大津お萬
人 物
大津 お萬
・本 名 ??
・生没年 1900年代?~昭和43年/1968年以降
・出身地 東京?
来 歴
所謂古参の芸人ではあるものの、安来節、民謡、浪曲を経て、漫才となり、後年には歌謡浪曲や自らの一座を抱えて、各地を巡業していたという女親分風の芸人であったという。
なので、漫才師としてのキャリアや人気は特筆すべき、というわけではない。が、多くの漫才師を輩出した以上はここに書かねばなるまい。そういう点では東喜代駒の来歴と似ているとも言えない事もない。
・漫才以前
前歴は謎が多く、過去のラジオ欄や芸能欄(
僅かであるが、真山恵介『寄席がき話』
歌謡浪曲の大津お万である。
十五才のときから浅草公園できたえ上げた腕は、まさしく堂々たる大風格をなして、 小さい寄席の舞台に彼女が現れると、 何か圧倒されるように思える。 (中略)
浅草公園に民謡でデビューしたお万が、豊かなノドを認められ、
立見二郎と浪曲漫才のコンビを結成、日本中はもとより朝鮮、 満州をノシ歩いたのが十八才の時。 (真山恵介『寄席がき話』 108頁)
昭和初頭は安来節(俗謡)
・戦前と戦後
戦時中は軍事慰問で活躍、戦後はアメリカやハワイなど、
また、戦後は得意の浪曲を改良して歌謡浪曲も演じていた。
晩年は歌謡浪曲をやる傍ら、漫才を続投し、
(随時更新します)
芸 風
お萬の売りは諸芸で鍛え上げた美声と男勝りの啖呵であった。以下は、漫画家で演芸に詳しい根本圭助氏に伺った話――
戦後、大津お萬の一行が松戸(註・根本さんは松戸市に疎開していた)に来た時に、大津お萬が観客の前で、「あたしの名前は花子だのなんだの女々しい名前じゃない! 国定忠治の妾、火の車のお萬と同じなんだ、お萬の下に子をつけてみろ!」
と、放言したとの事。戦後とはいえ、まだ貞操概念が残っている中で、おまんの下にこを付けてみろ、とは凄まじい話ではないか。
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