若葉茂・高山登

若葉茂・高山登(左)

2019年に訪ねた際の写真(左は新山ノリロー)
人 物
若葉 茂
・本 名 若松 繁男
・生没年 1931年4月16日~??
・出身地 東京 十条
高山 登
・本 名 高山 英男
・生没年 1931年~?
・出身地 東京
来 歴
若葉茂・高山登は戦後活躍した歌謡漫才師。音曲漫才ではあるが師匠はシャンバロー、当人たちも歌謡漫談を結成するなど、漫才界よりも歌謡漫談界隈に近い人であった。
若葉茂はコロナ以前に一度お会いしたことがある。当人から詳しく話を聞いたことがある。以下はそのメモの写し。
若葉茂は十条生まれの十条育ち。実家は地元で飲食業を営んでいたという。
幼い頃から音楽が好きで、「ギターは近所の中村さんという人に教わって、それこそ基礎からやった。コードの進行からちゃんとした曲までね。だから演奏だけじゃなくて編曲や作曲とかもできるようになった」。
中学に進学するものの、戦時中は勤労動員に駆り出され、空襲や混乱を逃げ回った。さらに終戦間近の中学2年の時に兄が戦死し、家も焼けてしまったという。
家計を支えるために中学を退学し、日本製鋼所に入社。その後、6、7年ほど(当人曰く朝鮮戦争が休戦するまで)、真面目に働いていた。
その間、暇を見つけてはギターを買い求め、焼野原を歩いてギター練習や発声をしていた、と本人の証言。
そのお陰でギターの腕が上達し、後年の漫才で大いに役立つ所となった。
1953年ころ、会社を辞めて退職金と失業保険を元手にキャバレーのバンドマンに転身。半年間の失業保険が失効されるのを機に、芸能界へと身を投じる。
この頃、銀座でバンドマンをやっていた高山登、小柳実と知りあい、意気投合。「ボーイズをやろう」と考え、当時人気絶頂だった柳四郎の門を叩いた。本人曰く――
「弟子と言っても、押しかけ弟子みたいなもので、小岩にある柳さんの家にまで遥々訪ねた。入門志願の際にネタも曲もみんな拵えて、柳四郎さんの前で演じて見せたら、『こんな弟子入りは初めてだ』って大変驚いてねえ……」
そうで、師匠の意向で、舞台慣れをさせるために暫く池袋演芸場などの寄席に預けられ、前座をしていたとの事である。
トリオで色々とやっていたようであるが、小柳実が脱退。若葉氏曰く「小柳は生意気になりすぎて、俺らと喧嘩してしまった」という。
その後、一時期「若葉茂・高山登」のコンビとなる。その頃から放送や司会漫才などに呼ばれるようになり、人気も上っていく。ネタも歌も達者に作る作家の一面としても知られた。
1950年代の終わりに夫婦漫才を解消した條アキラに乞われて、再びトリオを組んで「ゆうもあぼんぼんず」を結成。若葉氏曰く「夫婦漫才別れたアキラさんが『俺も歌謡漫談に入れてくれ』というのでトリオを組んだ」。
新鋭のボーイズとして注目されたが、このトリオも長くは続かず、条アキラの脱退で、はたまたコンビへと戻った。
1962年頃、腎臓結核で離脱した邦一郎の代理メンバーとして、高山登と共にシャンバローに1年程、在籍していた事もあった。
三味線2人に、ギターとアコーディオンというカルテットであったが、師匠達に合わせられる実力は十分にあった。
また、その頃から司会も行うようになり、水車プロに入社した。「俺は三波さん直々に頼まれて三波さんの司会、高山は前唄の司会をやっていた」との事で、また――
「橋幸夫がデビューした際にビクターから直々に司会の依頼をされたが、生憎北海道の巡業と重なっていて断ってしまった。このお鉢がオサム・ミツル……ピーチクパーチクへと回って、彼らは橋幸夫の司会をやることになったんだ」。
間もなくシャンバローがトリオに戻ったために「茂・登」を再結成。この頃、漫才研究会に入会し、漫才師として本格的に活動している。
1963年3月に行われた第13回漫才コンクールを『お笑い歌で行きましょう』で準優勝。バンドマン時代に培ったアコーディオンと歌を武器に高得点をたたき出した。
その頃の『スポーツ毎夕』(1963年3月27日号市川市立図書館所蔵)の「若葉茂と高山登 音楽と笑いの二本立で」に準優勝した記録が出ている――
○若葉茂と高山登は漫才界でもめずらしい、アコーデオンとギターをもった男性コンビコンビだ。第十一回の漫才コンクールは、そのギターとアコーデオンをひっさげて二位に入賞した。
○楽器をもったコンビが入賞したのはコンクールはじまって以来のことで、出し物は自作自演の 「お笑い歌でいきましょう」だった。楽器も達者なら歌も達者しゃべりも達者の三拍子揃い、居並ぶ審査員をうならせたもの。
○……通称ユーモア・コンビ。ふつう音楽はおしゃべりのつなぎに使われ、そえもの的な存在だが、このコンビの特味はあくまで音楽が主体であるということだ。このコンビは、その逆をいっている。音楽をおもしろおかしくきかせながら、音楽の中から、おはなしをひっぱりだそうという、やり方である。
○……この二人、前身はバンドマン。そういうわけでもあるまいがスマートなムードがソコハカとなく漂っている。コンビを組んだのは四年前。いぜん柳四郎とシャンバローのメンバーだったことがあり、三波春夫が売り出しはじめたころ、専属の司会をやっていたのがこの二人でもある。
○……ともに昭和七年生まれ。キッスイの江戸ッ子である。小さいときから音楽家志望だったというのも似ている。顔の長いのが高山さんで楽器はアコーデオン。作曲家が志望だったそうで”器用”という字はこの人のためにあるようなもの。トランペット、三味線、ピアノ、ギター、バイオリン……なんでもござれ。それもクロウト顔まけのウデ前だからおそれいる。
○……ギターをもっているのが、若葉さんで昔は歌手志望だった。本格的な声学をたたきこんでテイチクの専属になりかけたこともある。もっか花嫁募集中。
○……若いコンビだけに夢もデッカイ。「まず舞台は大きくなくちゃいけないよ。五十編成ぐらいのオーケストラ使ってコーラスも入れる。がぜんはりきっちゃうな。こんなのやりたいね」と若葉さんがいえば「ジャズや民謡、歌謡曲だけじゃなくて、タンゴやクラシックなんかも、かみくだいて取り入れてみたいよ。大変な仕事だけどもうちょっと考えたらクラシックでも受け入れてもらえるような方法があるはず。いつかはぜひ実現させたいなァ」と高山さん。
○……さしずめ”啓蒙漫才”といったところか。
卓越した演奏技術と歌、お笑いを組み合わせた芸が高く評価される形となった。人気も芸も円熟し始めた矢先の1965年4月、高山登が蒸発し、コンビ解消。若葉氏いわく――
「女性問題というのかな、仕事というより人間関係で揉めて消えちゃった。本当に蒸発だ。ある日、突然いなくなって驚いた。人気もあったし、嫁さんも子供もいたのに……売れっ子の最中にいなくなられたので困った」
その後は司会やギター漫談などを行っていた。1965年に東京ボーイズ協会が設立された際はピンで参加している。
1968年頃、大空平路・橘凡路に誘われ、「トリオ・ザ・スコップ」に加入。コントブームに便乗しようとしたが長続きはしなかった。この頃から地元の「十条」で居酒屋「若駒」を開業した。
1971年頃、條アキラとコンビを解消した南けんじとコンビを組むことになり、音曲漫才を続投。
両者共に創作の才能と楽器が達者だったこともあって、面白い舞台を繰り広げていたそうであるが、2、3年足らずで解散してしまった。1973、1974年の『出演者名簿』には「けんじ・茂」で名前が出ている。
昭和50年代に入り、テレビの進出やキャバレー、歌謡曲司会の衰退などを理由に、芸能界に見切りをつけて、「若駒」の経営や接客に集中する。商売の方がうまくいったこともあり、芸人としては引退する算段だったともいう。
そうした中で、1978年12月頃、春日富士松とコンビ結成。氏曰く――
「突然店に来たかと思うと、『コンビを組んでほしい』って懇願されたもんだから『とんでもない』ってお断りをしたんだけど、相手もしつこくて10日近く店に通って頼んできた上に、百万円の束をぽんっと前に出して『これが支度金だから』とまで言われたから、組むことになった。寄席くらいならまあいいかな、という気持ちもあったけれども……」。
冨士松とコンビ時代は「冨士松・しげる」と称していた。三味線とギターのコンビで高座を進める音曲漫才だったという。
冨士松のツテで落語協会に所属し、上野鈴本や新宿末廣亭の色物として出演していたが、1980年5月ごろ解消。
理由は店を切り盛りしていた妻がクモ膜下出血で倒れてしまった事など、家庭の事情が重なり合ったからだという。以降は漫才から完全に一線を退いた。
後年、「若駒」を切り盛りする立場に回り、長らく慕われた。十条では数十年続く居酒屋として結構知られたらしい。
2019年時点では十条に在住で「身体を悪くしているけど、元気にしています」と新山ノリロー氏と共に色々と語り合ってくれたのが懐かしい。
今は若駒も別のソバ屋が入り、コロナ禍で連絡取れなくなってしまった。亡くなったとも聞かないものの、お会いした当時は「体調悪くてよぉ」とボヤいておられたのを覚えている。

