杉ひろし・まり

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杉ひろし・まり

人物 

すぎ ひろし

・本 名 斎藤 勝
・生没年 1918年2月28日~没
・出身地 福岡県

すぎ まり

・本 名 斉藤 冬子
・生没年 1923年1月2日~没
・出身地 福岡県

 来 歴

 杉ひろしは長崎音楽院を卒業した音楽家。新山ノリロー氏曰く、「うちの悦朗親父みたいなせこな演奏じゃなかった、そりゃ立派なものでしたよ」との事で、五線譜やコードもきっちり理解していた。

 卒業後は松竹楽劇団のボーイとして入団し、OSKを中心とした公演で演奏活動。間もなく退団して、地方周りの楽団を転々している時に大津萬里と出会った。

 まりは、元々大津お萬の弟子で、「大津萬里」といった。1933年、九州巡業に来たお萬に入門して以来、厳しく芸事を仕込まれた。1939年、二人は結婚し、コンビを組んだ。

 コンビ結成後、大阪に居を構え、吉本興業に入社。大阪の寄席に出演していたが、程なくして太平洋戦争が勃発。劇場や寄席が閉鎖され、芸人たちも応召されるようになった。1943年に赤紙が届き、出征。コンビ活動を停止した。

 2年ばかりの軍隊生活を経て、復員。1947年、大阪に来演してきた落語家の春風亭柳好にその技芸を認められ、上京を薦められる。

 柳好に従って上京。落語芸術協会へ入会した。以来、落語芸術協会の色物の一組として定席に出演。

 1961年には宮田羊容率いる東京漫才協会に入会、理事に就任。漫才名人会などにも出演するようになった。

 ひろしのギター、まりの三味線という楽器こそオーソドックスな音曲漫才であったが、「スイング・コント」と名乗ったように、ハイカラ・モダン趣味を心がけた、不思議な芸風だったという。ひろしのギターは達者で、ジャズやクラッシックも弾きこなすほどであった。

 辛口ではあるが、立川談志の批評がこのコンビの芸風をよく伝えている。

「杉ひろし・まり」という「スイング・コント」と称するコントらしきものをギターと三味線で演ってた二人。この二人は子供心に、”助平ったらしい。” というか、後に読む “奇譚クラブみたい。”というか、そんな感じがちょっとした。夫婦だったはず……。いま思うと、奏でる曲は「ボレロ」とか、テーマ曲が「アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド」であり、モダンだった。いえ、モダンの意識が芽々とあり、けど、それが古く感じた。何なのだろう……。

立川談志『立川談志遺言大全集14巻』

 また、ひろしが割かし老け顔なのに対し、まりは童顔だったせいか、親子にまちがえられることが結構あったという。そう指摘されるたびにひろしがクサッたのは言うまでもない。

 入会以来、40年余り寄席の定席に出演し続けてきたが、1989年5月限りで芸術協会を退会し、一線を退いた。

 その後は、アパートの管理人などしていたらしく、寄席のアレコレを記した『新宿末廣亭うら喫茶楽屋』に、その噂が記されている。

ひろし・まりさんは子供がいなくて、引退してからしばらくは上野さんの家作で管理人みたいなことしてたんでしょ、故郷へ帰るまで。九州かなんかに帰ったのよね。この間、ひろしさんが亡くなって、まりさんも亡くなったって聞いたわ。

 上記では子供が居ないような発言がなされているが、真山恵介『わっはっは笑事典』などを確認すると「とにかく、高校を出た子供がいるはずだし……ね。」とある。

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