海老一菊蔵(太神楽)
人 物
海老一 菊蔵
・本 名 伊藤 親利
・生没年 1932年~1970年代?
・出身地 東京
来 歴
海老一菊蔵は戦後活躍した太神楽曲芸師。三代目三遊亭円遊の息子でもある。海老一の正統的な継承者として活躍し、難曲「花籠鞠」を一月足らずで覚えたという達者さで売り出したが、師匠の夭折や諸事情で芸人を廃業。海老一宗家を受け継ぐことなくここに絶えた。
父は戦前明るい芸風で売れていた三代目三遊亭円遊、母は元祖女流落語家の一人・立花家色奴、妹は母と組んだ小奴という芸人一家であった。
幼い頃は、父の売れ盛りであり、相応な暮らしをしていたが、戦時中は父も落語家を廃業して幇間になるなど、苦労を重ねた。
1945年3月10日、柳橋の家を東京大空襲で焼き出され、青砥へ疎開。空襲のショックで父・円遊の病が悪化し、3月17日に亡くなった。一家の大黒柱となった親近は芸人として出勤するようになる。
元々戦時中から五代目神田伯龍の下に通い、講談師になるべく芸を仕込んでもらっていたようであるが、虚弱で声が悪かったところから太神楽に転向した。真山恵介『寄席がき話』の中に――
はじめ菊蔵は故名人神田伯竜の門で、講談師を志したが、筒(のど)が向かないことを自らさとり、他人面倒のいい、海老一師匠のところに移った。そして、未完のうちに師匠に倒れられたのである。
とある。
ほぼ同時期に海老一海老蔵門下に入ったのが「海老一勝太郎・小福」といった少年。後の海老一染之助・染太郎である。
お染ブラザーズが早くから落語協会へ送り出されたのと違い、菊蔵は海老一海老蔵の下で養育され、芸術協会所属となった。師匠の前名「海老一菊蔵」を名付ける辺り、相当の期待があったのだろう。
戦後間もないバラックの寄席で初高座を踏み、以来少年曲芸師としての腕を磨く事となる。
早くから師匠に芸を仕込まれた事もあり、難しい曲芸をこなせるのが売りであったようである。覚えの速さは芸界でもずば抜けていたらしく、安藤鶴夫は『舞台人』という随筆集の中で――
寄席の大神楽という演芸の中に、籠毬あるいは曲鞠という曲芸がある。
籠の左右、あるいは上に通り道がついていて、朱色の美しい房などが垂れ下がり、中心に一本柄がついている。
この柄を、右や左の手に持ち変えながら、白や赤い絲で巻いた毬を、まるで生きもののように、籠の右の口から入れてみたり、左の口から通してみたり、あるいは上の口から投げ込んでみたりしながら、思うさまにさま/\の曲芸をみせる。
この芸を覚えて舞台に出るまでにはざっと十年掛るといわれていた。少くとも十年の修業を積まなければ、ひと様のみている舞台に立って、芸らしい芸をみせることは出来ないとされていたのである。ところが、戦後、海老一の菊蔵という少年が、僅か三月ぐらいの稽古で曲鞠の籠を持って寄席の舞台に立って、この迷信を物の見事に打破した。籠毬の太夫がいなくて、師匠が夢中になって教え込んだからのことである。
と激賞している。
その頃の高座振りを劇評家・長尾一雄が『新劇』(1974年5月号)の「奇妙な女優たち」の中で触れている。引用してみよう。
私が寄席へ通うのをおぼえたころ、それは先代の桂文治が八十いくつでまだ高座へ出ていたころだが、海老一菊蔵という太神楽の芸人が居た。中学三年とかいう少年で、年の割にあどけなさのない、長い引き締まった顔をしていた。太神楽というのは、飾りのついた円筒形の籠を寝かせて竿の先につけ、その竿を額の上に立てたり、そこに鞠をくぐらせたりする芸が中心で、この芸をおぼえてから舞台に出るまでに十年かかると言われたものだそうだが、菊蔵はそれを三ヶ月でおぼえて高座に出たのが当時の語りぐさだったらしい。そのことはずっとあとになって私の知ったことだが、私の見た菊蔵は「曲鞠」と言われるこの芸をやらずに、額の上の竿にいろいろな積み木のようなものを組み上げて行って、その総体を立てたままくるくる廻してみせたりする「立て物」や、ナイフの曲取りなどを主に演じていた。
しかし、1951年頃より師匠の海老蔵が病むようになり、やむなく柳語楼と出るようになったが、その柳語楼も1954年に死去。
それから数年間は一人高座で曲芸をやっていた。如何に若いとはいえ華やかさもなく、淡々と高座を演じるので、西洋式のキャンディボーイズや賑やかな海老一染之助・染太郎と距離を置かれることとなってしまった。
1958年に師匠・海老蔵とコンビ復活。『新文明』(1958年6月号)の寄席欄に――
〇もう一人病癒えたなつかしい藝人に海老一海老蔵がある。実に七年余の長きに亘る闘病生活の後帰って来たこの人に、一〇日の末廣の昼席で相まみえた。昔通りの菊蔵の後見として、さすが一まわり小さく、地味になってはいるが、何よりもきたえ上げた藝人の証拠には背筋のピンと伸びた姿勢がカッキリと美しく、海老一独得のあの間のぬけたかけ声に春また来る感を抱いた。この七年の間、菊蔵の凋落は見るも哀れだったし、そのためか往年の美しい立て物や、刃物をとっての投げ業のあざやかさに未だ見ることが出来なかった。菊蔵が何度も失敗するたびに巧妙な捨ゼリフをはさんだり、はては珍無類なお祈りを上げるなど、海老蔵芸尽くしを見せられる楽しみはあるが、なんとしてもさびしいかぎりである。しかしこの少年な少年の顔の上に、再び往年の冷えびえとした微笑みの魅力が帰って来ていた。師匠が無事に帰って来てくれたのをそれは無言でむかえているようだった。
しかし、その後、長くは続かず、1960年7月を最後に師匠とのコンビを解消。
その後は海老一勝太郎という初老の男を後見にして高座へ出ていたが、往年の達者さを発揮できないまま、休席や旅回りが続くようになってしまった。
1962年1月初席を最後に芸術協会を退会。芸人も廃業したという。
都家歌六が『ご存じ東西噺家紳士録』の解説書に記した話では――
しかし、菊蔵は三歳年下の妹の小奴と違ってあまり芸筋の良い方ではなく、間もなく廃業をして、一時のラーメン屋に勤め、その当時まだ小ゑんといった時代の今の談志さんと二人でその店に行ったことがある。それからかなり後になって新宿の地下道で、この菊蔵とバッタリ会って近所の喫茶店へ入って話をしたが、間もなく風の便りに亡くなったと聞いた。本名を伊藤親利といい、仲間では親坊々々と言っていた。昭和7年の生まれだから、当時40代半ば位だっただろう。
とある。また、落語研究家の清水一朗氏も似たようなことを言っていて、
俺は菊蔵と同世代だから(氏は1934年生れ)、まだ寄席芸人だったころの菊蔵と面識があった。菊蔵が高座から消えてどれくらいたったかなあ、それでも相当前の事、新橋演舞場に行ったら菊蔵がいたから声をかけたんです、そしたらね、「芸人から足を洗いました」って淋しそうに言っていたのを思い出しますね。あれが最後でした。
1964年、師匠の海老蔵が死去。この時はまだ健在だった――と風の噂で聞いたが、既に芸界にはおらず、海老一宗家の筋はここで廃絶する事となった。
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