大空なんだ・かんだ

大空なんだ・かんだ

大空なんだ・かんだ(右)

大空はるか・かなた時代(左がかんだ)

目次

人 物

 人 物

 大空おおぞら なんだ
 ・本 名 橋本 久明
 ・生没年 1940年10月10日~2005年2月18日
 ・出身地 東京 大森

 大空おおぞら かんだ
 ・本 名 志賀 正紀
 ・生没年 1938年2月11日~ご健在
 ・出身地 大分県 久住町

 来 歴

 大空なんだ・かんだは戦後活躍した漫才師。なんだは喜劇、神田は浪曲師出身という異色の経歴の持ち主であった。

 かんだの浪曲となんだのなよなよしたアクションで一時代を築いたが、間もなく解散。かんだはボーイズバラエティ協会会長に、なんだは橋本久明の名前で文化人となった。

大空かんだの経歴

 大空マナブの息子として、大分県に生まれる。ハマ子は継母であったが、家庭関係は良好であった。

 生まれて間もなく大分で竹細工業を営む祖母(マナブの母)の下で乳児期を過ごし、3歳の時に親戚に引き取られて、上海へ移住する。

 当人もぼんやりとはご記憶なさっているようだが、引き取られた明確な理由などは判然としない。

 当地でしばらく過ごした後に帰国。その後、大分の祖母の下で暮らしていた。

 5歳のころ、父のマナブが出世したこともあり、東京に引っ越す。

 浅草千束の幼稚園に入るものの、気風があわずに退園。東喜美江の両親である東若丸・君子に預けられた――と本人の弁。

「その頃、喜美江さんのお父さんは今の木馬亭の裏にあった回転木馬の従業員をしていて、そこで遊んだ記憶があります」。

 しかし、空襲の激化で再び大分へと帰郷。再び父の実家で育つこととなった。

 終戦後、家の二階を間借りしていた広沢左虎造、酒井雲衛などの3人の浪曲師の姿や芸を見て、浪曲にあこがれを持ち、小学6年生の時、広沢左虎造の巡業に付いて、初舞台を踏む。

 当人曰く、「洋服姿で浪曲のようなものをちょこちょことやる……まあ、前座のようなものです」との事である。

 中学1年の時に、広沢左虎造に連れられて中津に居た桃中軒如雲に弟子入り。

博多へ行って、中学に通う予定であったが、中学側から、「学業も仕事もおろそかになるから」という理由で退学。3年修行、1年お礼奉公の約束で如雲の門下に入った。

 当時の浪曲の修行は過酷を極め、撥で殴られる、火鉢の箸でケガをさせられるなど日常茶飯事であった。それでも修行をこなし、年季が明けた。しかし、お礼奉公中に、氷屋・炭屋の運送やパチンコ屋の玉磨きなどのバイトをして、給料の一部を師匠の酒代にしている事が両親に露見。

「話が違う、修業させるのではなかったのか」と激昂した両親によって、如雲の下を去る事となり、東京の大御所・広沢虎若の門下へと移籍した。

 上京後、虎若の下で3年修行をし、「広沢若太郎」として独立をしたものの、おりしも襲い掛かった浪曲不振の壁にぶつかり、仕事も激減。悩んだ末に浪曲師を廃業。

 父・マナブに薦められる形で、1959年、前から知遇のあった大空ヒットに入門。師匠のかばん持ちから始める。

 間もなく解散した「はるか・かなた」の後釜を受け、「三代目大空かなた」(二代目は大空曇天)を名乗り、「大空はるか・かなた」を結成する。

 このコンビ事情はややこしく、かつての「かなた」が「はるか」を名乗り、新たな相方が「かなた」を名乗るというモノであった。

 1961年度の名簿を見ても「大空はるか 横山孝信」「大空かなた 志賀正紀」となっている。

 コンビ解消後、次いで弟弟子の大空みつるとコンビを組んだが、これもうまく行かずに解散をした。

 また、1959年頃には、加藤智博(大分県出身)と共に「なんだ・かんだ」名義でやっていた――と『芸能画報』(1959年4月号)にあるが、かんだ氏も覚えがないとの事であった。

 1962年、兄弟子の大空平路が石井均一座から連れてきたという橋本久明と出会い、「大空なんだ・かんだ」を結成。

 コンビ名の由来は、師匠の三空ますみが「正紀(かんだ氏の本名)はなんだかんだとうるさいんだから、なんだ・かんだにしろ」と言われたのがキッカケであった、と本人の証言。

大空なんだの経歴

 実家はサラリーマンの家庭だったそうで、真山恵介『わっはっは笑事典』の中に――

 一方のなんだは、純東京産で、大森のサラリーマンの家に生まれた。かんだより一つ下の十四年十月十日生まれ。高輪中学を出たが、
――人間てぇものは、すべてドカッといかなくちゃ出世をしない。そうだそうだ。
 と、妙な人生観から役者たらんとして、石井均の一座にはいった。
 しばらく喜劇一座にいたが、大空平路と面識を得、紹介される形で一九六二年、大空かんだとコンビを組む。

 元相方のかんだ氏によると「自分の事をほとんど喋らない不思議な奴でした」との事。

 学校卒業後、就職。セールスマンをやっていたが、芸人の志断ち難く、退職をして石井均一座に入団。

「橋本久明」の名前で舞台に出ていた。若い頃は犬の散歩のバイトや色々な仕事を掛持ちして高座に出ていたというのだから苦労人である。

 しばらく劇団で活躍していたが、俳優上がりの大空平路から漫才横丁に駆り出され、意気投合。そのまま漫才界へ入ることとなった。

 1962年に大空ヒット門下へ入り、「大空なんだ・かんだ」を結成。

 以来、松竹演芸場で行われていた「漫才横丁」のメンバーとして漫才や喜劇の腕を磨く。同期には、大空平路・橘凡路新山ノリロー・トリロー東まゆみ・大和ワカバなどがいた。

 1964年3月、大空ヒットに薦められて出場した第12回NHK漫才コンクールで『電波時代』を披露。初出場にも関わらず、新山ノリロー・トリロー、晴乃チック・タックを抑えて優勝。以来、東京漫才の売れっ子として売り出すことになる。

 身軽なコントと浪曲を武器に司会漫才や歌謡ショーなどの仕事を多く引き受けていた。コンクール優勝という実績もあり、一時期はレギュラーを何本も抱える人気漫才師となった。真山恵介の『わっはっは笑事典』でも――

 浅草の松竹演芸場で、秋田実氏の『漫才横丁”に人員不足で臨時にかり出されたりしているうち、かんだと意気投合。三十七年の夏のことだった。それが、師匠の適切なリードもあったのだろうが、三十九年にNHKコンクールで、初出場第一位という異例の成績をあげた。
  たいがい、NHKコンクールは、前年三位、そして二位から一位――と、順を追うのが普通なのだが、このなんだ・かんだのようなのは少ない。
 なんだ――が橋本久明。かんだが志賀正紀と、なかなかむずかしい姓名の持ち主。
 マージャン、映画、つりのかんだ。玉突き、ボーリング、パチンコのなんだ。煮魚以外はOK……というなんだ。かんだの方は、酒とくれば目がないが、なんだはナメルていど。
 両方とも美人の細君に恵まれて、かんだがマル一歳の男の子一人の父。なんだの方は、一心に製作中とある。

と当時の新山ノリロー・トリロー、青空うれし・たのしなどの人気コンビと並べられて評価を受けている。

 一方、双方のすれ違いや加熱する演芸ブーム、自分たちも若い晴乃チック・タックなどの出現により、東京での仕事が減少。

 また芸やコンビの行き詰まりを感じ、1970年、正式にコンビ解消。ただし、それ以前からコンビの活動は実際形骸化していた。

かんだのその後

 相方とすれ違うようになったかんだは、1969年から新人の東京丸とコンビを組み直している。

 京丸を「大空なんだ」と名乗らせ、1972年春まで活動したものの、芸風の相違や方向性で対立し、解散。

 京丸の自伝『ヨイショの京丸しくじり漫才記』を見ると、先輩のかんだに向かってボケとツッコミの役割を何度も入れ替えるように頼んだり、かんだが浪曲をやっている途中に必要以上のちょっかいや悪戯を仕掛けて笑いを取っていた事が相手の怒りを買った――というような事が記されている。

 その後、レオナルド熊とコンビを組んだものの、熊の結核悪化や身の上の都合により、半年で解散。

 1975年頃、師匠の大空ヒットとコンビ結成。氏曰く、「師匠に組まないかと頼まれてコンビを組んだ」

 両者共に人気芸人だけあってか、相応の地位を得、漫才大会などにも積極的に出演したが、1982年頃にコンビ解消。

 この頃、リーガル天才との確執があり、漫才協団を退会。仲介者があって、東京演芸協会へ移籍する計画が立ったが、前田勝之助の反対により白紙になってしまう。

 後にゴルフ仲間であった坊屋三郎や灘康次の推薦でボーイズバラエティ協会に入会。元来の人望もあって、たちまち幹事に推薦された。

 その後は司会、漫談、節真似、演歌と様々な領域で活躍。

 後年、灘康次の後を受けてボーイズバラエティ協会々長に就任。

 長らく浪曲漫談と司会の二刀流で活動を続けてきたが、2002年にタレントの富士たかしとコンビを結成し、「大空なんだ・かんだ」を復活。

 浪曲漫才で人気を集めていたが、結成20年目を前にした2021年2月、「大空なんだ・かんだ」を解散。

 解散を前後して川田恋に会長職を禅譲し、自らは名誉会長となった。2025年現在は余り高座に出なくなったが、健在である。

 学生時代、生意気な筆者に、漫才師のあれこれと教えて下さったのはこのかんださんである。

なんだのその後

 1969年頃より漫才と距離を置き、「橋本久明」「キューメイ橋本」と改名し、コメディなどに出演。1969年時点では既に「元・大空なんだかんだのなんだ」とまで書かれている。

 その後はコメディや演劇に出ていたが、パッとせず、1973年まで漫才協団に籍を置いていたが、間もなく芸能界から引退した。

 1971年頃、学生援護会(現・パーソナルキャリアの前身)にスカウトされ、同会の職員として勤務。サラリーマン生活を送るようになる。

 1982年に北海道支社長になってからは、北海道の顔役として活躍。「扇谷記念スタジオ・シアターZOO」の設立や劇団「札幌座」の発展などに着手し、道内における文化活動の立役者となった。

 表にこそ大きく出なかったものの、北海道の演劇や演芸で彼にお世話になった人も多いと聞く。

 死後、2005年より劇団「札幌座」は橋本久明の祈念をこめて、「橋本久明賞」を設立。劇団で優秀な成績を収めた劇団員を表彰している。

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