内海桂子・好江

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内海桂子・好江

内海桂子(右)・好江

コンビ結成直後 

巡業の一コマ。真ん中二人は東まゆみ・大和ワカバ

 人 物

 内海うつみ 桂子けいこ

 ・本 名 安藤 良子
 ・生没年 1922年9月12日~ご健在
 ・出身地 千葉県 銚子市

 内海うつみ 好江よしえ

 ・本 名 奥田 好江(旧・栗田)
 ・生没年 ??~1936年2月23日~1997年10月6日
 ・出身地 東京 浅草

 来 歴

 内海桂子こと安藤良子は、網中一良と安藤千代の長女として千葉県銚子市に生まれる。当時、二人は恋愛関係の末に駆け落ちし、千葉県銚子市へと落ち延びた所であった。そのため、出生届を出すのが遅れ、戸籍上では「1923年1月12日」生まれとして登録されている。

 出生後間もなく、父・一良が失踪。千代は夫の消息を辿り、鶴見でスマトラ木工場を経営していることを知る。間もなく鶴見に転居し、同工場の賄いの職を得る。

 しかし、その安定も束の間で、間もなく工場が閉鎖され、失職。一家は残されたスマトラ木を、木炭にし、行商をして何とか生活を繋いだ。

 1923年4月、芝にあった「魚勇」という魚屋に就職し、大森に転居。一時期、支店でも働いたようだが、間もなく一良は深川「魚米」という魚屋へ鞍替えをしている。この魚屋の時分は、人に恵まれ、一良の祖母・中村はなと暮らすだけの余裕があったという。

 1923年9月1日、関東大震災に罹災し、命からがら逃げ出した。やっとの思いで千葉県木下へと落ち延びる。同地に住んでいた一良の親戚の家に転がり込み、避難生活を送る。

 復興の兆しが見え始めたころ、一良は仕事を探すといい残して、上京。音信不通となる。夫の態度に業を煮やした千代は、桂子を背負って上京。

 12月だというのに、草履も履かずに単衣で日暮里駅に降り立つような有様であったという。その姿に同情した紳士や荒物屋が、50銭銀貨や足袋を分けてくれた――という美談が残っている。桂子は、自伝『転んだら起きればいいさ』

 日暮里駅で降りると、とりあえず尾久熊の前の親戚を訪ねようと、方向もわからないまま大きな川に沿って、砂利道をとぼとぼ歩いていました。足は血だらけになり、痛くて歩こうにもどうにも歩けません。そのとき、後ろから声をかけてくれた人がありました。荷車に米俵を二、三俵積んだ中年の男性です。事情を聞かれ、震災でやられたことを話すと、
「おかみさん、素足じゃとても無理だ。失礼だが、どこかで草履か足袋でも買いなさい。そして、そのお子さんに何か食べるものを買ってあげなさい」
 そう言って五十銭銀貨を母に差し出すのでした。今なら一万円にもなりましょうか。
「もし、ご主人が見つからず、どこにも泊まるところがなかったら、私のところへいらっしゃい。新宿の駅の前で、『大黒屋』と聞けばすぐわかるから、いつでも相談にいらっしゃい」
 その後、この親切な大黒屋のご主人を訪れることもなかったようですが、母にとっては今も忘れることのできない人です。

『同上』(33頁)

 と語っている。

 上京後、一良のはとこ、中村栄次の家に厄介になり、職を探しはじめる。日比谷公園で天ぷら屋の女中を応募していることを知った千代は、同所で働き始めるが、天ぷら屋の主人に強姦未遂をされる出来事があり、退職。この時、夜の日比谷公園を逃げ惑い、救世軍に助けを求めた事で事なきを得た――と自伝『転んだら起きればいいさ』の中にある。

 震災後は下尾久のブリキ屋の世話になり、母親はそこで働き始めた。間もなく行方不明になっていた一良が現れ、夫婦共々ブリキ屋に就職。弟の清一が誕生するなど、束の間の幸福が訪れたが、それもまた長くは続かなかった。

 仕事がうまく行くにつれ、一良は再び博打に手を出すようになり、親方の仕事を横取りする、手間賃を横領する、博打で家を飛び出す――など、余りの乱行に愛想を尽かした千代は、桂子と共に家を飛び出した。1925年1月の事である。

 1927年、千代はペンキ職人の大橋文三郎と再婚。文三郎には4人の子供がおり、桂子に異母兄弟が出来る形となった。文三郎は、大手建設会社とも行き来のある腕の良い職人で、チョコレートやお菓子を子供たちに買ってくれるような父親であったという。

 1929年、下世田谷区第二荏原尋常高等小学校に入学した。ここで戸籍上の問題に直面し、文三郎と千代の関係がゆがみ始める。一応「大橋良子」として納まったものの、文三郎は安藤家に不信感を抱くようになる。

 以来、文三郎は酒浸りの生活を送るようになり、家に帰っては妻や子供に暴力をふるい、妻の所業を疑うようになるなど、冷たい夫婦生活へと変貌していった。

 最終的に文三郎は、千代が実家に出入りしていることを浮気している事だと妄想するようになり、大喧嘩へと発展。耐え切れなくなった千代は桂子の手を引いて逃げるように離婚した。

 その後、千代は立川松造と再婚したものの生活は苦しかった。

 桂子は、小学校3年で中退し、奉公に出る。1931年12月、子守として神田錦町の「更科」に入社。子守と雑用係として店の手伝いをする事となった。5年の契約であったが、子守の最中に怪我をし、1年ばかりで戻される。赤ん坊であった堀井松太郎が、木刀で遊んでいて、誤って桂子の顔に当て、怪我させたのが原因だったという。但し、桂子自身はこの事を恨んではおらず、松太郎とは生涯の友人であり続けた。

 1933年、南千住にあった第二瑞光小学校の夜間部に入学。精勤賞を受賞し、4年生の免状も授与された。

 この頃、母の勧めで芸事を習い始めるようになり、三味線と踊りを坂東小三寿に師事。この時の稽古が後年の芸の下地となった。

 三味線と踊りが相応にこなせるようになると、舞踊会の手伝いなどに駆り出されるようになり、自然と芸能界と繋がりができるようになった。この頃から、セミプロのような形で、踊り子や伴奏などで舞台に上がっていた模様である。

 1937年夏、高砂家とし松の紹介で、隆の家万龍の父・隆治が経営していた隆の家興行を紹介される。同社には万龍や前田勝之助などが在籍しており人気のある会社であった。

 その巡業に参加し、千葉一帯を旅する。漫才、奇術、三味線と諸芸のイロハを覚える事となったが、興行は失敗に終わり、散々な帰京を果たす事となった。この時に貰った給金が立ったの20円で、両親は怒ったという。当然である。

 然し、この事がキッカケとなって漫才界との繋がりができ、芸能界に1938年、高砂家とし松とコンビを組むようになった。高砂家とし松の本名は、田村喜七。

 その頃、とし松の相方である雀家〆子は病床にあった為、漫才が思うようにできないという事情があったという。

 すぐさま二代目雀家〆子を名乗り、萬成館と橘館で初舞台を踏む。コンビ結成当初は嫌悪な関係が続き、喧嘩ばかりしていたが少しずつ人気を集めるようになった。

 それから3年ばかりコンビを組んで、浅草の義太夫座などに出演していたが、とし松との間に子供ができてしまう。これがキッカケとなり、コンビ仲が拗れてしまい、1942年晩春にコンビ解消。

 その子供は勝利と名付けられ、世間体を考慮して安藤千代の息子として籍を入れられた。この息子は後年、マネージャーとなり、漫才グループ21などに関与した。

 雀家〆子の名前を返上し、三舛家好子と改名。三舛家と名乗れたのは、義父の松造が五代目三升家小勝の甥と仲が良く、名義を貰えたからだという。

その後は相方をとっかえひっかえし、1943年4月には山形一郎という相方とコンビを組む。この人は菊川時之助が得意とした茶筒とヤカンの曲打ちを十八番にしていたという。自伝では、本名で書いてあるが、多分、朝乃航路という芸人である。

 帰国後、山形と別れ、桂梅笑・喜代子の喜代子とコンビを組んでやっていたが、まもなく別れ、林家染芳とコンビを組んだ。その経緯は林家染芳を参照にせよ。

 1944年2月、染芳とのコンビで華北省へ軍事慰問に出発する。帰国後、農村や軍需工場慰問などで生計を立てていた。

 1945年3月、東京大空襲に遭遇。金龍小学校付近まで避難するが、火に巻かれ、あわや大惨事――という時に、肌一面刺青の男が、「動くな!動くと死ぬぞ!」と声を荒げて指示を出してくれ、その通りにしたところ、命拾いをする所となった。

 この頃、染芳の息子、幸治を引取り、育てる事となった。この子は後年、豊来家宝楽門下の曲芸師となり、ラッキー幸治と名乗った。

 終戦後、焼け野原の中で漫才を続けていたが染芳が博打と麻雀に凝るようになり、仕事が激減する。

 従弟の紹介を受け、吉原で団子の行商をはじめるようになる。団子が売れるようになったのを幸いに、お寿司やベンジンなども売り、巧みに金を儲け、インフレ時代を切り抜けた。

 この行商時代に、後年歌謡漫談で鳴らした灘康次と出逢っており、「野崎」の曲弾を伝授した事がある。康次は「秀家」の息子で、お金があるのを幸いに、高級品のギターを持っていたという。

 漫才師としても仕事があればやっていたそうで、だれかれ構わず芸人が居れば、即興漫才をやっていたという。当人及び花島久美氏から伺った話では「高波志光児さんとやった事もある」。

 1948年、キャバレー「富士荘」に出入りするようになり、「桂子」という名前でお店に出るようになった。この頃、染芳と離婚している。

 1949年、大江しげるの頼みで大江笙子とコンビを結成。「大江」の名に対抗して「内海桂子」と名乗った、という説があるが真相は不明。

 三味線漫才で達者な所見せていたが、大江笙子が京美智子とコンビを組んだ事により、なし崩し的にコンビ解消。このコンビ解散は、大江茂の行動に問題があったそうで、内海桂子は自伝の中で、散々大江茂へ恨み言を述べている。

 そのころ、私と別れた男が大江しげるさんとボップ・ホープの芸名で、浅草国際劇場(現在、浅草ビューホテル)の前にあった百万弗劇場に出ていて、お店へ行く通り道だったこともあって、一人の舞台をちょっとのぞいてみました。大江さんが私のところに駆け寄ってきて、
「笙子の相方がお嫁に行っちゃうんで、助けてくれないか」
 と頼むのでした。実は大江さん、その前に、
「あんたのと漫才をやるから、衣装作りの金、貸してくれ」
と言ってきたのですが。そのあとに染芳が断りに来て
「大江が借金の申し込みに来たんだってな。わしは、そんなことは言わんよ。君に頼める立場じゃないし、君には世話になっているんだから……。あいつに、お金は貸さんでいい」
 それから間もなく大江さんは、染方の子供の幸治を修業に預けてあった曲芸の師匠の家へ行き、私の知らない間にお金を借りて、自分たちの舞台衣装を作ったようです。そんな男でしたから、女房の笙子さんの相方を頼まれたときは、ちょっと考えましたが、亭主が借金するような状態で、しかも子供三人が病気で寝ているのでは、笙子さんがかわいそうだと思って、
「一週間くらいだったら、いいわよ」
 と、私は富士荘に臨時休暇をもらうつもりで引き受けました。こうして私は戦後再び、女流漫才として舞台に立つことになったのでした。

(中 略)

……かれこれ半年近く笙子さんと漫才やっていたでしょうか。そのうち仕事の連絡が来なくなり、おかしいな、と思っていたら、
「笙子さんが妹の京美智子とコンビを組んで、姉妹で漫才をやってるよ」
 と、教えてくれる人がありました。こんなことされては、私の心中も穏やかではありません。だれだって黙っていられないはずです。
「どうなってんの」
「美智子が亭主に死なれて、また漫才やりたいと言って急に九州から出てきたんだよ。そんなわけだから、君、だれか相方を探してくれないかな」
 と言いわけするのです。ハイ、そうですか、なんて私も黙っては下がれません。
「そっちで勝手なことをしておいて、店までそめさせて、何よ。そっちが助けてくれと言うから、こっちは店までやめてやってるんじゃないの。相方を探せなんてよく言えたわね。アタシは五年も七年も芸界を離れていたんだからね。今さら相方いませんか、なんてみっともないこと言えませんよ。そっちで、だれか連れてらっしゃいよ」
 私はかんかんに怒って、文句を言いました。 こうなれば、大江さんとしてはだれか連れてこなれば収まりがつかないはずです。それで連れてきたのが、大江さんと同じ亀有に住んでいた今の好江さんだったのです。

(190~195頁)

 それから間もなくして、大江茂の紹介で荒川好江を紹介され、コンビを組むがすぐに解散している。その後、相方を転々としていたが、周りに勧められる形で、好江と組み、1950年「内海桂子・好江」となる。

 好江は、桂子より14歳年下。父親は荒川小芳、母親は林家染寿と漫才師一家であった。その下に、三人ほど妹がいる。

 親が芸人とだけあって、幼い頃より芸を仕込まれた。親が巡業に行くと、兵隊漫才の勝昌介の所に預けられていたという。その頃の遊び友達が、林家染太郎の息子、仁彦であった。

 公式の資料では、1946年に青空楽団で歌手として初舞台――とあるが、好江の講演や弟子の笑組の証言を伺う限り、それ以前より父母の舞台に従って出ていた可能性が高い。

 戦時中、空襲で焼け出され、学校も中退。苦しい生活の中で芸を取得した。青空うれし氏の話では、「戦後直後はひどい暮らしだったそうで、夜雨が降ると雨漏りがひどくて寝てられなかった、っていっていたよ。でもそのお陰で、おねしょがばれずに済んだのよぉ、なんて当人は笑っていたけどね」。

 1946年、青空楽団で歌手として初舞台を踏む。その翌年、出産と子育てで舞台を退いた母・林家染寿の代わりに荒川小芳と父娘コンビを組んで、「荒川好江」として、デビューした。

 その頃はまだ少女漫才といった趣で、後ろ手に手を組んで「アラ、許してネ」と小生意気にいうギャグがあった。

 それから間もなく父の小芳が患い、失明同然に陥った為、親子漫才を解散。

 生前交友のあった森サカエ氏によると、「うちの親父(玉子家辰坊)と小芳さんは古い仲だったのか、まだ幼い好江さんがお父さんの杖代わりになって一緒に来たことがありますよ。」。

 その頃、剣劇の浅香光代一座に入団し、「浅香好江」と名乗って役者をやっていたこともあった。世志凡太氏によると、「好江さんはウチの浅香の世話になっていまして、何やらオヤジさんが連れてきて、うちの娘を役者にしてくれ――と頼んだそうです。後年浅香のところに来て、あの節はお世話になりました、なんて仲良く話をしていたのを覚えてますよ。あまり長くは居なかったようですが……」。

 1950年頃、大江しげるの斡旋で内海桂子とコンビを組むが、すぐさま解散。母親の染寿から相方の打診をされるが「看板が落ちる」という理由で拒否。ギターを弾いていたり、バイトをして日々を過ごしていた。

 染寿の斡旋で改めて内海桂子とコンビを結成。「内海好江」と改名した。時に14歳。

 その頃はまだ三味線も踊りも未熟で、内海桂子をはじめ、長唄や舞踊の先生からキツく指導された。内海桂子の指導は過激を極め、他の芸人から陰口をたたかれるほどの厳しさであったが、天性の勘と才能で難題を切り抜け、三味線も踊りも見事に会得した。

 なお、一部資料などでは内海桂子の弟子――という記載があるが、これは真実ではない。両人共に五分五分の覚悟で舞台に立っており、好江自身も弟子だとは一度も口にしたことがなかったという。今では明言している記事があるが、好江生前にはそんなことはない。好江も否定していたという。

 桂子自身も自伝の中で、

「好江ちゃんは、桂子さんのお弟子さんでしょう」
 なんてよく人は言いますけれど、弟子ならまだ楽です。やる気がなければ、
「やめちゃえ!」
 とひと言いえば、いいのですから……。そりゃあ、十四という年齢の差のため、内輪ではどうしても上下の関係は出てきます。だけど、そんなことはお客さんには関係ないわけで、舞台へ出たら五分と五分だよ、とは常々好江ちゃんに言っていることでした。

 と、否定的見解を示している。何度も言うが、弟子ではありません。

 1955年、漫才研究会の初期メンバーとして参加。同会の会員となる。この翌年に始まったNHK漫才コンクールに参加。

 意気込んで舞台に上がったものの、相方との呼吸が上手く噛み合わなかった事などあり、第1回は3位、第2回は次点、第3回は準優勝、と辛酸をなめることとなった。

 3回目のコンクール後、好江は服薬自殺を試みる。幸い一命をとりとめ、命に別状はなかったものの、この事件をキッカケにより一層の稽古に励み、コンビとしての自覚を両者に植え付ける事となった。

 1958年、第4回NHK漫才コンクールを『日本烈婦伝』で優勝を勝ち取る。苦しい稽古と努力の成果が実った。

 以来、スターダムの階段を上り、演芸番組や漫才大会などで大トリを取るほどの人気者となる。またコンビ揃って柳家三亀松や桂文楽に可愛がられ、寄席のノセモノや東宝名人会などに呼ばれる事もあった。

 1961年、『日本烈婦伝』の話芸が評価され、芸術祭奨励賞を授賞した。以来、『私の田舎』『唐人お吉』『オペラは楽し』『日本酒物語』など次々と新作を手掛けた。

 人気が高まるにつれ、仕事の数も給金も増え、生活も安定するようになったが、以前からあった二人の確執が一層悪化し、1962年にはコンビ解散寸前にまで至った。好江は、桂子に愛想を尽かし始め、次の相方まで用意するほどであった。

 その時に救いの手を差し伸べたのが漫才研究会の会長をしていたリーガル万吉とマセキ芸能の社長であった。この一件以来、好江は万吉を師匠分として深く尊敬をするようになった。

 1966年12月3日、好江は神田学士会館で造園業を営む奥田寛と結婚式を挙げる。「奥田」と名前が変わった。夫は芸能界と殆ど関わりの持たない身持ちの固い人であったが、好江とのおしどり夫婦ぶりは有名で、その死まで長らく付き添った。

 以来、両人共に家庭を持ちながら、東京漫才を率いていく第一人者として活躍。古風な三味線漫才のスタイルを維持しながらも爆笑を取るコンビとして、一世を風靡した。

 江戸前の二人のキャラクターは、多くの芸人から愛され、永六輔や小沢昭一などとの交遊も深めるようになった。永六輔の推薦で『ばらえていテレビファソラシド』の司会を勤めた他、『ライオンのいただきます』、『お笑いスター誕生!!』などの審査員や準レギュラーなどを務めるようになった。

 1981年より横浜放送映画専門学院(現日本映画大学)の講師として招かれ、漫才の講義を展開する事となった。この起用の背景には学院長であった今村昌平が学生のアドリブやユーモアを養うためにと、脚本家の大西信行に相談し、紹介されたという経緯があったそうである。

 厳しくも愛のある講義は、一躍注目のタネとなり、この講習生からピックルス(楠美津香)、ウッチャンナンチャン(当時おあずけブラザーズ)、出川哲朗(当時ペンギンズ・ばー)などを輩出。

 多くの若手が、このコンビの授業を受けて、芸能界へと巣立っていった。芸に厳しく、礼儀や行儀作法にうるさかった反面、理解力があり、人情味溢れる性格は多くの人に慕われ、後年、漫才協団の理事長に選出されている。

 1982年には長年の功績を以て、芸術選奨大臣賞を受賞、1983年には漫才師としてはじめて芸術選奨文部大臣賞を受賞。1987年には第15回放送演芸大賞功労賞を、1988年には花王名人劇場での活躍を賞して「花王名人劇場功労賞」を得ている。

 1989年には、内海桂子に、漫才師としては二人目となる紫綬褒章が授与され、名実ともに漫才界の大御所として君臨する事となった。その翌年には浅草芸術祭大賞も贈られている。

 名実ともに女流漫才の頂点に到達し、多くの芸人から慕われたが、1995年9月23日、好江の夫、寛が死去。57歳という若さであった。この頃より好江は体調不良に悩み始めるようになった。

 体調不良を抱えながらも、相変わらず演芸番組や劇場出演と忙しい日々を過ごし、『午後は○○おもいッきりテレビ』のコメンテーターや弟子筋のウッチャンナンチャンの番組などに出演。毒舌ながらも愛嬌のあるコメントや凛とした姿は語り草となった。

 然し、その元気も長くは続かず、体調不良を訴え、入院。検査の結果、胃癌が発覚する。闘病に努め、出来る限りの舞台への出演を続けたものの、回復する事はなく、61歳の若さで夭折。コンビ結成50年まであと2年足らずであった。

 その早すぎる死は漫才界のみならず芸能界に衝撃を与え、弟子筋の笑組、ウッチャンナンチャンをはじめ、コロムビアトップ、笑福亭鶴瓶、ダウンタウン、松旭斎すみえ、青空うれしなど東西の重鎮や売れっ子達がその死を惜しんだ。

 桂子は相方の死をきっかけに、コンビを組むことなく、三味線漫談へと戻っていった。もっとも、漫才大会の企画やテレビのゲストとして、インスタント漫才を結成したり、コロムビアトップと漫才をやった事もある。

 1995年には勲四等授与。 

 1998年に、リーガル天才から禅譲される形で漫才協団会長に就任。青空球児副会長、東京太理事長と共に改革に着手し、「社団法人漫才協会」の設立に貢献した。

 2007年に青空球児に会長職を譲ったあとは名誉会長の座が贈られている。

 90過ぎてもなお様々なジャンルで活躍し、あした順子とのコンビやツイッターへの参入、新刊や雑誌記事の執筆など、意気揚々と行っている。ツイッターの更新を楽しみにしている読者もいるんじゃないだろうか?

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