松旭斎一光(曲芸)

松旭斎一光(曲芸)

若き日の松旭斎一光

十八番の足芸

 人 物

 松旭斎しょうきょくさい 一光いっこう
 ・本 名 市橋 一(宏之とも)
 ・生没年 1886年~1958年以降
 ・出身地 福島県 伊達郡 川俣町

 来 歴

 松旭斎一光は戦前戦後活躍した曲芸・足芸の名人。見世物・大道芸的な要素の強かった足芸を洗練された演芸へと昇華し、寄席や劇場、果ては海外の諸劇場でも通用する演目にまで仕立て上げた功績がある。奇術の名門「松旭斎」の屋号を名乗ったが本業は曲芸師であった。

 その名声の割には資料がない。

 大日本雄弁会講談社『冨士』(1932年新年特大号)に掲載されたプロフィールが今、入手閲覧できる資料の中で一番詳しいものだろうか。

松旭斎一光 本名市橋宏之。明治十九年福島県伊達郡川俣町に生る。六歳にして西濱宇三郎に師事して藝を學び、後伊太利人に伴はれて諸外国を講演し、帰朝今日に及ぶ。四肢の曲傘を得意とす。趣味は撞球。

 また、『アサヒグラフ』(1947年9月10日号)掲載の「告知板極附曲芸」にもプロフィールが掲載されている。

松旭斎一光さん(61)福島の産 七歳の折当時柳樽の名人といわれた父親の卯三郎に伴われて十七年間欧米各地を巡業中足の秘術を体得 重い柳樽より至難な軽い蛇の目傘応用に成功。帰朝後は小樽に定住一たん足(そく)から足を洗ったが初代松天一の懇望で舞台に復帰 再度聖天勝一行と渡米した時は大変な人気で天勝の方は芝居でお茶をした有様だつたとか妻女は嘗ての奇術の松旭斎天静で 兎角海外修行が永く日本語不自由な一光さん助けてから楽屋から後見まで担当

  ただ、『日本奇術文化史』では「本名・市橋一」としている。関係者各位に伺ったところ、当時の名簿や鑑札では「市橋一」となっているらしい。わからない。

 また、一説によると一光を養ったのは、西濱卯三郎を率いていた興行師・吉井某という人だったという。

 この西浜卯三郎という人は「西浜一座」という足芸一座を率いていた芸人だったらしく、鹿島桜巷『談叢第二編』の中の「洋行の太神楽(丸一太神楽鏡味仙太郎の談)」でも確認する事ができる。

 ただ、同著ではどういう訳か「西濱卯三郎」「石濱卯三郎」と記載によってまちまちである。個人的には後者は誤植ではないかと考えている。

 洋行経験のある太神楽の丸一仙太郎によると、西濱一座とは度々共演したそうで、日本大使館で余興が行われた際、「西濱卯三郎が大喜利に出演した」と触れているほか、「西濱の足芸、小供を使っての離れ業」と、西濱一座に子供曲芸師がいた事を示唆している。

 一光の経歴及び当時の事情を考えると、西濱一座は若者主体の曲芸一座だったのだろう。身体の柔らかい子供たちも率先して出演し、大人顔負けのアクロバットや曲技を見せていた事だと推測される。

 実際、一光が福島県伊達郡という田舎生まれである事を考えると、「子供のころに一座へ養子に出され、そこから芸を仕込まれ芸人となった」というプロセスが浮かび上がる。

 一光は養子へ出された瞬間、芸人になる事を運命づけられていたのではないだろうか。当時の田舎事情を考えても、口減らしだった可能性も否定はできない。

 かくして足芸一座に入門して、海外へ出て行った一光であったが――海外巡業時代の経歴は判然としていない。海外の新聞を読み込めば足取りを終えるかもしれないが、そこまで手が回らないのが現状である。

 ただ、日本を代表する足芸一座として売れに売れていたのは事実らしく、後年『ヨシモト』(1937年1月号)の「洋行座談会」の中で、一光はたどたどしい日本語を操りながら、海外巡業の思い出をポツポツ語っている。いくつか抜き出してみよう。

 発言主のエンタツは横山エンタツ、一蝶は轟一蝶、一郎は東洋一郎のこと。皆、渡航経験がある。

記者   そう云ふことは云へますね。一光さんは歐洲でしたな、どの辺を巡られました?
一光   私はコマ師の松井源水の弟に連れられてドイツに行きましてね一行廿二名です。二九年向ふで生活です。
一郎   あんた日本米の味判りますか?
一光   私はにぎりすしが一番好きです。
エンタツ こたえんなこの人は。
記者   ヨーロツパではどこが一番よろしい?
一蝶   花のパリーのシャンガいゝ、
一光   そこつまりません、女が多いから
一蝶   エゝツ!
一同   ハッハッハ。
一光   女の多い處では勉強出来ません。
(一同しんみりする。)
記者   ドイツでは萬才のことを確か、“オムリス”と云ひましたね。
一光   そうオムリス、オムリス、 英國ではコメデーです。
記者   ラブロマンスは?
一光   随分ラブレター買った、今日持つて来るの忘れた。
一同   ダー。
記者   一番向ふでうれしかったことは
一光   一九〇三年、ロンドンのエンバヤー劇場でエドワルド六世陛下の天覧を賜った時です。体がかたくなつて随分や苦しかったが、無事済んだとき涙がこぼれました。
記者   それは光榮でしたな。他に何か面白い話は、
一光   滑稽はありません。
エンタツ 至極簡單ですな。
一光   ベルリン市の美術館にあんた行きなされましたか?
記者 一寸覗きましたが。
一光 あすこに私の画があります。
記者 ほおゝん一光さん。画を描くんですか?
一光 いいえ、私をドイツの画描きさんが描いたんです。
一蝶 何やモデルか?
一光 さう、モデル私の若い時、ドイツのその画かきさんにたのまれて印半天股引、、ぞうりで、扇子もつて立つてゐる姿モデルになりました。今でも確かのこつてます。
記者 印天股引はいいが、手に扇子もつてるのは一寸變ってますな。
一郎 妙なスタイルや佛蘭西りで流行しそうやね

 松井源水の弟――というのは、どうも十五世源水のことのようである。十五世は十四世(日本で最初に洋行した民間人の一人)の亡き後、源水の跡目を継ぎ、海外公演などで活躍していたという。

 17年ほど海外で暮らしていたが、明治末に帰朝。上の年齢から逆算すると一九一〇年頃帰朝ということになるが、それではちょっと辻褄が合わない。後述する天一一座への加入時期を踏まえると、1907、8年頃の帰朝と考えていいのではないだろうか。

 かくして日本に戻った一光であるが、帰朝後間もなくどういうわけか、北海道小樽に転がり込んだという。

 八木義徳『津軽の雪』という本を読むと、「一光の養父母が小樽で店をはじめたから、小樽に住み着いた」という。曰く――

「十六年ぶりに日本へ帰ってきた吉井夫婦は、興行師としての世界からさっぱりと足を洗って、小さな雑貨屋をはじめ、養子の一光を松旭斎天一の一座にあずけた。」

 との事である。

 この小樽時代に「志村文子」という女性と結婚する話があったらしい。

 文子は、1890年3月、青森市油川町の出身。幼い頃に小樽の海産問屋の養女となり、北海道へ渡った――が、十代の時に実家が没落し、自身も働きに出る羽目になった。1906年、室蘭で芸妓になり、同地の花街へ出勤。売れっ子芸妓となった文子は室蘭町立病院で医師をやっていた田中好治といい仲になり、男の子を身ごもった。

 そうして生まれた男の子は後年作家となった――芥川賞作家で私小説の名人とうたわれた八木義徳である。

 八木義徳は晩年、一光の存在を「もし運命というものの針が狂わなければ、この曲芸師は、私の母の夫となったかもしれない」という形で解釈し、私小説『津軽の雪』を発表している。

 それが先ほど引用した文章の原本である。母の思い出と自分のルーツを基盤にして、一光との出会いと別れを素朴なタッチで描き出している。

 実はこの作品が一光の当時の足跡や晩年の消息を知る上で一番の資料になっていたりもする。私小説なので「フィクションありき」というマイナスがつくものの、嘘偽りの少ない作風を得意とした八木の事、「最初から最後まで嘘」というわけでもなさそうである。

 小説の中で、八木義徳は母と一光のそもそもの縁を右のように記している。

 私の母である文子は、数え年九つのとき、北海道小樽で海産物問屋をいとなむ志村源蔵夫婦に養女にもらわれた。(もらわれるまでのいきさつは、この小説には関係のないことだから省略する)
 これは文子が志村家へ養女にきてから三年も経ってはじめて知ったことだが、源蔵夫婦には実の娘が二人もいたのだ。しかしこの娘二人は、事実上、親を捨てたかたちになっていたのである。
 長女のユキは京都出身の吉井という興行師と結婚したのだが、吉井は関西で何人かの芸人をあつめてささやかな一座を組織すると、そのままフランスへ渡り、パリを根城としてヨーロッパ各地を巡業してあるき、夫婦ともここ十年以上いちども日本へ帰ってこない。次女のハナのほうは、親のきめた男をふり捨てて、すこしやくざがかった若い請負師のもとへ走ったため、 頑固な源蔵から義絶されていた。
 戸籍だけの関係でいえば、松旭斎一光と文子は義理のいとこ(義姉の養子にあたるため)ということになる。 
 意外なところで縁がつながるものである。
 母のいた志村家は投資に失敗し、破産寸前に追い込まれ、当主の源蔵も急逝してしまった。家や家財道具を手放し、借家生活を余儀なくされる中で持ち込まれたのが、一光との縁談であった。
 さいわい日露戦争は勝利に終り、小樽の町じゅうが歓呼でわき立っているところへ、パリの吉井夫婦が養子の一光をともなって、十六年ぶりに帰国する旨の知らせが入った。
 母のセンは、めずらしい外国の切手のはった封筒のなかから一葉の写真をとり出すと、
「お前は、このひとと夫婦になるんだよ」
といって、それを文子に見せた。
 洒落た蝶ネクタイに、派手なチェックの柄の洋服を着て、髪を七三に分けた、眉の濃い二十三、四の若い男だった。
「どうだ、なかなかいい男前だろ」とセンはいった。
「なんだかすこし鼻が大きいわね」
 文子は遠慮のないことをいった。このとき文子は満十五歳である。
 お前と一光をいっしょにさせることは、吉井夫婦との前々からの約束であった、とセンはいった。しかし十五歳の文子にとって、結婚はまだ遠い先の夢であったから、センにそんなこと をいわれても、実感が湧かない。 文子はいいとも厭ともいわず、なんとなくあいまいな表情で、その若い男の写真にぼんやり眼をあてていた。それが承諾のしるしとなった。

 実にいい加減な話であるが、その当時は従兄弟やはとことの結婚は何も珍しい話ではなかった。志村家が没落した手前、洋行帰りの芸人の世話になった方が幸せになれるのでは――と考えたのではないだろうか。

 そして、文子母娘は一光を出迎えるべく、神戸へ向かったという。

「吉井夫妻と一光の神戸港へつく日が電報で知らされた。かれらを神戸へ出迎えるべく、センと文子はながい旅支度をして旅支度をして小樽を発ち、函館から船で青森へついた。」

 その途中、青森へ立ち寄ったセンは「文子の実母・トキや兄弟に挨拶しておこう」と、旅館に文子の実家の家族を呼び寄せた。

 結婚の旨を家族に報告すると、文子の実兄の晴夫だけは「芸人なんかの所に妹はやらない!」とセンに食って掛かった。二人の喧嘩はヒートアップし、晴夫はセンに向かって、「こんな鬼みたいなやつのところへ、妹は絶対に返さない。妹ひとりぐらい。おれが養ってやる」と罵倒。文子を連れ出して旅館から出て行こうとした。

 それを引き留めながら晴夫を罵倒し返す母・セン――その姿を見た文子は恐ろしさや「どっちを取るべきなのか」という疑問から思わず泣き伏せてしまったという。 

 結局、この結婚は御破談となり、二人は別々の道を歩み始めた。

 吉井夫妻は小樽に店を持ったものの、妻のユキは急死。夫も倒れて半身不随となり、最終的には実家の京都へ帰った。そして、一光は松旭斎天一一座に預けられ、北海道を離れる事となった。

 一方の文子は田中好治との恋の末に八木義徳を生んでいる。

 そんなドタバタの中で1909年8月、小樽に「松旭斎天一一座」がやってきた。

『見世物興行年表』によると、8月11日より「北海道小樽区住吉座」で天一一座の特別興行が行われた。座長は天一、座員には天勝、天松(天洋)、天花などが控えていた。ここで一週間興行を打った一行は「北海道札幌区大黒座」に移動、8月末には「北海道小樽区住吉座」に戻り、9月上旬まで興行を打ち続けている。

 どうも、この小樽興行の時に「私の一座に来てくれないか」というスカウトが来たらしい。どういう経緯で、どういう伝手を辿って天一が一光と知り合ったのか、その辺りの事は判然としないのだが、「天一からスカウトされた」のは事実のようである。

 天一が一光のどこに惚れたのか判然としないが、「松旭斎一座にバラエティ色を加えて賑やかにしたい」とでも思っていたのではないだろうか。

 さて、天一の依頼を受けた一光は天一一座に入る事となった。そして、松旭斎一門に入る手前、「松旭斎一光」の芸名をもらった。これが生涯の芸名となったわけである。

「松旭斎一光」としての正式デビューは、1909年11月21日より「栃木県宇都宮市寿座」で行われた天一一座の公演だった模様か。「見世物興行年表」に引用されている『下野新聞』(11月21日号)によると――

◇松旭斎天一の奇術 松旭斎天一、新帰朝の子息天二及び一座の花形なる天勝等一行の奇術は愈々二十一日午後五時より市内寿座に於て開演する由なるが、本日の演芸種目は左の如し。
第一 空中のステッキ(天徳)、変幻自在の大金庫(天勝)、滑稽の時計(天良)、特有小奇術数番(天二)
第二 ダイスの小技(天衣)、大奇術男女変幻術(天一)
第三 双手のリム(天松)、宇宙間電気応用廻転自在の少女(天一)
第四 小奇術数番(天勝)、特有滑稽七変化(天一)
第五 曲技(一光)、大奇術南京函(天二)、美術羽衣ダンス(天勝)
第六 美花の出現(天絹)、電気応用八面噴水術(天一)
大切 悲劇応用大奇術と清美人の忍術

 という記載が確認できる。この時すでに「曲技」として一枚看板での出演を許されている。

 以来、一光は「ジャグラー」「曲技」といった名目で天一一座の幕間に出演し、十八番の足芸や曲技を見せるようになったという。

 当時の一光は、十八番の傘の曲芸、樽の回し分けの他に、毬のとりわけ、帽子の曲芸、金輪、鉄球のお手玉などを得意として演じていたようである。

「帽子の曲芸」では燕尾服でシルクハットを顎や頭の上に乗せてバランスを取る、「金輪」ではフラフープ大の金輪を廻したり取っている様子が確認できる。

 足芸を除けば「一つ毬」が見事な出来栄えだったそうで、天勝一座に長く勤めていた奇術研究家の石川雅章は八木義徳の取材に対し――

「器用なひとで、いろいろな芸をやりましたけど、なかでも“一つ毬”という芸が得意でしたね。これは一光さん自身からきいた話ですが、この一つ毬という芸は、一光さんが若いときドイツで修業して身につけたものだ、といってましたな。さすがに外国仕込みだけあって、スピーディで、切れが鋭くて、当時では実にフレッシュな芸をみせてくれたものです」

と答えたという。

入団以来、地方を回り続けていた一光であったが、1910年正月、初めて東京に御目見得し、「新富座」の舞台を踏んだ。

 新富座を打った後は、「東京座」「横浜喜楽座」と当時の首都圏の名門劇場を次々と制覇している。こうした大劇場での公演も相まってか、一光の給金は非常に恵まれていたという。

 1911年正月、天一一座は明治座で公演を実施。

 その後、一行は「横浜羽衣座」「浅草宮戸座」「赤坂溜池演技座」「品川座」と首都圏の名門劇場での公演を続けていたが、二月の品川座の折に天一は痔や腰痛を発病。以来、天一は表舞台に出なくなり、療養生活の日々を送る事となる。

 師匠に倒れられた一光は、これを機に独立を目論んでいた松旭斎天勝と松旭斎天二の両一座から誘われる事となった。天一が一線を退いた後、天勝・天二の対立は激しくなり、一光は、天一への義理もあってか、天勝一座への残留を選択した。天勝一座は、天洋、一光という天一一座時代の仲間と、国子、露子、百合子、花子といった天勝娘子連を看板にして、天一の跡目を相続する事となった。

 天一の地盤と人気をそのまま受け継いだ天勝一座は相変らず空前絶後の人気を集め続けており、1911年7月には大阪角座、八月には京都歌舞伎座で公演を行っている。

 天一から独立した後も素晴らしい人気と評判をとっていたようで、当時の批評を覗いてみると――

「それから奇術ではないが一光の足芸の傘廻しは正真正銘の胡麻化し無しの放れ業であつた。」(『大阪朝日新聞』1911年7月16日号)

「道化に名人のないのがこの一座の物足らぬ所であるが、少女の可憐と一光の曲芸が眼新らしいので補うて行く。」(『同上』7月28日号

「一光の曲芸又頗る巧みにして、足にて傘の扱ひ尤もよく、ボールの扱ひ、輪の背進等何れも旧からず。一光、保一の滑稽大に感心して笑はせたり。」(『満州日日新聞』1911年9月23日号)

 といった高い評価を見ることができる。

 さらに、9月には朝鮮・満洲にまで足を延ばし、公演を行っている。天勝が独立して以来初の海外公演であったが、客の入りも反応も上々で天勝一座は大いに自信をつける事となったという。

 また、天一一座より独立した頃より一光も奇術を覚えるようになり、「大魔術」「コミックマジック」と称して天勝や保一といった同僚とコンビやトリオを組み、滑稽な奇術を披露して観客を大いに笑わせた。

 また、「これからの奇術一座にはクラウン(道化師)が必要だ」といった声が出たのだろうか、松旭斎天右と共にクラウン的な立場を任じて立ち回るようになった。

 1912年6月には既に滑稽曲芸を完成させていたらしく、本郷座に出演した際にはコミカル曲芸を演じている様子が確認できる。『読売新聞』(同年6月11日号)に――

「一光の滑稽曲芸は兎に角腹を抱へさせたが、園遊会式の曲芸を練磨神に迫るとは恐れ入る。」

 と、そのコミカルな演技と磨き上げた技芸の折衷ぶりを高く評価されている。往年のボンボンブラザーズの如く、顔とジェスチャーだけで観客の注目を集めたり、笑わせたりしていたのではないだろうか。

 1912年6月14日、師匠の天一が食道がんのために死去。当時天勝一行は地方巡業の最中であったが急いで東京へと戻り、何とか亡骸と最期の対面を果たすことができた。

 6月20日、天一を入れた棺は新宿の自宅を出発し、深川霊岸寺まで運び込まれた。葬儀の翌日の『読売新聞』(6月21日号)の中に、壮大な葬儀振りが紹介されている。

天一の葬儀 松旭斎天一事服部松旭の葬式は既記の如く、昨二十日午後零時三十分、新宿北町の自宅出棺、行列は仕着せを纏へる出入中を先頭に龍頭提灯、赤十字社其他より贈られし花輪、造花、放鳥は百数十対、十数名の楽僧、輿脇には天洋、一光、天昇、松川、荻原、榎本の六名が鼠地の着物に橘菱の定紋をつけし揃ひの上に羽織、袴を着して付き添ひ、喪主は馨正、位牌登巳正、香爐光国は何れも徒歩、未亡人梅野、娘連、親戚の婦人及天勝、百合子、花子等の婦人連は白無垢で数台の馬車に分乗し、施主は羽織を揃え、柩の先には各国貴顕より拝領の賞牌を捧げしは一と際目立ち、行列は数町に渡り、市ヶ谷見付を三番町に入り、九段より堀端を錦町通り、新道を柳原土手の左衛門橋より両国を渡りて順路深川霊岸寺へ着せり。境内には大天幕の設備もあり、会葬者は夥多しく頗る盛んなりし。

 天一の葬儀を見届けた後に、宮城県仙台市で天一亡き後の初公演。東北を経由して、馴染深い北海道函館市・札幌市へと乗り込んでいる。

 この北海道巡業の折に、結婚する予定であった志村文子が見に来たという。この時、文子は最初で最後の生の一光との邂逅であった。『津軽の雪』によると――

「それじゃ、おばぁちゃんはその一光というひととは、ついに一度も会わずじまいになったわけだね」と私は老母にいった。
「うん、一光からは――母はなぜか一光と呼びすてにした――あちこちの巡業先からよく絵ハガキをもらったけどね。あたしは一度もお礼の返事を出さなかったよ。写真でしか顔を知らないひとだからね。いや、一光の顔はたった一度だけ見たことがあるよ。あれは大正のはじめごろだったと思うけど、天勝の一座が北海道巡業にきてね、ほら、M町の神田座、あそこで興行 したんだよ。そのとき一光があたしのところへ使いをよこしてね、ぜひ舞台を観にきてくれといって招待券をおいて行ったんだよ。それであたしは観に行ったのさ」
「一光さんて、どんなひとだった?」
「舞台だから、顔にお化粧しているしね。それに変った洋服をきて、舞台をくるくるとよく動きまわるもんだから」
「どんな芸をみせたの?」
「さ、古い昔のことだからすっかり忘れてしまったよ。なんでも白いボールを使ってする芸だったと思うけど」
「楽屋へは訪ねてみなかったんだね?」
「訪ねなかったよ。訪ねたってしょうがないもの」
「だって、一光だってそのときはもう独り身じゃなかったろうし、あたしにももうあんた方が出来ていたからね」

 なお、文子が見に行ったという「M町の神田座」というのは、室蘭町にあった実在の劇場である。1902年設立で、「室蘭随一の劇場」と謳われていたという。

 当時、文子は既に室蘭病院の田中好治と関係を持っており、1911年10月には既に八木義徳を授かっていた。「あたしにももうあんた方が出来ていたからね」という発言は間違いではないのである。

 この巡業中の7月30日、明治天皇が崩御し、「大正」と元号が改まった。

 その頃、松旭斎の天下は天勝が勝ち取った。一光もまた一座の幹部として重宝され、天右と共に「一座最高の給料を取る」と噂された程であった。

 天勝一座の拡大に伴い、一光は曲技の他に滑稽奇術、さらには動物物真似や喜劇に出演する事もあったという。同じく曲芸家の奥田一夫(自転車曲乗り)、萩原秀長(自転車曲乗り。妹に初代・松旭斎天華)とコンビやトリオを組んで高座に出る事もあった。

 中でも「雲雀の滑稽」という珍芸は大当たりで、萩原秀長とのコンビで幕間狂言を担当した。天一が没した直後にはもう出来上がっていたようで、『京都日出新聞』(1913年2月7日号)の中に――

一光の「絶妙なる曲芸」中でも殊に傘と輪とが目を惹いた。「珍妙なる犬の曲」は三疋の犬が秀長の言葉を聞き分けて客の求めたカードの数を合すのだが、是れも能く教へたもので、尚ほ一光と秀長の鳥の鳴き声があつたが、是れ亦喝采を博した。

 この「雲雀の滑稽」はどうもメス・オスの雲雀に扮して面白おかしく鳴いたりジェスチャーしてみせる――というコント仕立てのものだったらしい。『長崎新聞』(1914年3月22日号)の中に、僅かであるがその技芸が紹介されている。

〇満知多座 松旭斎天勝一座は単に一人美人天勝のみならず幾多の小天勝ありて鮮やかな手際を見せるので毎夜大入りの盛況なるが、今夜より小奇術は最も嶄新なる物数番を加へる筈なりと。因みに余興の芸術中最も詩的趣味あるは雲雀の表情にて登場の男女二名が雌雄の雲雀の声色を使ひて色合の動作には得も云へぬ妙あり。是非見て置く可きものなり。

「雲雀の表情」は天勝一座の売り物になっていたらしく、各地で演じて絶賛を勝ち取っている様子が確認できる。

 ただ、1915年頃になると萩原秀長とのコンビを解消し(秀長が独立したのが原因らしい)、天勝一座のクラウンとして活動を続けていた松旭斎天右とコンビを組むようになった。

 天右とのコンビでも面白かったようであるが、天右の方が喜劇的センスがあったため、一光は度々食われる事もあったようである。『北国新聞』(1915年9月13日号)に――

⦿天勝の小奇術は数番連続して手際の綺麗な所を見せ、封切魔術とある筒中の美人などは真に鮮(あざや)かなもので、遉がと首肯(うなず)かせる。天右、一光の奇術の種明しは頗る滑の稽なるもので、大いに笑はせ、「雲雀の表情」は殆んど雄の天右が独り舞台で、雌の一光の振はなんだのは甚麼(いか)にも惜しいと思つた。

 と、一光劣勢の旨が記されている。

 その後は歌舞伎座、有楽座、明治座、浅草帝国館、演伎座、国技館、横浜喜楽座、名古屋末広座、京都南座、京都座、大阪道頓堀中座、大阪松島八千代座、大阪角座などの大劇場を回っている。

 1913年秋には、満洲・朝鮮半島の各都市を回り、帰国。

 1913年12月25日、山口県門司港より台湾行の客船「笠戸丸」に乗り込んで、台湾へと向かった。笠戸丸には浪曲の大スター・京山若丸、新派の大御所・村田正雄も同乗し、大変賑やかな船中であったという。

 12月28日、台湾基隆へ到着。ここで若丸・村田正雄と別れて、打狗へ向かった。

 1914年正月は、打狗で迎え、正月早々「打狗座」で一座公演を実施している。その後、三月まで、台中、台北、宜蘭などを回り帰国している。この外国在留の日本人に向けた海外公演としては相当早い方だろう。

 1915年4月、京都の東洋蓄音機から「雑曲・雲雀ひばりの表情」を発売。同年1月の京都公演の折に出演依頼を受けたのだろうか。

 吹込みには萩原秀長、奥田一夫、松旭斎一光のトリオが担当した模様。同じタイミングで、天勝と娘子軍の「越後獅子」も吹き込まれ、奇しくも日本奇術界隈最初のレコードとして記録を残す事となった(大西秀紀『東洋蓄音器・オリエントレコード関連ディスコグラフィ』より)。

 同年7月、東京有楽座へ出演した際、天勝はオスカー・ワイルドの傑作戯曲『サロメ』を上演。天勝の退廃美も幸いして、一大センセーションを生み出す事となった。魔術応用のサロメは天勝の売り物として、長い間上演し続ける事となった。

 因みに一光は「首切役ナアマン」として出演。サロメの上演の脇役として演劇史にも名を残す事となった。

 なお、この頃、一座にいた「市橋静子」と結婚し、一座で旅をしながら夫婦生活を営むようになった。

『津軽の雪』によると、「静子との間に一人娘がいたが、静子は夭折」したという。妻と早く死に別れた事もあってか、一光は松旭斎天優と名乗っていた市橋優子と再婚したという。

 1916年4月、今度は「台湾勧業共進会」出演のために二度目の台湾巡業を行っている。

 台湾を2ヶ月ほど回ったのち、7月には満州へ移動(一説にはインドにも立ち寄ったという)。天勝の一座は奉天、長春、ハルピンを経て「ロシアへ行く」という考えも持っていたようであるが、ロシア行は中断と相成った。

 その後も長らく第一線で活躍していたが、1918年春に天勝一座を離脱。名簿や番付から名前が見えなくなる。

 脱会した理由は不明。当時、天勝は女優としても一世を風靡しており、既に一家を成していた。「自分はもう必要ない」と一光が思ったのか――不明である。

 かくして天勝一座をぬけた一光は、東京へ戻って落語家団体「睦会」へ参加。同年6月1日、睦会へ加入し、同会の寄席興行へ出勤するようになったのである。

『都新聞』(6月1日号)の中に挨拶状が出ているので引用してみよう。

天勝一座に出演致居候曲技界の天才として満都の人気と賞賛を博した日本固有の曲技を現代化せる
軽快なる曲技家 松旭斎一光
左記本会寄席に出演最も傑出した妙技を毎夜演じ申候

 以来、睦会の一枚看板として華々しく売り出した。寄席の世界に「曲技」を持ち込み、これを売りにしたのは彼が嚆矢ではなかったか。

 これまでは紋付き袴を身にまとい、滑稽な口上や説明を売りにしていた太神楽や曲独楽が寄席の花形だった中で、颯爽とした洋服姿で現れ、ほぼ無言を貫くジャグリングは、当時の観客をあっと言わせたに違いない。

 ちなみに、この睦会へほぼ同時期に加入したのが、松旭斎天洋。かつての一座の同僚であった。天洋も天洋で、寄席向きの奇術を次々と打ち立て、後進の奇術師の手本となるべき存在として君臨した。

 当時の興行記録を見ると、天洋と一光が二枚看板で並べられている事もあり、古いファンなどは「まるで往年の天一一座の如く」と思ったのではなかろうか。

 以来、寄席の芸人として5年ほど、出勤を続けることとなる。その間に寄席の中に「ジャグリング」「曲技」の領域を開拓し、後進に引導を授けた点は功労者というべきではないか。

 1920年10月、東西演芸会が合併した関係で、新団体「新睦会」に所属。この頃から落語団体の分裂が苛烈化し、一光もその分裂に巻き込まれる羽目になった。

 1921年3月、「新睦会」が「三遊派新むつみ派」と名前を変えたため、こちらに合流。しかし、こうした集合分離を嫌がったのか、一光はこのむつみ派を脱退したらしく、しばらくの間、寄席から姿を消す。

 1922年2月、東西落語会発足に伴い、寄席へ復活。相変わらず足芸と曲芸を見せていたようである。

 同年8月、三遊柳演芸会を合流。しかし、ここでも内紛が絶えなかった事もあってか、同年限りで寄席を飛び出し、またしても寄席の広告に名前が出て来なくなる。

 どうも寄席に出ていない時期は、妻と一緒に一座を組んで旅巡業を行ったり、名人会に出席したり、馴染みの一座に参加したり――と気まぐれな日々を送っていたようである。

 そうした中で、1923年9月1日、関東大震災が発生。職場であった寄席や劇場のほとんどが焼失・倒壊の運命を辿った。

 1923年11月、復興したばかりの帝国ホテル演芸場に出演。五年ぶりに天勝一座と合同公演を行う事となった。『都新聞』(11月16日号)に当時の番組が掲載されている。

○天勝一座 帝国ホテル演芸場に十六日午後三時開演(打出午後七時)の番組役割は和洋合奏(長唄正札・小鍛冶・松竹梅=娘子連総出)、小奇術(千代子、しげ子、かめ子、美代子、信子)、京人形(京人形天勝・甚五郎早川)引抜平和音頭(小天勝、美代子、タカネ、しげ子、かめ子、たま子、いね子、千代子)、ボールの奇術(天海)、独唱とダンス(タカネ、小天勝、しげ子)、曲芸(天海、一光、永末)、大小奇術(天勝)、滑稽種明し(天海、一光、天清)、水芸(天勝、小天勝、美代子、しげ子、千代子)

 久方ぶりに天勝一行と仕事をして、一光は何を考えたのだろうか。もっとも、天勝も天勝で仕事にあぶれている一光を救済するためにあえてこの演芸会へと呼んだのではないだろうか。

 この後、天勝は、小天勝、美代子、しげ子、かめ子、千代子、稲子、たま子、よし子、信子、石神たかね、村岡、布施、梅沢、天海、早川、島村、児玉、梅本、吉沢、矢部、野呂という座員を連れて渡米。アメリカ公演を行っている。

 この時、同行した松旭斎天海は、アメリカのカードマジックやスライハンドマジックに強い興味を持ち、妻と共に残留を決意。この天海こそ、後年の「石田天海」である。

 一部文献では「一光もアメリカ巡業に出た」というような事が書いてあるが、記録を見る限りはそうではない。何かと記憶が混じっているのではなかろうか。

 関東大震災で帝都が壊滅したのを目の当たりにした一光は流れ流れて関西へと赴く事となった。既に芸への定評もあり、看板もある人だけにどこへ行ってもある程度は通じたのではないだろうか。

 1924年12月、神戸劇場に出演したのを機に、関西へと活動拠点を移した模様。そこからしばらく関西を放浪し、京阪を中心とした寄席へ出るようになる。

 1925年6月より、京都富貴に出演。九月上席には南地花月に出演――その流れで吉本興行部と専属契約を結ぶこととなった。それに伴い関西へ移住することとなった。

 吉本入社後は、南地紅梅亭、北新地花月、南地花月、松島花月といった吉本管轄の寄席に出演。

 当時、大阪にいた桂円枝、桂枝太郎、桂春団治、桂米団治、三遊亭円馬、笑福亭枝鶴、笑福亭福松、立花家花橘、林家染丸といった上方落語の名人たちの間に挟まって、得意の曲技を見せ続けていたという。

 吉本との関係は一番長く続いたと見えて、吉本が漫才主体の興行策を打ち出した後も重宝され続けた。

 言葉をほとんど使わない曲芸の事、落語の間に挟まろうが、漫才の間に挟まろうが、一光の技芸が揺るぐことはなかった。こうした普遍性は彼最大の強みであったと言っていいだろう。

 吉本時代は相当派手に稼いだと見えて、忙しいときには北新地花月、南地花月、松島花月など三か所も四か所も掛け持ちしている。

 この頃、得意となって演じていた「足芸」に関する記録が残っている。視覚重視の曲技をどうやって記すものか――と思われるかしれないが、なかなかどうしてうまくスケッチしている。

右の一文は『演芸画報』(1934年1月号)に掲載された記事「玉章と一光」からの引用。

この人の足藝、傘の曲と来たら天下一品が尤も二六時中でも夜でも、こればかり御覧に入れて居るのだから互いのは當然だが、下座の「春雨」を合方に、傘を開いたり、骨から骨を渡って車のやうにクル/\したり、 ボンと刎ね上げると、傘は中空に舞上り、返りをして再び元の足に帰ってくる。風が有らうが無からうが、何の影響もないやうに見えるのが不思議な位だ。些の危氣もないといふのは此事だね。唄の終りに足ですぼめて骨をこすって元へ納める所など、まるで傘に魂が這入つて居るやうだ。さして珍しいではないが、此男程綺麗に見せる者はないね。彼は天一門下の奇術師だったのだが、今はこの足とモダン式の立物を専門に演って居る。浅草で芸妓屋をやつて居て、懐中も暖かいと見えいつも朗らかなつきで、愉快さうに舞台を勤めて居る。可愛い男さ。

 文中に「浅草で芸妓屋をやつて居て、懐中も暖かいと見え」とあるが、一光が浅草で芸妓屋をやっていたのは事実らしい。夫婦で経営していたそうである。

 この頃が一番の絶頂期、経済的な余裕も人気も実力も最高峰に位置していた――と考えていいのではないだろうか。

 1938年春、大阪から東京に移籍した模様。ただ吉本との縁は切っておらず、引き続き東京に点在した吉本系の劇場を中心に出演を続けた。主に浅草花月、江東花月などを拠点としていたようである。人気の方は相変らずだったと見えて、それ相応の扱いを受けている。

 さて、東京へ移籍した一光は当時流行のアトラクションブームに便乗し、「アトラクション芸人」としても活躍するようになった。

 当時、アトラクションの主な舞台は映画館(映画上映と抱き合わせで漫才や曲芸が出た)や歌謡ショウ、喜劇・演劇の幕間などであった。この手のアトラクションでは講談、落語、浪曲といった伝統的話芸よりも、漫才や曲芸、奇術といった華やかな芸が好まれた。直言すれば、余計な知識や教養のいらない、華やかで肩の凝らない、パッと見て楽しめる芸というべきだろうか。

『國際映画新聞』(1939年7月号)に掲載されたアトラクション芸人の名鑑に一光の名前が掲載されている。

松旭齋一光 曲藝。本名市橋宏之。福島縣に生る。六才の時西濱宇三郎に師事、後伊太利人に伴はれて諸外國を歴遊す。四肢の曲傘を最得意とす。短時間のアトラクシヨン向き。

 ここでも「本名は市橋宏之」「福島県出身」という記録が取られている。やはり本名はこれが正しいのではないだろうか。また余禄ではあるが、当時活躍していた曲芸師・奇術師の紹介もなされている。少し紹介しよう。

 さて、アトラクション芸人として活躍していた一光に大きな試練、苦難が到来する。

 1941年12月の太平洋戦争の勃発である。かつて欧州諸国を巡り、英語を培ってきた一光にとっては苦難の時代だった事だろう。

 一方、勃発当時はまだまだ戦勝ムードもあったと見えて、鷹揚な談笑もしていたようである。

 太平洋戦争勃発から二週間足らずの12月27日、横浜宝塚劇場で出会った徳川夢声と、天一時代の話をしていた記録が残っている。

 夢声の『夢声戦争日記』を見ると――

楽屋で松旭斎一光君と、昔時の天一、天勝時代の話をする。一光君曰く「センセイが奇術をやると好いですな」私が物々しく演じたら、大奇術に見えるという訳。

 という記載が確認できる。ちなみにこの頃の一光は日蓮に凝っていたそうで、昼夜問わずお題目を唱えていたそうである。徳川夢声は「可笑しかった」と評しているが、「老いの苦しみや悲しみを宗教で解決しようとした」と考えると何だか物哀しい感じがしない事もない。

 そうした中でも一光は高座に出続けた。寄席や劇場が閉鎖される中でも彼は黙って芸を演じ続けた。

 空襲が激化する以前の主な舞台はやはり吉本――渋谷花月、銀座全線座、池袋花月、麻布演芸場などであったという。

 1944年11月には、かつての兄弟弟子で長らく自分を使ってくれた初代松旭斎天勝が亡くなった。

 1945年に入ると空襲が激化し、思い出の劇場も寄席も、仲間たちの家も皆焼き尽くされた。

 度重なる空襲に食糧難などの要因が重なったこともあり、一光は奥多摩の方へと疎開していったという。山の中で細々と生計を立て、戦争の終りを待っていたという。この時、偶然訪ねて来たのが江戸人形あやつりの十代目結城孫三郎であった。

 孫三郎によると、「敗戦直前、父(九代目)や子どもたちの疎開先を探すために奥多摩へ足を延ばすと、知り合いの春風亭柳好が細々と暮らしていた。柳好とその弟と再会したところ、『疎開先とはいえ辺鄙で物がない』ということを柳好から聞いた。そこで一つ田舎周りの演芸慰問団を組もうという話になった」との事である。

 十代目の自伝『傀儡師一代』の中に――

その時、父と話をして、奥多摩に疎開している芸人たちを集めて仕事をしようと相談した。手品師の松旭斎一光もいるからとの事で、柳好の弟が爆撃を避けて山間などの民家に隠れた軍需工場がありその慰問の仕事を取る事にした。

 とある。この一団に加えられた一光は柳好、孫三郎の三枚看板で軍需工場や農村を回ったという。そこで彼らは食料を得、飢えをしのいだとの事である。孫三郎によれば「野菜やコメも手に入り、牛乳も飲めたから豊かだった」とのことである。

 その中で1945年8月、一光は終戦を迎えた。終戦当時、一光は数えの還暦を迎えようとしていた。

 敗戦後も一光は焼け残った寄席や演芸会に出演したほか、吉本の仕事をやっていたようである。『演劇年鑑1947年度』の中に――

「一光は吉本の専属なので、東京より大阪の方に多く在往するやうである。」

 とあるが、交通事情もよくない中、東京と大阪を行き来していたというのだから涙ぐましい話ではないか。

 1945年10月、敗戦後初めて巡業に出かけている。この時は東京にいた模様か。

 そんなこんなで出た初の巡業は、メンバーであった徳川夢声が手記を残していることもあり、動向を確認することができる。中でも『こんにゃく随想録』の中に収録された随筆「十年前の十月」は詳しい。

 戦後最初の地方巡業に出たのが、十月上旬であった。一行は、松旭斎一光(曲技)、アザブ伸(腹話術)、竹本嘯声(新講談)、松平静子(歌謡曲)など。十月六日(土曜)、福島劇場が初日の振り出し。
 丁度、アメリカ軍が福島市に進駐してきて間もなくのころ、夜間興業が許されないので、午前十一時開場、夕方までに二回興業をやったのであったが、さっぱり入りがない。巡業で入りがないほど心細いことはない。二回の入場者合計二百名ぐらい。その中に招待客も混っているんだから、ひどいものだ。

 日本人相手の興行は散々な出来であったが、この興行を買い切ったTという興行師は太っ腹で芸人たちを責める事はなかった。それどころか、「まあどうです、進駐軍キャバレーでも行って、芸をやってみませんか」と、当時進駐軍専用に作られ始めていたキャバレーへと連れて行ってくれたという。

 そこで白羽の矢が立ったのが、外国巡業経験もあり、言葉の壁を問題にしない松旭斎一光であった。

 Tは、「曲技の一光と歌謡曲の松平静子、司会者の徳川夢声」をキャバレー出演芸人として斡旋し、キャバレーへの出入りの許可をもらった。この時、一光は久方ぶりに外国人を相手に曲技を演じたというが、喝采また喝采だったそうで、思わぬ所で自信を取り戻すきっかけになったという。

「怪しい英語」で司会を務めたという夢声は、その時の鑑賞マナーの良さ、進駐軍の礼儀正しさを戦後初めて出した随筆『柳緑花紅録』の中で絶賛している。

第五に感服したのは、藝術に対する尊敬の態度である。その夜吾々は、松旭齋一光君の曲藝を提供し、私が怪しげな英語で司食の役を勤めたのであったが、彼等は賞に行儀よく熱心に見物してゐた。その間は殆んど話しをせず、コップをあげずであつた。一曲終る毎に喜びの喝采で、殊に最後の唐傘の曲に到つては感嘆の叫びをあげてみた。酒にせよ、とにかく酒の出てある席でこれだけ神妙に演藝を見てゐる客を、私は今日迄に見たことがない。

 このキャバレー出演が自信になったのかどうか、そこまではわからないが、巡業を終えて地元に戻った一光は「進駐軍慰問」の試験に参加し、見事に合格した。

 キャリアもあり、芸も一流、若き日に覚えた外国語もできる――となれば、上位ランクに食い込むのは当然であったといえよう。

 その後は進駐軍キャンプで活躍。空襲や敗戦で失いかけていた情熱を再び燃やすようになった。

 如何せん進駐軍キャンプは芸人たちにとって、希望の光のような存在であった。

 かつて外国人に芸を見せて生業を立てていた一光が60過ぎて再び外国人のお陰で生業を成り立たせるようになったのも、皮肉味を感じるのである。

 進駐軍研究家の青木深は『進駐軍を笑わせろ!』の中で、松旭斎一光とクレバ栄治の二人をピックアップし、「進駐軍慰問で活躍した外国帰りの芸人」として紹介している。

 以来、10年近くに渡って一光は進駐軍慰問の最前線で活躍した。進駐軍慰問の番組表が残っていればいいが、そういった資料は目下確認できていない。もし確認できれば、一光の出演記録や巡演ルートを確認できるのではないだろうか。

 進駐軍慰問が停滞した後は再び寄席や名人会に出演し、枯淡の芸をみせるようになったという。

 1954年9月14日、ジャパンマジッシァンス倶楽部主催で三越劇場にて行われた「第六回奇術祭り」に出演。

 第一部
一、小品奇術           神代豊洋
二、パラソル筒中のハンカチーフ  ベビー和子
三、ゾンビボールとハンカチーフ 松旭斎清子・小清
四、千里眼とピラミッド      伊藤晃洋
五、スライド・ハンド・マヂック他 光宗道也
六、太鼓と美人他         松旭斎天華
 第二部
七、青龍刀のあつかい(危険術)氾少廣
八、アツクロバットと中華独楽 鄧玉英
九、曲藝(傘の曲)松旭斎一光
十、噴水術(水藝の妙技)松旭斎天洋
 第三部
十一、楠玉と鳩 松旭斎天雷
十二、ヒヨコの妙技(雛鳥ではありません)三井晃天坊
十三、大魔術身体柱抜け コインマヂツク スパイク 松旭斎天洋

 お歴々が並んだ公演であったが、この中でも一光は最年長だったというのだから、なかなか感じ入るものがある。

 その後も名人会などの公演などには出演していたという。ただ、足芸だけではもう時間を繋げなくなったのか、奇術風の曲芸を演じるようになったという。

 1957年夏に発表された『演劇界』(一九五七年七月号)に今村信雄の寄稿があるのだが、その中に興味深い一文がある。

足藝の松旭齋一光が賣物の傘の曲をやる前に、鐵丸投げをやるが、三ツの内の二ツは鐵の丸で、一ツは木製であるが、色も大きさもソツクリ同じで、投げたり受けたりする呼吸が同じだから、見物には、どれが重いのだか軽いのだか分らない。時々態とドシーンと鐵丸を落す。そうして今度は また頭で受けるのだが、無論それは木製だから痛くない。一寸した曲藝だが、これも奇術のテクニックを應用したものと思う。

 この曲芸は関西の森幸児という曲芸師も得意にしていた。曲芸半分、奇術半分というべきか。

 タネを知っていれば大したことはないが、それがわからないと「鉄球でお手玉にしている」と驚いてしまう。今以上に情報がない時代の事、こうしたたわいない芸でもさぞ大うけだった事だろう。

 さて、「老齢になると曲芸が出来なくなる」とは、曲芸師の鏡味繁二郎氏の話であるが、カクシャクたる一光にも老いの衰えが隠し切れなくなってきた。

 かつてのように一日何回も曲芸を演じる事はおろか、舞台に出る事さえも難しくなったという。

 七十過ぎてもなお曲芸を演じていたのは、「老いてもなお健在」とみるべきか、「いつまでも引退できない老芸人の悲しみ」とみるべきか。

 最後の消息は1958年の東宝名人会の記録である。東宝名人会は一九五五年に開場したばかり。

 一光が初めて東宝名人会にお目通りをしたのは、1958年6月下席。当時の番組が残っているので見てみよう。

第105回東宝名人会
落語     橘家升蔵  
漫才     直井オサム・大沢ミツル
漫才     三遊亭歌奴 
曲技     松旭斎一光
落語     三遊亭圓遊 
一人トーキー 都家かつ江
落語     三遊亭圓生 
落語     三遊亭金馬
物真似    江戸家猫八 
落語     春風亭柳橋

 なるほど「名人会」にふさわしい(当時から芸の究極を知った名人が出ないという批判は存在したが)出演者ばかりである。

 みんな名を残したばかりの人なので補足不要――かもしれないが、落語家や漫才師の中には名前を変えた人がいたので、そこだけ記しておこう。

 橘家升蔵は後の「八代目橘家圓蔵」である。当時は二つ目になって三年目。直井オサム・大沢ミツルは後の「晴乃ピーチク・パーチク」。オサムがピーチク、ミツルがパーチクである。三遊亭歌奴は後の「三代目三遊亭円歌」。

 そうした面々たちが集っている中で、一光は淡々と芸を披露している。当然、この中で最年長者であった。二番目の長老は三遊亭金馬(1894年生まれ)である。

 この時の出演が好評だったのか、同年10月中席にも出演している。これが目下確認できる一光の出演の最後である(東京新聞をひっくり返して調べれば後の資料が出て来るかもしれないが)。

第116回東宝名人会
落語   むかし家今松
漫才   松鶴家千代若・千代菊
落語   橘家圓蔵   
曲技   松旭斎一光
落語   春風亭柳橋  
沖縄舞踊 山入端鶴
落語   三遊亭金馬  
落語   三遊亭円右
漫才   コロムビアトップ・ライト
落語   柳家小さん

 晩年まで芸は衰えることはなかったそうで、関係者からも高く評価された。寄席・劇場における足芸の継承者であった東富士夫は山下勝利『芸バカ列伝』の取材の中で――

「初代天勝一座にいた、松旭斎一光さんの舞台を見ましてね。この人が一言も喋らない。それがまたなんとも粋な舞台でね、すっかり参っちゃったんです」

 と、自分の無言芸は一光の芸をヒントにしたと述べている。

 さらに辛口批評で知られた立川談志と色川武大は『寄席放浪記』の対談で――

立川 亜土もね。あれは森文江って言って、身近にいた子なんだけどね。 それから、三遊亭かな、一光。傘の曲芸。 一光さん、よかったなあ。
色川 そうそう、いたいた。
立川 覚えてるのは、全部踊ると、最後に足できれいに間に線を入れて傘をしまうのを見た。足芸ですよ。足芸で傘を一本…………。その傘を、スポーンと向こうへほおったやつが、スッと返ってくるところがとっても魅力的だったね。
色川 ぼくは、傘で回すネタかと思った。
立川 足で「春雨」を踊ってました。

と、その芸を激賞。

『立川談志遺言大全集14』の中でも「一本だけど名人芸、それも凄けりゃァ、それでいい。早い話が、曲芸師など、それ一本でくるのがある。松旭斎一光の如き、あの足芸のあの傘の見事さ。」と、その強烈な一芸を絶賛。

 2005年、NHKで収録した特別番組『立川談志 日本の笑芸百選』の中でも「松旭斎一光という芸人がいた」といいながら、スタジオで横になって、「春雨に合わせながら傘を足芸で見事にさばく」という一光の舞台振りを真似るほどであった。

 しかし、1960年代に入ると出演記録が確認できなくなる。不肖私は奇術協会の名簿類をほとんど持っていないため、「いついつ頃名簿から名前が消える」といった確定材料を持っていない。ご了承ください。

 舞台から姿を消した一光は、特に身寄りもなかった事もあってか、最期は老人ホームに入ったらしい。

 そして、そこでしばらく暮らしたのち、静かに息を引き取ったという。『津軽の雪』の中で、八木義徳は一光の消息を追っているが、「詳しい没年などは判らなかった」ようである。

 その最後の部分を引用してこの項を終りとする。

 数日して、氏から電話があった。
「先日お質ねのあった一光氏の晩年のことですが……実はむかし初代天勝の一座にいたひとで、天花という、もう八十歳近いおばぁさんがいまも健在でいますので、その天花さんに質ねてみました。一光さん夫婦は浅草蔵前に所帯をもって、かなりの年まであちこちの寄席に夫婦で出ていたそうです。後添えの優子さんとのあいだには子供がなく、先妻の静子さんの娘さんも一時期いっしょに寄席に出ていたそうですが、どういう事情があったのか、のちに深川から芸者に出たということです。しかしこの娘さんも若くして亡くなり、やがて優子さんにも死別されて、結局、一光氏は養老院で亡くなったらしい、とこれは噂できいたそうです。晩年はさびしい人であったらしいですね」
「ありがとうございます」
 私は電話口で頭をさげた。
 その夜、私は茶の間で母や家内といっしょに葡萄酒を飲みながら「一光さんは、晩年は養老院で死んだらしいよ」といった。
「ああ、そうかい」
 ひとこと答えただけで、母はそれ以上なにもいわなかった。例のごとく、背中を丸め、小さな白髪頭をすこし横に傾けて、なにやらぼんやりした顔つきになった。
 いま、この八十六歳になった母の頭のなかで、雪のようなものが音もなく降っている、と私は思った。
 すると、私のほうもまた、あの津軽野の雪がしきりに恋しくなった。

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