梅川玉輔・梅奴

梅川玉輔・梅奴

玉輔・梅奴と思われる写真

 人 物

 梅川うめかわ 玉輔たますけ
 ・本 名 梅川 正三郎
 ・生没年 1894年~1945年3月10日
 ・出身地 大阪

 梅川うめかわ 梅奴うめやっこ
 ・本 名 梅川 ヤス子
 ・生没年 1907年~1945年3月10日?
 ・出身地 ??

 来 歴

 梅川玉輔・梅奴は戦前活躍した夫婦漫才。玉輔は上方落語の名人・桂文都のせがれで、自身も「桂文都」と名乗っていたが、上方落語の凋落や一身上の都合で廃業。妻と共に漫才師に転じ、東京漫才界の幹部になった変わり種である。

 落語家時代の経歴や動向は『上方落語史料集成』に詳しい。物凄い熱量のこもった研究調査なので、一読必須である。

 長年、生年が不詳扱いであったが、戦時中の名簿「陸恤庶發第四七五號 船舶便乗願ノ件申請」(昭和14年5月6日)に、年齢が出ており、逆算ができた。以下はその写しである。

(アジア歴史資料センターより)

一、往航 昭和十四年五月十五日宇品出帆(千歳丸)塘沽行 
二、復航 同 七月上旬 塘沽発 宇品行
陸軍恤兵部主催 北支方面皇軍慰問團人名表(一行八名)
 藝 目     藝 名      本 名   年 齢  
落   語    春風亭柳好   松本亀太郎  五二 
手品、笑話    三遊亭右中    有原次郎  五四
物真似、三題噺  三遊亭三橘   古賀市太郎  四八
三味線曲弾    豊年齋梅二    尾崎岩三  四四
 歌謡漫才     梅川玉輔   梅川正三郎  四五
(歌謡漫才)    梅川梅奴   梅川ヤス子  三一
 舞踊漫才    隆の家妻吉    磯野つま  二九
(舞踊漫才)   隆の家萬龍    佐藤由ノ  二六

 父・三代目桂文都は、明治~大正の上方落語の名人として知られ、「立ち切れ線香」を得意としていた関係から「立ち切れの文都」とあだ名されるほどであった。

 一方、酒癖が非常に悪く、酒浸りだったため、仲間からの評判はあまりよくなかったともいう。 

 そんな父を持った玉輔は、早くから落語界を知っていたようだが、入門は案外遅く20近くになってからであった。

 また、父の弟子でありながら、父の所属する浪花三友派には所属せず、ライバル団体の反対派に属していた。『落語系図』掲載の「大正三年八月大坂反対派岡田興行部連名」と反対派の「大正三年八月三十一日より出番」の前座に「はなし 都司男」とあるのが最古の記事だろうか。この時、彼は数えで20歳である。

 前座名は「桂都司男」。これで「トシオ」と読むらしいが、どうしてこんな芸名になったのか不明。

 その後、「桂文鈴」と名乗ったらしいが(『落語系図』の記載はこれ)、すぐさま「桂玉輔」に名前を変えたか、あるいはそれが前後しているか。如何せんわからない。ただ、「玉輔」を長く名乗っていたのは事実である。

 父譲りの芸と話術を持ち、しっかりとした芸を持っていたようで「動物園」「浮世根問」「子別れ」などを明朗な話術で聴かせた。その反面、父同様に酒癖が悪く仲間からは敬遠されていたという。

 1916年、父の文都が中風で倒れ、事実上の引退を果たしたことにより、父の元に復帰し、三友派に移籍。ここで芸を磨くことになった。

 1918年12月、父の文都が死去。これに伴い、事実上の一本立ちを行った模様か。

 父が亡くなった後も三友派に所属し、1921年頃、同僚の笑福亭枝鶴(後の五代目松鶴)、桂米之助(四代目米団治)などと共に「落語研究会」を開催して、その手腕が認められるなど、上方落語の若手として注目されていた時代もある。この頃が落語家としての絶頂だったのではないだろうか。

 1922年10月、駱駝印オリエントレコードよりレコード「動物園」を吹き込んでいる。相応に人気はあった模様である。これは『ご存じ古今東西噺家紳士録』に収録されている。

 しかし、1923年頃に三友派を離れ、色物主体の「大八会」に移籍。そこで一枚看板となった。 

 1925年頃、父の名跡「文都」を襲名。『上方落語史料集成』によると「北国新聞」(10月8日号)に、

「三枚看板の一九席 四代目桂文都の襲名披露として、文都をはじめお馴染みの源一馬、これもお馴染みの福円という三枚看板で賑やかな大一座。文都は大阪落語で時々頓驚な声を出して吃驚させながら可笑しく話を進める。大坂としては癖のない方。一馬は一声の吟声で剣舞をやるが、肥った体で大分苦しそう。手踊は見て居ても楽、堀端の忠弥など楽なもの。福円の話は何時もながら軽い」

 一馬、笑福亭福円とのトリオは数年間続き、これで朝鮮巡業や九州巡業なども行っている。

 しかし、この頃になると、上方落語界の人気が凋落するようになり、寄席や劇場も閉鎖されるようになる。玉輔は古巣の神戸に戻り、松本座という劇場に出ていた。

 その松本座も1931年6月限りで閉場――玉輔も消息が途絶えた……と思いきや、どういうわけか、東京へ移籍し、漫才師となった。

 東京漫才になった経緯、参入の詳しい期間は不明であるが、一回り下の妻と共に「梅川玉輔・梅奴」と名乗り、漫才小屋へ出るようになった。「玉輔」は落語家時代の名残、梅川は本名である。

 一枚看板になった経緯なども不明であるが、1936、7年頃には番組表などに出てくるようになる。当時の看板には「珍芸漫才」とある所から、落語家時代に覚えた踊りや珍芸を演じていたようである。

 1939年5月には、陸軍恤兵部の依頼で中国戦線を慰問。上の写真はその時に撮られたものらしいが――? 判別までは出来ていない。 

 1940年代初頭の人気はまずまずあったようで、浅草江戸館や周辺劇場の常連であった他、漫才大会などにも出演している様子がうかがえる。

 1942年の帝都漫才協会再編では第8部に所属。

 戦時中は「農村・鉱山慰問」といった慰問公演で生計を立てていたようである。

 しかし、戦争末期の3月10日、東京大空襲に巻き込まれ罹災死を果たした――という。『高見順日記』の中に――

 十日の空襲で、貞山、李彩、扇遊、岩てこ、丸一丸勝、梅川玉輔が死んだ。講談の装楽、浪花節の愛造、越造等行方不明。(正岡容の消息から)

『終戦日記』(4月5日号)

 と記されている。一方、落語事典などでは「5月25日没」とあるのでわからない。こちらは5月の東京大空襲で死んだという解釈だろう。

 ただ、玉輔夫妻は芝崎町に住んでいたので、死んだとするならば3月の空襲の方が正しいのではないだろうか。少なくとも高見順が空襲の直後(4月5日号)に「十日の空襲で死んだ」と書いているのを見ると、3月に死んだ方が正しいのではないか。

 5月に死んだ事を考えるとその日記の齟齬が出てきてしまう(高見順の書き間違えなら兎も角も)。

 また、一部文献では「防空壕で夫婦共々焼死」とあるがどうなのだろうか。

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