ボクジロー・キミマチコ

ボクジロー・キミマチコ

ボクジロー・キミマチコ

 人 物

 ボク ジロー
 ・本 名 西山 義弘
 ・生没年 1912年4月1日~1998年9月12日
 ・出身地 北海道 函館市

  キミ マチコ
 
・本 名 西山 美栄子
 ・生没年 1926年3月4日~没?
 ・出身地 東京 北千住

 人 物

 戦前戦後活躍した夫婦漫才師。小柄で芸達者なボクジローと、中々グラマーなキミマチコの対比が特徴的であったという。晩年は漫才界の長老的な存在であった。

 ボクジローは、北海道出身。当時としては珍しく商業学校を出たエリートであった。『国立劇場演芸場』(1984年5月号)の解説によると、

初登場の漫才ボクジロー・キミマチコ。ジローは函館出身で明治最後の年の生まれ。芸事好きな親の影響で函館商業在学中から新劇をやったり、新国劇に夢中になったり。結果はお定まりの家出をして上京。阪妻プロ、河合プロ、軽演劇、映画のアトラクション、兵役と有為転変ののち、三十二年、春日ひばりショーにいたキミマチコと組み、漫才コンビとして現在に。

 とある。1929年、役者を志して、上京。同地で勃興していた新劇運動に参加。以来、70年近く芸能界に携わる事となる。

 1931年、阪妻プロ撮影所に入社し、俳優となる。ただし、映画俳優時代のことはよくわからない。

 1932年、河合映画に移籍。同年、兵役のために北海道へ戻り、出征している。

 復員後、軽演劇団を結成し、全国を巡業。「エノケンの弟子」を売りにした、と関係者より伺ったが真偽の程は不明。

 1937年、お笑いに転向し、「ボクジローショー」を結成。寄席やアトラクションに出演した。この頃は漫才というよりも、音楽ショーやコント色が強かったという。

 1942年8月、関東軍派遣の軍事慰問団に参加。『都新聞』(1942年8月21日号)に、

 女流慰問団出發 
 関東軍派遣北南會編成伊藤清井女史を團長とする女流を主体の皇軍慰問が廿一日午後一時東京驛發壮途に就く事になつたが一行の平均年齢は廿三歳といふ若い點では蓋し慰問團での新記録で一行の顔触れは

 伊藤清井、花柳○○美、筑波天郎、同治子、櫻町京子、深川涼子、星關子、松旭齊壽美恵、ボクジロウ、宋吉蓉子

 とある。同年、応召され、出征。

 但し、1943年の大日本漫才協会には入会、「ボク、ヂロー」名義で第九部に所属している。以来、敗戦まで戦線を転々とした。

 敗戦後、復員してボクジロー楽劇団を結成。この頃、入団してきたキミマチコと仲良くなり、結婚している。

 1949年、楽劇団を解散し、漫才へ転向。「ボクジロー・キミマチコ」を結成。

 相方で妻のキミマチコは東京の出身。千住第一小学校卒業後、1940年に春日ひばりショーに入団、14歳で初舞台を踏む。

 1943年、チェリーバンドショーに入団。

 1944年には東洋少女楽劇団に入団。軍事慰問や地方巡業などを続ける。

 1947年、ボクジロー楽劇団に入団、団長のボクジローと結婚。1949年、楽劇団解散に伴い、夫コンビを結成、漫才へ転向した。

 ジローの三味線、マチコのアコーディオンというオーソドックスな音曲漫才を結成。ショー時代に鍛えた独特のネタを売り物としており、

うちのパパとうちのママは蚤の夫婦 大きくて立派なのはママ うちのパパはうちのママに敵わない 大きな声で怒鳴るわ いつもママ ちっちゃな声で謝るのは いつもパパ

 という戯れ歌や、下駄タップ、洋楽を三味線で弾きこなすなど、独特の音曲漫才で活動を続けた。

 主に浅草の木馬館・松竹演芸場を中心に活躍。良くも悪くも賑やかな所から、浅草や地方巡業では大変好まれたという。一方で、その賑やかさは泥臭さに通じていたそうで、当時を知る古老などからは、「うまいけど、大舞台やメディアに出るって漫才じゃないよなあ」という話を伺った。

 1969年9月12日~30日まで、常盤ハワイセンター(現・スパリゾートハワイアンズ)に出演している様子が、『いわき民放』(8月28日号)より伺える。

 1960年代に一度漫才協団に入会するものの、1971年頃に脱退。やはり芸風の違いや出番などの事で、所感があったと聞くが今となっては判らない。

 1977、8年ころ東京演芸協会に移籍、同会の演芸まつりや寄席などにも出演するようになった。

 1981年1月29日、NHK「ばらいえてテレビファソラシド」の企画、『芸歴500年・オールド漫才』 に出演。その背景には、内海桂子・好江や永六輔の斡旋があったという。

 他の出演者は、萩笑三・萩奈良恵吉田茂・東みつ子大朝家美代子・三枡静代。

 当時、萩笑三は84歳、吉田茂は82歳、三枡静代が76歳、ボクジローと萩奈良恵が70歳、キミマチコが57歳、大朝家美代子と東みつ子が56歳、年齢的に500歳になり、芸歴もそれ相応のモノとなる。

 この番組は記録・保存されており、ボクジローの芸を偲ぶ数少ないものとなった。

 1986年9月23日、国立演芸場「演芸を楽しむ会」に出演。これが最初で最後の国立演芸場の舞台出演であった。

 昭和末に、木馬館・松竹演芸場と仕事場を立て続けに失ったが、代わりに立ち上がった東洋館へ移籍し、そこで矍鑠と活動していたという。

 80を過ぎた後も浅草を中心に活動を続けていたが、コンビ結成50年を翌年に控えた1998年、86歳の高齢で死去。

 以下は『東京かわら版寄席演芸年鑑1999年度版』に掲載された訃報の引用である。

▼漫才のボクジローが死去
キミマチコとコンビを組んでいた漫才師のボクジローが九月一二日に死去。八六歳。

 夫を失ったキミマチコは、漫才こそ引退しながらも、演芸協会に籍を置き続け、「漫謡」「民謡ジャーキー」と称し、一人アコーディオンを持った舞台を続けていたが、2000年代前半、老齢のために引退し、芸能界を去った。

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