シャンバロー(柳四郎・岡三郎・邦一郎)

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シャンバロー

シャンバロー
(左から岡三郎・邦一郎・柳四郎)

三味線バロー時代
(中央が宮田五郎)

 人 物

 やなぎ 四郎しろう

 ・本 名 白井 恭一
 ・生没年 1917年8月21日~1988年12月6日
 ・出身地 東京 浅草

 おか 三郎さぶろう

 ・本 名 池田延次郎
 ・生没年 1917年4月6日~2003年6月5日
 ・出身地 東京 浅草

 くに 一郎いちろう

 ・本 名 旭 千弘
 ・生没年 1930年5月22日~1999年8月13日
 ・出身地 新潟県 古町

 宮田みやた 五郎ごろう

 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~??
 ・出身地 ??

 おか 三郎さぶろう(二代目)

 ・本 名 岡田 満
 ・生没年 1943年12月13日~2006年1月16日
 ・出身地 茨城県那珂郡

 来 歴

 戦後長らく歌謡漫談の一線を走り続け、ボーイズバラエティ協会や寄席の色物などに大きな貢献と足跡を残した「シャンバロー」。漫才から少し外れるものの、寄席に出演していて多くの漫才師と交流があったことや弟子に漫才師がいた事、知名度などを踏まえたうえで、採録することにした。

 初期メンバーの三人はみな長唄出身という変わり種で、幼いころから仕込まれた三味線や邦楽の要素に洋楽や流行を取り入れる、ハイカラな芸風でその地位を確立した。長年の寄席ファンの中には、彼らの勇姿を覚えている人もいるんじゃないだろうか。

 まずは結成以前の動向を記すことにする。

 ・柳四郎の前歴

 出身は浅草。父親は長唄の稀音家政造。政造は倅に跡を継いでもらおうとは深く考えていなかったらしく、6、7歳の時から芸を仕込むということはなかった。四郎本人はどうも画家になりたかったそうで、幼いころは三味線ではなく絵画教室に通っていたというのだから、縁は不思議なものである。

 16歳の時、早くから長唄をやっていた姉の影響とあっせんで、長唄の世界に入る。詳しい事情はよく分からない。

 17歳の時、稀音家六治(後の山田抄太郎)の門下に入り、「二代目稀音家政造」を襲名。蛙の子は蛙というべきか、早くから頭角を示すようになった。

 間もなく浅草宮戸座に出勤し、中村竹三郎や市川市十郎一座の地方を務める。宮戸座はいわゆる中芝居の劇場の一つであったが、かつては太夫と謳われた澤村源之助がいただけあって、芸達者でうるさ型の面々が集う名門の劇場だったこともあり、さぞ勉強になったものと思われる。

 また、師匠六治の影響で、小岩に「邦楽研究所」を設立。師匠の理論に基づいた邦楽の新しい方向性について講義や議論をしていたという。

 戦時中は外地にいたらしく、『捕虜体験記Ⅳ ハバロフスク地方篇』掲載の大畠治孝『故国は遠い』の中に、

  収容所では、毎日毎日ラボートに追われながらも、やはり休日もあってのんびりしたムードにひたる時もあった。

  その一つとして、俘虜仲間で組織している劇団があり、収容所巡りをしている一座が三ヶ月くらいの割でまわってくる。現在ときどきテレビや寄席でお目にかかるシャンバローはシベリア当時に慰問にまわってきた仲間だ。まったく奇遇というべきである。

 という一文があるのが気になる。岡三郎は戦争に行っていないので、柳四郎の事だろうか。

 敗戦後、長唄不況の中で演芸界転向を志し、1947年2月、同僚の岡安喜久輔、杵屋佐之市と共に「チャッカリトリオ」を結成する事となった。

 

 岡三郎は浅草馬道の出身。父は長唄の芳村伊十造。伊十郎門下でも優秀な人材だったらしいが、後年なぜか廃業をしてしまっている。

 こちらは、長唄の後継者として早くに仕込まれるところとなり、父と六代目岡安喜三郎に師事。4歳という幼さで初舞台を踏んだ。

 後年、岡安喜久輔を襲名し、大劇場に出演。その傍らで、胡弓や太鼓、笛などの鳴り物も習得。これが後年、大きな財産となった。

 長らく大舞台の地方として修行を積んでいたが、戦争で劇場は荒廃。戦後は歌舞伎も舞踊も進駐軍に睨まれるという長唄不況の時代に突入した。

 なお、戦時中は近眼を理由に徴兵こそされなかったものの、労働力として軍需工場などで働かされたという。ご遺族によると、心優しい岡三郎はそこで働く捕虜のために、わざとタバコをほとんど吸わずに捨てるふりをして捕虜に与えていたそうで、捕虜には感謝されて、時折仕事を代わってもらうよう――――ちょっといい話が残っている。

 敗戦後、大幹部はともかくも若手が長唄一本で食べていけるはずもなく、家庭的にも困窮して居る所で、同じ境遇の稀音家政造、杵屋佐行と意気投合をするようになる。

 新しい邦楽を普及する心を持った三人は、トリオを結成。「チャッカリトリオ」と名乗った。

 ・シャンバローにいたるまで

 メンバーの一人、宮田五郎は、謎の多く残る人物であるが、やはり長唄畑の人で、杵屋佐行といった。美声で知られていたという。

 さて、トリオを組んだ三人は何とかお笑いの形らしいものをこしらえ、1947年2月、市川市警防会館で初舞台を踏む。

 この時にはお金も衣装もないため、宮田が明治末期の燕尾服、柳がセーラー型ラッパズボン、岡が伊藤道郎から借りた背広という珍妙な恰好で舞台というのだから、おかしい。

 ここで一定の成功を収めたのに自信をつけ、余興や演芸会などで、試験的に活動を続けている所へ、当時数少なく興行を続けていた東横有名会からスカウトされ、出演を依頼される。

 出演したのはいいものの、その五日目にかつての弟子たちが総見にやってきてしまい、変わり果てた師匠の姿に愕然。周りを憚らず、「先生、おいたわしいや」と、涙の合唱が始まり、舞台をめちゃくちゃにされた――と、『読切小説集』(1957年9月号)掲載の杉田憲治『高座紳士録』に出ているが、杉田氏の事ゆえ、面白おかしく書いている感はありそうな。

 そんなハプニングこそあったものの、その公演で落語芸術協会副会長の桂小文治に認められ、落語芸術協会への入会を勧められる。

 1948年4月、「三味線バロー」と改名し、同年9月頃より芸術協会の興行に参加するようになる。寄席に出演する時は「サミセンバロー」と書かれる事もあった。

 このバローというのは、ラテン語の「bārō」からとったらしい。意味は「間抜け・馬鹿者」という意味で、スラングに近いそうな。直訳すると、「マヌケ三味線」ということとなる。

 寄席出演当初は、その温度差や落語家との力量の差を突き付けられ、けられることも多かったが、草津節を大薩摩で弾いて見せるネタや勧進帳の合方を能管で弾くネタを編み出し、徐々に認められるようになる。岡三郎は、寄席の調子に合わせるために、秘蔵の三味線を半分に詰めたほどであった。

 また、清水金一や北里俊夫といった支援者や作者に恵まれたのも、早い成長の助けとなった。

 半年もすると、貫禄も付くようになり、メディアなどからもその特異な芸風が注目されるようになった。以下は、『スクリーンステージ』(1948年10月19日号)掲載の三味線バロー時代の記事の引用。

寄席に色ものは数々あるが『三味線バロー』という三人組が芸協会に彗星の如く現われて、今や英二・喜美江のスィング・ コント、ひろし・まりのモダン漫才にとってかわる人気ものになりつつある
この人はかつて長唄、三味線のお師匠さんたちで、リーダー格が宮田五郎(杵屋佐之助の門下で杵屋佐行)で四郎 (稀音家六治門下で稀音家政造)岡三郎(岡安喜三郎門下)と五・四・三のトリオをなし、昨年二月渋谷東横の有名会の初舞台で偶然小交治と一緒になり、小文治の引きで芸術協会に加盟したもので、その後大阪梅田劇場等の大舞台にも出演、去る八月のラジオ日曜、娯楽版にも登場している。
長畑の出身だけに大ざつまが売りものになっているが、新しい寄席の客の為に歌謡曲も無視出来ないのを知り声楽を乗松昭博、広石徹両氏より習い、三 味線にのせた流行欧メロディも随時はさまれてボードビリアンとして特異な味を出している。一つの難点はアイデァの貧困とマンネリで、よきアイディアマンとの提携が急務である。バローはフランスの俗語で『ふざけた三味線』『間ぬけな三味線』の意味であろうか

 寄席復興期の注目株として活動を続けてきたが、1950年5月、宮田五郎がチームを離脱し、「三味線バロー」が分裂。その背景には宮田五郎が主張する方向性の違いや宮田のスピリチュアル的な性格が、岡と柳の反感を買ったという。

 ただし、関係者である東京ボーイズや岡三郎のご遺族に伺ったものの、その真相はよくわからなかった。わずかに菅六郎氏が「生前、柳先生は、宮田君ってのはスピリチュアルな人で、他人よりも占いとかを気にする。巡業へ行っても一人だけ『この方角は悪い』とかいって、布団を別の方向に敷いたり、稽古に来なかったりして、二人と対立するようになった……とは聞いてますが」。

 脱退した宮田五郎は「三味線バロー」の名義を引き続き落語協会へ移籍。落語協会系の興行に出演していたが、1952年頃、「ミヤタバロー」と改名している。

 この名前で1年程寄席などに出ているが、間もなく廃業。元の長唄畑へと戻っていった。後年はどうも前進座系の劇場や公演に出演していたらしく、ずいぶん後まで美声を聞かせていたという。ここまでくると、完全に邦楽畑の話になる。

「三味線バロー」分裂後、残った柳と岡は、穴埋めのために、ギター漫談の三和完児と音楽教師の旭千弘の二人に目をつけ、スカウトをすることをなった。

 本来はこの二人に、一郎、二郎と名付け、「一、二、三、四」のカルテットになるよう目論んだそうであるが、三和がこれを断ったために、「一郎、三郎、四郎」と中途半端な文字列になってしまった、という。後年の微妙な配列にはそういう背景があるという。

 小島貞二『昭和演芸秘史録』の中でも、柳四郎自身が、

小島 三味線の中へアコが入る。トリオの名もグッとフランス調に、“シャンバロー”になったんですね。

柳 ええ、”三味線バロー”の名は、宮田君が持ってっちゃった。

小島 柳四郎、岡三郎、邦一郎といて、“二郎”がいないのは、何か意味があるんですか?

柳 いまだからいえますが、実はもう一人、いまの三和完児……当時松浦俊雄の名でギター漫談をやっていたから、入ってもらって”二郎”にするつもりでした。結局、そのままになって、二の字が欠けている……

 と発言している。邦一郎加入後、フランス語で「おどけたメロディー」を意味するという「シャンバロー」と改名。再スタートを切った。

 ・邦一郎の前歴

 邦一郎の出身は新潟。然し、早くに上京したそうで、育ちは、滝野川であったという。

 父親は旭和穂という楽師で、芝居音楽を担当していた。古くから音楽業界との関係があり、柳四郎とも知遇の仲であった。

 姉もアコーディオン奏者だったそうで、一時期、落語家の鈴々舎馬風と関係を持った――と北村銀太郎『聞き書き・寄席末広亭』の中にある。これは有名な話で、馬風が邦一郎の姉といい関係になり、いつも二人で出歩くようになった。然し、彼女はアコーディオン奏者なので、この荷物は馬風が持たなくてはいけない。その重さに閉口した馬風は、知人に「アコーディオンは重くてしようがねえ。今度はハーモニカ吹きの女にしよう」とボヤいた――というマヌケな話である。

 幼い頃から音楽に囲まれて育ったこともあってか、音楽家の道を志すようになり、東邦音楽学校へ進学し、ドイツ音楽を専攻。更には国立音楽学校へ進んでいる。

 当時の漫才師にしては異例の学歴で演奏のみならず、音楽理論や指導法にまで精通していた。

 卒業後、目黒七中の音楽教師として採用され、子供達に音楽を教えていた。教師出身というのも珍しい。美和サンプクと同じである。

 その経緯が、『読切小説集』(1957年9月号)に掲載された杉田憲治『高座紳士録』の中に、記してあるので引用。

宮田の穴に、二人の候補があった。現在司会などで稼いでいる、三和完児と、邦一郎とである。

邦の方は、父の旭数穂が、芝居のバック師であり、柳が、杵屋佐吉の合奏団 “一創会”の関係で、国立音楽院で勉強したが、その時の師が後に邦をも教えた、という二ッのコネクションが、他の、どの理由より強く、新メンバーとして、アコデイオンを抱えての登場となった。
邦は新潟古町で、昭和五年五月二十二日に生、小学校は東京の滝の川第三を出。高小から中学と進み、初一念の、世界的声楽家を夢みて、東邦音楽学校に入り、全四年の課程を了し、国立音楽院に学んだ。その間に、目黒七中の音楽教師を勤めた。目黒七中の卒業生さんたち、 旭千弘先生――これが邦の本名です。

 

 ・シャンバローの時代

 邦一郎の参加によって、これまでの三味線にアコーディオンが加わり、重厚で味のあるボリュームが生まれることとなった。また、音楽理論をよく知る邦によって、多くの洋楽や流行歌が持ち込まれるきっかけにもなった。三味線の邪魔にならない演奏法や伴奏を編み出したのは名人芸と言えよう。

 長唄仕込みの三味線と歌を中心に、流行歌、曲弾き、邦楽、洋楽なんでもありの歌謡漫談を展開。基本的に柳四郎が大ボケ、岡三郎がツッコミ、邦一郎がその両方を兼ねる立ち回りであった。

 長唄「たぬき」に、証城寺の狸囃子や与太話を入れる「長唄たぬき」や、あほだら経のリズムに合わせて言葉のあれこれを歌い上げる「日本珍語辞典」などを得意とした。

 関係者によると、テーマソングは「おおスザンナ」「草競馬」、エンディングテーマは藤山一郎「夢淡き東京」の替え歌で、「あまり長居はお目目の邪魔です それでは皆様さようなら」で、最後のさようならの部分で、「おなら」のジェスチャーをするときもあったそうな。

 卓越した演奏技術と茶目っ気のある舞台で、たちまち人気トリオとなり、多くのラジオやテレビ番組に出演した。映画にも出演している。

 岡三郎は村沢良介から歌唱法を習ったり、胡弓を再び習い覚えて、流行歌を弾くなど陰の努力もすごかったという。

 また、柳四郎は面倒見がよく、親分肌の気質から、川田晴久から可愛がられ、川田亡き後の歌謡漫談を引っ張る幹部として目されるようになった。

 事実、川田は柳を歌謡漫談界のリーダーと目していたところがあったらしく、死ぬ直前に柳と会った際に「歌謡漫談を頼む」といった逸話が、『昭和演芸秘史』の中で紹介されている。

 1961年4月、邦一郎のもとに旭五郎が入門。この五郎が中心となって後年、「東京ボーイズ」が結成された。

 1962年頃、邦一郎が腎臓結核に倒れ、一時離脱。穴埋めとして弟子の若葉茂・高山登がシャンバローに参加。ココから1年程、カルテットでやっていたというのだから面白い。因みに若葉茂当人に聞いた話では、「俺がギター、高山がアコーディオン、他は変わらずでしたね」。

 1963年、柳四郎に菅六郎が入門。幼馴染の旭五郎、若葉茂門下の峰さかえとトリオを組み、「東京ボーイズ」を結成した。

 1965年2月、東京を中心に活躍している歌謡漫談グループ及びピン芸人数十組を集めて、「東京ボーイズ協会」を発足させる。

 柳家三亀松を会長に立て、自身は事務方へと回った。以来、会長の補佐をする傍ら、運営やボーイズ大会の計画など、歌謡漫談の発展や育成に貢献し続けた。

 1968年、「第37回ボーイズ大行進における『シャンバロー3部作』の演奏・演技に対し」芸術祭奨励賞を受賞。

 1975年ころより、座り高座での芸を模索するようになり、稀音家和三郎や福原百之助などの教えを受け、本格的な邦楽をベースにした和服姿のスタイルを生み出す。「たぬき」、「風流ざれ歌」、「勧進帳」など、独特の芸風を開拓した。

 1976年7月、三木のり平主演の『喜劇四谷怪談』に出演。喜劇の合間に出演して、邦楽を合奏するおいしいところを見せた。

 このころにはもう芸術協会の大看板として君臨しており、協会にはなくてはならない存在になりつつあった。通常の興業のほかに、襲名披露やパーティーにおける楽曲の伴奏や追い出しの演奏、時には紋付き袴で舞台に出て長唄を披露する――などと活動の幅の広さは注目すべきものがある。

 芸も円熟した矢先の1977年9月ころ、岡三郎が上野鈴本の楽屋で昏倒。脳血栓の発作である。その後遺症として半身不随となり、惜しまれながら引退する事となった。

 引退の際には右のような文面がカケブレに紹介された。

私こと再び高座は無理と存じ此度引退を決意致しました近く茅ヶ崎(三女の家)に移転致します。永い間色々御厄介になり厚くお禮申上げます 岡三郎

(1977年10月上席のカケブレより)

 以降は三女の住む茅ヶ崎で療養生活を送り、芸能界にカムバックする事はなかった。

 初期メンバーであった岡三郎の引退は、やはり精彩を欠くところとなり、柳四郎の持病であった糖尿病の悪化に加えて、徐々に活動も委縮していくところとなった。

 

 ・その後のメンバーたち

 1978年、引退した岡三郎の後釜として、漫才の新山セイノーを加入させ、「二代目岡三郎」を襲名させた。担当楽器はギターで嘗ての三味線の合奏や邦楽のネタは見られなくなった。結果として出番も浅くなり、出演も少なくなった。

 柳四郎の晩年は、糖尿病との戦いで、多くの病変に悩まされたという。青空うれし氏によると、「柳さんの糖尿は壮絶だった。銀座線なんか乗るだろう。そうすると一駅ごとに電車を降りちゃ、水をガッー!って飲むんだよ。ありゃ糖尿病の症状だって聞いたが、本来なら10分で着くようなところも、1時間も2時間もかけて来ていたのをよく覚えている」。

 1982年11月頃、シャンバローは活動休止に入った。一応、落語芸術協会に籍こそ置いていたものの、実質の活動はなく終わった。

 1983年7月31日付で、シャンバロー解散し、落語芸術協会を退会。柳・岡は芸能界に留まったが、邦一郎は一線を退いた。

 トリオ解消後、柳四郎はボーイズ協会の長老として運営に奔走する傍ら、弟子の柳雅邦(白井賀奈子 1937年11月30日〜?)とコンビを組み、「シャンバロー」名義で活動を続けていた。

 最晩年まで、その活躍とボーイズ界の発展を望み続けていたが、糖尿病の悪化に伴い、一線を退き、間もなく没した。

 邦一郎は長い隠居生活を送った後、1999年に69歳で没したという。最晩年は芸能界こそ退いたものの、一応の関係は持ち続けていたそうで、国立演芸場のパンフレットなどにその訃報が出た。

 初代岡三郎は三女の家で長らく療養生活を送った後、2003年、87歳の長寿を保って静かに息を引き取った。最晩年は、孫娘の有希子が女優となり、その活躍を静かに応援していたという。

 この孫娘こそ、舞台女優であり、モーリー・ロバートソンのパートナーとして高名な池田有希子であることはいうまでもない。

 二代目岡三郎として参加した、岡田満はボーイズ「ザ・ローカル」を経て、漫談に転身。「ローカル岡」と名を改め、茨城弁丸出しのボヤキ漫談で売れに売れた。今でもご記憶にある寄席ファンも多いことであろう。この人に関しては別項を立てます。

 シャンバロー一代記。一巻の終わり。

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