マキノ洋一・初江
マキノ洋一・初江
人 物
マキノ 洋一
・本 名 牧野 要
・生没年 1922年6月20日~2006年12月26日
・出身地 東京 巣鴨
マキノ 初江
・本 名 牧野 はつえ(旧・飯野)
・生没年 1927年11月24日~2007年3月16日
・出身地 静岡県 春野町
来 歴
マキノ洋一・初江は戦後40年近く活動した夫婦漫才である。両方とも芸人の子として生まれ、戦前からのキャリアを持っていた。アコーディオンと三味線というオーソドックスな音曲漫才を得意とした。洋一の妹は女流漫才で人気のあったマキノ葉子である。
父親は神田来山という講談師。来山は三代目神田伯山の弟子で、本名は牧野要次郎という。1895年1月の生まれ。芸人としては大成しなかったが、非常に人が良かったという。
芸人の家で育ったこともあり、幼い頃から芸に囲まれて育った。
幼くしてアコーディオン演奏を会得し、十代で妹とコンビを組んでデビュー。1943年には大日本漫才協会に所属している。
当時は「江戸家松之助・容子」というようなコンビだったらしく、「江戸家松之助 牧野要次郎、江戸家容子 牧野容子」とある。但し、洋一の本名は「要」であり、なぜ「要次郎」となっているのか疑問が残る所ではある(要次郎は父親の名前)。
敗戦後も妹とのコンビを続投し、「マキノ洋一・葉子」と改名した模様。主に地方巡業や進駐軍慰問などを中心に活動を続けていた。進駐軍慰問や米軍キャンプの仕事を請け負っていた事もあって、英語の読み書きができたという。
1948年、初江と結婚し、夫婦漫才を結成。三味線(初江)とアコーディオン(洋一)の音曲漫才でスタートした。
妻の初江の出身は静岡県周智郡春野町。父親は村上長吉といったが、事情あって、移動劇団へ養子に行き、「飯野はつえ」と名前が変わった。
養親が役者とだけあって、子役を振り出しに舞台へ立つようになる。なお、養親は後年、徳島で事故死をした――とご遺族の証言。
戦前は喜劇の鶴家団福郎一座に在籍していた。余談であるが、この鶴家団福郎は戦後の大スター・鶴田浩二の叔父にあたる。
敗戦後間もなく洋一と出逢い、結婚。
デビュー当初は進駐軍キャンプの慰問などを行っていた。独学で英語を覚え、それ相応の英会話ならば嗜んでいた――と聞く。
若い頃から美男美女、芸達者には定評があり、『アサヒ芸能新聞』掲載の松浦善三郎『関東漫才切捨御免』(1953年11月3週号)の中でも、
出世流行の「歌謡漫才」に属するもの。初江の三味線に洋一のアコ二人共若くてハンサム。初江のエロキュウシンがしっかりしているので立派
ぐうっとしゃべって客を十分に引きつけておいて、ストンと軽く落す話術など東喜美江に似たものを持っていて娯しめる。スマートな漫才というべきか。
しいていえば取り上げているネタにヤマがない。最近洋楽器を持つと「漫才」と称する事を嫌がって「歌謡コント」などといい出して看板やポスターにも「何々コント」と書いている者がある。コントの定義はさておき、「漫才」は堂々と「漫才」で良い筈。その点このコンビは未だコント病にかかっていないようだ
洋一はその性極めて温順。どんな無理でもハイハイときいてしまうらしいので初江がブレーキをかける役。仲の良い事はまさにスイエンの価である。
と、高く評価されている。オシドリ夫婦として有名で、仕事も旅行も家庭もいつも一緒であった。人望もあり、円満な性格は誰からも慕われ、「とにかく腰の低い、優しい人だった」――と当時を知る多数の芸人さんから、そんな話も伺った。
1955年、漫才研究会設立時には会員として入会。以後、40年近く同会に携わることとなった。
賑やかで手堅い芸風から主に巡業やアトラクションで喜ばれたそうで、浅草の劇場(松竹演芸場・木馬館)や巡業などを拠点として活躍していた。
アコーディオンと三味線を奏でて民謡や懐メロを演じたり、初江は扇をたくさん使って踊る「松づくし」を十八番にしており、度々演じた。
この「松づくし」の型は立花家橘之助氏、奇術師の花島皆子氏、落語家の三遊亭歌る多氏などが、初江本人から教わり、現在でも継承して演じている。
1978年2月16日、NHK「ひるのプレゼント」に出演。漫才競演会と称して千代若・千代菊、Wけんじなどの長老と共に古風な漫才を演じた。
笑組のゆたか氏のお話によると「ちょいと出ました二人連れ 三味とアコとのハーモニー 時間来るまで喋ります 時間来るまで歌います 早く時間が来ないかな……」ととぼけたテーマソングがあり、洋一が「早く時間が来ないかな」とボヤくと、初江が「なんてぇ事を言うんですか!」とツッコむネタを持っていたそうである。
1988年1月13日付で、落語協会へ入会。この入会は古今亭志ん朝の強い推薦があったらしい。
当時を知る落語関係者数人に伺ったところでは「志ん朝師匠の独演会にお二人が出た際に、縁が出来て、普段はあまり寄席の出入りに関与しない志ん朝師匠が珍しく『あの二人をぜひ寄席に出してやってほしい』と口をきいた」という。
以来引退するまでの4年間、上野鈴本や新宿末広亭などに出演。若い落語ファンからも認知されるようになった。また、この頃寄席に出入りしていた事により、「松づくし」をはじめとする芸の一部を奇術師や落語家たちに伝える事が出来た。
晩年、内海桂子・好江の斡旋を受け、テレビや国立演芸場などに出演するようになる。ほのぼのとした笑いが注目された。
この頃すでに60すぎだったこともあり、平成に改元したころから徐々に仕事を減らしていった。
但し、諸々の都合や仕事を整理するために、1991年まで漫才協団に、1992年まで落語協会に在籍をしていた。
最後の仕事は1992年4月、浅草演芸ホール中席だった模様か。同年5月に協会を脱退している。
引退後は、息子夫婦と共に埼玉県へと転居し、子供や介護サービスに助けられながら、静かな余生を送ったという。