高波志光児・光菊

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高波志光児・光菊

高波志光児・光菊

左から、光児の養父、光児、むらく

高波志たかはし 光児こうじ

 ・本 名 高橋 一
 ・生没年 1919年12月11日~1989年10月4日
 ・出身地 東京

高波志たかはし 光菊こうぎく

 ・本 名 高橋 菊江
 ・生没年 1912年2月25日~1991年6月21日
 ・出身地 福島県

 

 来 歴

 戦前から戦後にかけて活躍した夫婦漫才。立川談志が敬愛する漫才師として知られる。この項は、孫にあたる奇術師の花島久美氏の証言、資料提供によって判明する所が多かった。ご協力ありがとうございます。

 光児は八代目朝寝坊むらくの息子だったらしい。孫の花島久美氏が生前に聞いた話によると、「光児の父親は、むらくという落語家だったそうですが、幼い頃に高波志一座という劇団に養子に出されて、そこで育ったそうです。それでも実の父親との付き合いはあって、仏壇には父親(むらく)と写った写真が飾られていました」。

 この写真を元に清水一朗氏に鑑定をして戴いた所、「八代目のむらくではないか」との事であった。この写真が原因で、清水先生をしくじりかけたのだが、それは余談である。朝寝坊むらく――本名・籾山藤朔といい、春風亭柳昇時代には兵隊落語や酔払いの西出町大変な人気を集めた一人であった。1931年に亡くなっている。

 基本的なプロフィールは、『芸能画報』(1959年4月号)に出ている。

光児 ①高橋一②大正8年12月11日③東京④大正14年東京で初舞台を踏む。後関西新興行、東宝名人会専属等を経て戦後フリー。過去に光菊と共に渡米し活躍トランペットの名手

 幼くして養子に出された光児は芝居や音曲など、諸芸全般を仕込まれ、1925年、6歳の時に子役として舞台に立った。まだ辿々しい足元や口調が残る中で立ち回りを演じて人気があったと聞く。

 義理の親に連れられて、旅巡業の日々を過ごしていたせいか、正規の教育を受ける機会を逸してしまい、生涯読み書きには不自由をした。本名の「一」以外、漢字は書けなかったとの事である。

 妻の光菊の方の経歴は謎が多いものの、『芸能画報』(1959年4月号)のプロフィールが数少ない資料で、

 光菊①高橋菊江②大正元年2月25日③福島④昭和6年関西で初舞台。後光児とコンビでマンドリン片手に活躍中。

 とある。但し、花島氏から伺った話では、もっと早くから踊り子をやっていたそうで、上記のプロフィールは、少々鯖を読んでいる可能性もある。

 1931年頃、高波志一座へ踊り子として入団し、巡業の日々に明け暮れている時に座長の息子、高波志光児と知り合う。

 一緒に旅をするうちに相思相愛となり、子供が出来てしまった事が露見。周囲から猛反発を食らう羽目になった、という。

 二進も三進も行かなくなった末に光児と一座を離脱。追手から逃れるために、貨物船の船底に隠れ、逃避行を遂げた。その後、関西新興行という芸能社を頼りに暫く旅まわりを続けた後、夫婦漫才を結成した――というが、この辺りの資料は少なく、謎が残る所ではある。この辺りの事は、花島久美氏より伺った。

 1933年11月27日に、高橋明美誕生。れっきとした男である。この子は成人した後に音楽業界に入り、「高橋明美とスイングシラブル」なるグループを結成。長らく舞台演奏や歌謡ショーなどで活躍した。また、親の関係から、当時売り出し始めていた落語家、林家三平演ずる「リズム落語」の伴奏を務めていた事もあった。この娘が、奇術師の花島久美氏である。

 明美誕生後、上京。漫才師として、浅草の劇場へ出ている所へ、東宝名人会にスカウトされ、専属になった。笑和会を経て、1942年3月の東宝名人会に出演している。以来、東京漫才の売れっ子として活躍。

 戦後も進駐軍慰問や浅草の劇場に出演し、人気を集めていた。

 ハワイ巡業の時のポスター

 1952年には、大和かほる・わかば母娘と共に渡米し、各地を巡った。ポスターは上記参照。また、1953年頃より始まったテレビ放送にも出演するようになった。

 1955年、漫才研究会の設立に関与し、初期メンバーとして名を連ねた。

 1958年、宮田洋容について、大津お萬、三国道雄・宮島一歩、轟ススム、森信子・秀子らと共に漫才研究会を離脱。東京漫才名人会――後の東京漫才協会へ移籍している。

 長らく松竹演芸場を拠点に安定した活躍を魅せていたが、1971年頃、光児が脳梗塞に倒れ、コンビ活動停止。それ以前から光児は、糖尿病も患っており、合併症というような形で病魔に襲われた模様である。

 倒れた当日、花島氏は偶然、家にいたそうで、

「その日、祖父はテレビで時代劇を見ていまして、コマーシャルになったのを見計らってトイレへ行ったんです。祖父は短気な人ですから、ゆっくり用を足せばいいものを思わずカッとなってしまったのでしょう。思い切り力んだのが仇となったのか、発作に襲われたのでしょう。トイレの中から『久美!久美!』なんて、呼ばれて大変でした」

 との事であった。すぐに病院へ運ばれて一命は取り留めたものの、半身不随が残ってしまったという。

 以来、舞台復帰に向けて、リハビリに励んだものの、生来の短気な気性に加えて老齢も加わり、回復までには至らず、舞台復帰は叶わなかった。

 その後は闘病生活を続け、光児は、昭和の終焉を見届けると間もなく没した。夫を見送った光菊も体調を崩し、後を追っかけるように亡くなった。更に、二人と仲良かった親族もこの頃没しており、関係者は、「死ぬまで一緒だった」と思ったという。

 演芸放送や漫才ブーム以前に引退したせいか、長らく忘れられた芸人として埋没して来たが、1990年代より落語家の立川談志がエッセイや週刊誌で、高波志光児・光菊の事を綴るようになり、談志ファンを中心にその存在が認知されるようになった。

 人一倍芸に厳しく、毒舌家で知られた談志はこのコンビの大の贔屓で

 高波志光児・光菊という漫才は、トランペットを吹きながら、からだがまえに倒れてくる。舞台の床スレスレまで倒れてきて、また起き上がる。
 これは靴に仕掛けがしてあって、舞台に釘だか何だか打ってあって、それに靴を引っ掛けて倒れたり起き上がったりするのだが、ある日ある時、その釘が抜けちゃったからたまらない。そのままドーンとトランペット吹きながら顔から前に倒れちゃったという。痛かったろうなあ。トランペットが顔に喰い込んじゃったんじゃあなかろうか……。私の好きなコンビだった。

『談志楽屋噺』

 その贔屓は、死ぬ直前まで変わらず、 

変った処で、高波志光児・光菊。地方廻りが多かった男女のコンビだったせいか、知らなかったせいか 初めて見た時は、引っくり返って笑ったっけ。靴に仕掛けがしてあるのだろう、トランペット吹きながら身体が前に倒れてくるという珍芸といえばいえないこともないが、私には珍らしかったので受けた/\。内容は忘れたが、そこにいくまでの会話のテンポの早いこと。私しゃ驚ろいたネ。

『遺稿』

 と遺作の随筆集の中でも、そう書いている。今でも談志の著作の中に、絶賛の言葉が残っている。

 芸 風

ラッパの曲弾き

ハンケチのマジック

 

 このコンビの当たり芸は何といっても、光児のトランペットの曲弾きである。

 光児がトランペットで『軍艦マーチ』を華々しく吹き鳴らしながら、マイケル・ジャクソンの「ゼログラビティ」よろしく、前に倒れながら演奏する――という一芸である。これ一本で漫才師としての名を不動のものにした、と言っても過言ではないだろう。光菊はバンジョーを弾いて、夫の演奏の手助けをしていた。

 この曲芸的なネタにはタネがあって、舞台に仕掛けがあった。舞台の所作板が木製の頃は、舞台にこっそりと釘を打ち、そこへ靴を引っ掛けていたのである。

 しかし、大道具に釘を抜かれて芸を披露できない、釘が抜けて倒れてしまうような失敗や、戦後、舞台の床がビリノリウムに変わった事を機に、小型の釘付きボードを持ち歩くようになった。ボードを取り出し、床に置くと、光菊が後ろに乗って、体重をかける事で固定すると、光児が、釘を靴に引っ掛けて前に倒れる――という理屈である。

 花島久美氏はよく靴の修理や引取の使いに出されていたそうで、「靴は物凄い厚底の靴で、特注品でした。メンテナンスが欠かせない代物で、近所にそれを治す専門の靴屋さんがいました」。

 また二人は芸の虫だけあってか、ダンスやコミック奇術なども舞台の中に取り入れていたという。花島氏曰く、「幼い頃、舞台に向かって声をかけてくれとか何とか、よくサクラをやらされました」。

 コミック奇術では、ハンカチの出し入れというものがあった。光菊が、ハンカチを出し入れするマジックを演じようとするがうまく行かない。最終的には、光児の服から消したハンカチを出すことに成功するものの、光児が「まだこんなにある」と、ポケットや服の中からハンカチをたくさん出す、という馬鹿馬鹿しいものであったという。

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