永田女一休・繁子
人 物
永田 女一休
・本 名 高橋 安子
・生没年 ??~1981年以前
・出身地 ??
永田 繁子
・本 名 長田 しげ子
・生没年 ??~没
・出身地 ??
来 歴
永田女一休・繁子は戦前活躍した女流漫才師。実の姉妹で、繁子は夫・一休とコンビを解消して、実の妹と組んだという変わり種。
永田繁子は、戦前「一休・繁子」で人気を集めた岩崎繁子その人。経歴は「一休・繁子」を参照にしてください。
女一休は、岩崎繁子、永田小繁の妹。永田和尚は義理の兄。
『都新聞』(1937年5月13日号)に
繁子が長女で小繁が次女、女一休が三女で、姉妹三人共漫才になつてゐる譯だが、この三人姉妹、おなじ両親を持つてゐるからとはいへ顔から姿まで瓜二つ、一休でさへ、どれが女房の繁子だか時々見當がつかなくなるなどは危ない話だが
と、ある。事実、顔がよく似ている。
親は「昭和會」という演芸一座の座長で、幼い頃から舞台を踏んで育ったという。『都新聞』(1935年8月12、13日号)の『漫才銘々傳』曰く、「この時代の収穫としては、現にコンビを組んでゐる當時座長の娘だつた繁子と得たことも数えられよう」とある。
1920年代後半に姉が一休と結婚。浅草で人気漫才になったのを機に(昭和会も解散したのを機に)、上京して漫才になった。
最初は姉の小繁とコンビを組んで、姉妹漫才をやっていたというが、情報は少ない。
1938年初頭より一休と別れた姉の繁子と組んで漫才コンビを結成。義兄の永田一休と共に、籠寅興行部に所属していたそうである。
私生活では、「高橋久次郎」という興行師と結婚し、男の子にも恵まれたが、1940年に久次郎が中国戦線で戦死。息子も夭折し、未亡人になってしまった。
『都新聞』(1940年4月30日)の『女一休感激の漫才』などでは、「名誉の妻」と書かれているが、さぞむなしく、寂しい孤独を抱えていたのではないだろうか。
夫も子も失った女一休は、姉の繁子・一休夫妻の末の男の子をもらい受け、これを育て上げたという。
戦時中は姉と共に籠寅興行に所属し、漫才大会に出演している記録が残っている。人気はあったようで、関西にもたびたび出演して居た。
1942年頃には女一休・小奴というコンビを組んで浅草の劇場などに出ている。この小奴が何者かはわからない。
姉同様、敗戦と同時に消息が辿れなくなる。廃業した模様か。繁子死に、一休病んで一線を退き、戦争で夫を失った悲しみや事情から辞めた可能性が高い。
1981年までに亡くなった芸人をまとめた『芸能人物故者芳名簿』には名前が出ている。
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