大津お萬

大津お萬

  人 物

 大津  おおつまん

  ・本 名 廣谷 志満子
  ・生没年 1900年代?~1968年以降
  ・出身地 東京?

  来 歴

 所謂古参の芸人ではあるものの、安来節、民謡、浪曲を経て、漫才となり、後年には歌謡浪曲や自らの一座を抱えて、各地を巡業していたという女親分風の芸人であったという。

 なので、漫才師としてのキャリアや人気は特筆すべき、というわけではない。が、多くの漫才師を輩出した以上はここに書かねばなるまい。そういう点では東喜代駒の来歴と似ているとも言えない事もない。

漫才以前

 前歴は謎が多いが、安来節の出身であったという。

 出身は安来節の歌い手だったそうで、元々は「大津検島子」と名乗っていたそうである。大津検という所を見ると、大津検花奴と同じ検番に所属をしていたのであろう。

 その事を示す物として、『名古屋新聞』(1927年8月12日号)の記事がある。

寶生座 十一日より開演せる安来節と萬歳大會大津検島子改メお萬、清水糸子、八雲君子、松江検鶴子、松田小鶴、米子検君奴、小美代政子等の座長連に女梅坊主女流萬歳の泰斗中村種次、なたね當地御馴染たる天中軒月子中澤歌劇團等六十餘名の大美人團尚島子は先年砂川捨丸と合同し末廣座を開演した人

 という記載があり、改名した事が察せられる。その公演前後の『都新聞』(1927年8月2日号)に、

▲凌雲座 變更せる一座は 力春、染團蔵、月子、芳子、仲子、菜種、種二、小鶴、鶴子、時奴、お萬、種春、天洋一座外

 という広告があるのを踏まえると、1927年に改名したのは間違いないようであるが、判らない事が多い。

 この頃は、節真似と安来節を売り物にしており、1927年6月にはラジオ初出演を果たしている。『読売夕刊』(1927年6月13日号)に、

 浅草の人氣を一人背負つて居る今ばんの安来節連中も浅草凌雲座で安来節をちゅうしんの色物仕立てゞチヨイチヨイ連や安ゴロの人氣をとらへて居る一座の花形ぞろひである唄のお万、小鶴、君奴三味線の小松原栄一、鼓の政子も揃ひも揃つて初放送
 お萬は凌雲座の座長選挙投票に目下最も優勢を示して居る程の人氣者でそうして美人で聲が美しいその上に浪花節の物真似が上手で宮川左近、木村友衛、篠田實等々安来節の女の中では追従するものがないと云ふ鬼に金棒の三拍子を揃へて居る

 その後、吉本興業と専属契約を結んだらしく、『読売新聞』(1930年9月7日号)に、

「けふの日曜晝間演藝は俚謡俗曲大會と言ふ大看板の下に、大和家三姉妹音羽座の濱田梅吉一座、吉本興行部の大津お万一座の……」

 とある。相当人気があったのだろう。 

 1930年頃、立見二郎とコンビを組み、本格的に漫才へ参入。『都新聞』(1930年10月20日号)に「▲新興演藝大會 廿日より遊楽館 歌狂樂 大津お万、立美二郎出演」という記載がある。

 また、僅かであるが、真山恵介『寄席がき話』にその前歴らしきものが触れられている

 歌謡浪曲の大津お万である。
 十五才のときから浅草公園できたえ上げた腕は、まさしく堂々たる大風格をなして、小さい寄席の舞台に彼女が現れると、何か圧倒されるように思える。 (中略) 浅草公園に民謡でデビューしたお万が、豊かなノドを認められ、立見二郎と浪曲漫才のコンビを結成、日本中はもとより朝鮮、満州をノシ歩いたのが十八才の時。

 昭和初頭は安来節(俗謡)や浪花節の物真似で何回かラジオに出演しているのが確認できる。

 1931年頃、同僚の大津検花奴と一座を結成し、浅草を拠点に奮闘。

「▲観音劇場、19日より座組變更、女流萬歳オンパレード大津検花奴、お萬等一座に林一夫楽劇團一行も出演」(『都新聞』5月19日号)

「▲観音劇場 11日より 盲目のルンペン四景(樋口十兵衛とチカラ小劇場)滑稽曲藝(湊家小亀)レヴュー(林一夫楽劇團)女流萬歳オンパレード(大津お萬、花奴一座)」 (『都新聞』(6月11日号)

 という記載がある。

 この後、花奴と別れ、「大津お萬一座」を結成。大津小萬を筆頭に多くの漫才師を抱え、全国を巡業した。この頃の相方は主に小萬だった模様である。女道楽(ショーと大喜利をあわせたような女だらけの一座)を得意としていた模様か。

 そのため、弟子を多く抱えた。大津小萬・小百合大津一万・万龍杉まりなどは彼女の弟子にあたる。

歌謡浪曲と戦争

 漫才稼業の傍ら、1936、7年頃に従来の演出に囚われない浪曲を考案し、「歌謡浪曲」と名付ける。この芸は戦前から知られていたようで、『都新聞』(1942年8月2日号)に

 物語の主人公は、いま浅草義太夫座にゐる大津お萬であるが、大津お萬といへば、昔の安来節ファンには馴染み深い名前であり、六七年前、今流行の歌謡浪曲と云ふ思ひつきの演藝舞臺に、眞つ先に手を着けたのも彼女である。

 とある。

 歌謡浪曲にはアコーディオンと相三味線、またはギターを用い、アコーディオンは服部文江(二三江)が、相三味線とギターは山田智恵子が担当した。お萬も浪曲を唸る傍らで三味線を豪快に弾く――「弾き語り」のスタイルを擁立した。同時期、洋楽入りの浪曲を考案した木村若衛などと共に歌謡浪曲の生みの親となった。

戦時中は軍事慰問で活躍。弟子や関係者を引き連れ、漫才も浪曲も何でもありのバラエティショウを形成した。

 1943年から翌年にかけて中国大陸を慰問しており、『日中戦争下中国における日本人の反戦活動』の中に、1943年12月、徐州の師団に慰問行く途中の大津お萬一座を中国新四軍が捕らえ、二、三週間拘束した上に楽器や道具を没収した――という証言が出ている。

 戦後はアメリカやハワイなど、海外巡業にもでかけ、話題をさらったという。

 1950年、弟子の小萬、檜山さくらと共にハワイを巡業。その時の記録が残っていたので引用する。

シカゴ興行會社有志の主催で行はれる大津お万一行の漫才と映画の夕は廿日(金)と廿一日(土)の両日南北二ヶ所で開演されるが、その切符は北部は戸栗商事社、南部はオーケーグローサリー、藤本商會及びレーキバークラジオ店で賣り出されてゐる。
 氏は大津お万、小万及び檜山サクラの一名よりなり、浪曲、端唄、三味線曲弾き流行歌、漫才と何んでも御座れのお笑いと楽しみのコンビネーションである。久し振りに心の洗濯をしてくれると

『Shikago Shinpō』(1950年10月19日号)

  当時のチラシ

 特に、ハワイでは大人気を博したそうで、「ハワイお萬」なる偽物も出た、と『内外タイムス』(1952年10月21日号)にある。

 戦後は漫才よりも、得意の浪曲を改良して歌謡浪曲も演じていた。アコーディオンは服部二三江、相三味線を山田千恵子という編成で、放送や舞台で活躍した、とのこと。

 晩年はなぜか漫才を続投し、弟子の大津小万と「お萬・小萬」を結成。色物として寄席に出演した。 

 1970年代前半まで、歌謡浪曲や漫才で活動している様子が確認できるが、間もなく消息が辿れなくなる。没した模様か。

芸 風

 お萬の売りは諸芸で鍛え上げた美声と男勝りの啖呵であった。以下は、漫画家で演芸に詳しい根本圭助氏に伺った話――

戦後、大津お萬の一行が松戸(註・根本さんは松戸市に疎開していた)に来た時に、大津お萬が観客の前で、「あたしの名前は花子だのなんだの女々しい名前じゃない! 国定忠治の妾、火の車のお萬と同じなんだ、お萬の下に子をつけてみろ!」

 と、放言したとの事。戦後とはいえ、まだ貞操概念が残っている中で、おまんの下にこを付けてみろ、とは凄まじい話ではないか。

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