に立ち寄り、プロレス興行を呼ぶ大博打を起こす。しのぶ曰く「無銭飲食同様で宿屋に転がり込んだ際、舞鶴の人達に『実は興行師』と大ほらを吹いて、プロレスを呼ぶ話になった。ここで嘘をつけば無銭飲食でしょっ引かれ、信頼も失う。無我夢中で興行師のふりをして、プロレス会社に飛び込みで交渉。口八丁手八丁で相手を信頼させ、舞鶴にプロレスを呼ぶことに成功した」という。

 この結果、「プロレスを呼んでくれた恩師様」と町の人から感謝され、宿屋の代金や飲食代は全部町の人が負担してくれたという。

 これに自信をつけて、上京。司会の南田洋について司会の勉強や春日八郎の歌謡学校、近衛十四郎一座に入って役者の仕出しや裏方など転々とするが、なかなか食ってはいけず、貧苦に苦しめられた。

 まもなく台東興行を頼って、食い扶持をつないでいたが、そこの紹介で兵隊漫才の宝大判とコンビを組み、漫才界入り。2年ばかり宝小判を名乗って、漫才の基礎を磨いた。

 兵隊漫才としてそこそこ売れたものの、コンビ解消。ご遺族によると、給金の配分で揉めて解消をしたという。

コンビ解散後、木馬館や松竹演芸場で仕出しをしながら、相方探しに奔走する。

 1967年11月、友人の大空みつる・ひろしに紹介される形で、大瀬こいじと出会い、コンビ結成。「忍ぶ恋路の仲」から「しのぶ・こいじ」と名乗る。

 なお、大瀬うたじ氏から伺った話では――

「本当は大空ヒット先生に弟子入りしたかったらしいのです。うちの先生たちは。でも、大空ヒット先生から『中年から僕の弟子になっても仕方ない。大空をもらったからとて苦労するだけだ』と諭され、『大空の大をとって大瀬というのはどうだろうか』と提案されたので、これを名付けたそうです」

 との由。これは円朝祭りの際、直接捕まえて聞いたので事実であろう。

こいじの前歴

 相方のこいじは東京生まれの東京育ちという都会ボーイであった。父親は牧師に奉職しており、ハイカラな家庭だったという。

 そんな環境から幼くして洗礼を受け、キリスト教徒だった。

 当時としては珍しく高学歴で、青山学院大学に進学。ここで本格的な学問を学んでいたそうで、教授からの覚えも良かった。そのため、後年漫才になった際、しのぶは「こいじくんの恩師から『君は漫才になったのか』と嫌な目を向けられた」と述懐している。

 卒業後、一般企業に就職してサラリーマン生活を送っていたが、芸人の夢断ち難く、NHK放送劇団に入団。声優となる。

『読売新聞夕刊』(1971年4月15日号)に、

「こいじは東京出身でNHK放送劇団に六年在籍、日活映画にも出演していたという変わりダネ」

 という記載がある。以来、声優と映画俳優の二足わらじを履いていたが中々芽が出ず、廃業。

 お笑い芸人に転身し、コントグループ「あちゃらかグルッペ」に参加、リーダーの今木とおるが得意としていた兵隊コントの相手役として腕を磨いた。

 あちゃらかグルッペは謎が多いものの、1960年代のコントブームの際に出来た一団だそうで、今木が義太夫の調子にあわせて「ほんとのようでてほんとじゃない。ウソのようだが、ウソではない。それはなんじゃとたずねれば、アラ、ジョーダン、ジョーダン」とうそぶくギャグがあった。

 長らく兵隊コントの一員としてキャバレーや演芸場を廻っていたが、いつまでもうだつが上がらないのに嫌気がさして漫才界に転身した。

 その後、木馬館を出入りしている時に大空みつる・ひろしから「いい相方がいる」と誘われ、出会ったのがしのぶであった。

コンビ結成と売り出し

 コンビ結成後は浅草の舞台にあがり、前座格として漫才の方向性を模索していたが、しのぶ自身の訛りやコンビ関係のチグハグさから初めは随分といじめられ、多くの後輩に抜かされていく辛酸を舐めた。

 特に木馬館に毎日のように来る老婆には泣かされたそうで、少しでも漫才がまずいと幕を閉められる、大きな声で「つまんないね」と嫌味を言われる――など、相当にしごかれたという。

 この頃が貧困のどん底だったそうで、「食べられる雑草をつんで『これはウサギにあげるんです』『せがれが学校に持って行く』とうそぶきながら、家で煮て食べていた」と自伝の中で語っている。

 何度も解散や廃業の危機もあったが、東北訛りや方言を逆手に取った方言漫才を編み出し、東北訛りを持つしのぶが都会的なこいじをやり込める漫才を確立した。

 この方言漫才を生み出したきっかけは些細な事だったらしく、木馬館の仕事の折、雷が鳴り始めた。しのぶは地元の放言丸出しで「外では雷様(らいさま)が鳴って、皆さん、へっちょ取られますよ」と話し始めた。こいじが呆れて「らいさまってなんだ」と答えると、「お前大学でてそんな事知らないのか、ゴロゴロピカと鳴るやつさ」「そりゃ雷じゃないか」――これが漫才になった。

 しのぶが方言でボケる、こいじがそれを呆れながらツッコんでいく――という姿勢がウケにウケた。しのぶ・こいじともに「打ち出の小槌を得た」という程であった。

 このネタはいじめ抜いて来た老婆の胸にも響いたそうで、「よくここまでうまい漫才をできるようになった」と老婆は1ダースのビールに千円札を沢山貼り付けて「祝儀」として送ったという。これは流石の二人も涙を流して喜んだという。 

 この方言漫才の確立によって、作家の神津友好らに注目されるようになり、神津氏はこのネタをもとに「僕の民俗学」という台本を書いている。

この頃より、少しずつラジオやテレビに出演するようになり、漫才コンクールの出場権も得た。また、漫才グループ21にも参加し、あした順子・ひろし、大空みつる・ひろし松鶴家千とせ・宮田羊かんなどと共に鎬を削った。

 1969年2月15日、第17回NHK漫才コンクールに出場し、『ぼくの民俗学』を披露。同回のパンフレット――

「ぼくの民俗学」大瀬しのぶ・大瀬こいじ
 初出場。名前の由来は、古歌から、「逢瀬」「忍ぶ」 「恋路」を組合せて考えられたものだが、顔ではゴツイ男同志のコンビにふさわしくないので、「大瀬」を亭号としたわけだ。
 ボケのしのぶはかつて大判・小判で兵隊マンザイ をやっていた宝小判。ツッコミのこいじは、かつてあちゃらかグルッペで、将校役をやっていた今木とおるだから、二人とも「兵隊マンザイ」に関係があるのも面白い。もっとさかのぼると、二人の芸歴は司会者(しのぶ)、声優、映画俳優(こいじ)多彩。 コンビ結成は42年11月。 デッサンの出来たフレッシュコンビといえる。

ついで1970年2月14日、第18回コンクールに出場し、『ぼくの教育学』を披露。同回のパンフレット――

「ぼくの教育学」大瀬しのぶ・大瀬こいじ
 昨年についで二回目の出場。
 “逢瀬忍ぶ恋路”というのを、ひとひねりした大変ロマンチックな芸名。コンビの名としてはきわめて印象的でいい。
 しのぶはかって大判・小判の名で、兵隊漫才をやっていた宝小判。こいしはかってあちやらかグルッペで、将校役をやっていた今木とおるだから、二人とも「兵隊マンザイ」に関係があるのも面白い。コンビ四年目。ボケ(しのぶ)、ツッコミ(こいじ)という従来のタイプから、しのぶがひとりで両方を兼ねるというスタイルを、近ごろ打ち出しているのは注目していい。

 そして、1971年4月12日、第19回NHK漫才コンクールに出場し、丸目狂之介『堅い商売』を披露し、優勝をおさめた。同回のパンフレット――

「固い商売」大瀬こいじ・大瀬しのぶ
 おととし、去年につづいて三度目の出場。芸名は、”忍ぶ恋路〟という、大変ロマンチックなもので、印象をとらえる点では効果的。
 ところが、芸歴を見ると芸名ムードとはかなり縁遠い。体が大きく、メガネをかけているほうのしのぶは、かつて宝大判・小判の名で兵隊漫才をやっていた小判であり、相棒のこいじはこれまた兵隊コントをやっている「あちゃらかグルッペ」の一員で、将校役で人気のあった今木とおるだから、二人とも「兵隊漫才」のOBということになる。
 漫才には「ボケ」というオトボケ役と、「ツッコミ」というリード役があり、この対比が対話の妙をかもし出しているわけだが、このパターンを破って、しのぶがボケとツッコミ両方をやるという、高度のテクニックを試みている。つまりしのぶにかかるウェイトが大きいのである。こんどのコンクールは”八分間”というワクの中での勝負だけに、新ネタか持ちネタかで、虚々実々の作戦が練られる。このコンビは馴れたネタでゆくという。

 しのぶ当人の懐古によると「有望視されていた先輩たちが三位、準優勝とおさまったのでまさか……と思ったら、大瀬しのぶ・こいじと呼ばれ、『ヤッター』と思わず歓声をあげてしまった」ほどうれしかったという。

 以降は歌謡ショーの司会や漫才大会に出演。歌謡ショーでは長らくレギュラーを持ち、ラジオ番組やテレビでも活躍した。

 東北弁に強く、仲間も多かったことから北陸や東北の仕事を中心に活躍するようになる。

 1971年には大瀬うたじ・ゆめじが入門、コンビを組んでいる。

 1975年、しのぶは「スットコ成金音頭・パチンコ天国」なるレコードを発売している。

 1983年頃、大瀬こいじが漫才協団を脱会し、コンビ活動を停止。間もなくしのぶも退会し、青森を拠点に活動をするようになる。

 ただし、解散は明言せず、頼まれれば、こいじとのコンビを復活させるだけの交友は維持し続けていた。

東北の大スター

 しのぶは強烈な東北弁と飄々とした話芸とキャラクターで、東北のスターとして君臨。後年、残っていた髪を全て落とし、見事なスキンヘッドを持ち味にした。

「盛岡レンズセンター」「パチンコマツヤ」「鳥越健康ランド」「菅田のいかせんべい」「焼肉ガーデンペコ&ペコ」などの東北ローカルのCMやラジオで知られた顔となる。その一部は動画サイトでも見られる。

 ローカルタレントの先駆け的な存在といっても過言ではないだろう。「伊奈かっぺい」や「大潟八郎」らと共に東北弁を全国に認知させた功労者である。

 また、東北民謡の司会や催事の司会者としても知られ、「大瀬しのぶショー」と銘打つだけで客が来るというのだから立派なものであった。また、芸能プロモーターとしても活躍し、ローカルタレントや司会者の育成にも力を注いだ。

 長らくマルチタレントとして活躍を続けてきたが、晩年体調を崩しがちとなり、2004年9月、心不全のために死去。

 一方のこいじは、しのぶほどの活躍はしなかったものの仙台を中心に司会や講演で活躍。若い後妻さんを貰って平穏な日々を送ったという。

 長らく消息不明であったが、うたじ氏より「こいじ師匠は2014年12月に亡くなって、その骨は永代供養か何かに出したので、墓はありません」との由。

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