大瀬ゆめじ・うたじ

大瀬ゆめじ・うたじ

大瀬ゆめじ・うたじ(左)

『お好み演芸会』で橘家圓蔵と

 人 物

 大瀬おおせ ゆめじ
 ・本 名 大原 博司
 ・生没年 1948年8月24日~2023年11月26日
 ・出身地 北海道 函館市

 大瀬おおせ うたじ
 ・本 名 藤沢 能仁
 ・生没年 1948年3月17日~2024年7月6日
 ・出身地 長野県 塩尻市

 来 歴

 2024年7月8日、大瀬うたじさんが急逝した――と聞き、驚いた。大瀬ゆめじさんが亡くなった時も驚いたが、それ以上かもしれない。二人とも話を聞いたことのある関係だったこともあり、知人がもうこの世にいない――と思うとひどく寂しい感じがするのである。

 特にうたじさんは2024年初頭まで第一線で活躍しており、漫才協会内の長老的ポジションを占めていたこともあり、その急逝には驚いている。人の死はいつかやって来るとはいえ、いざそうなってみると悲しい。この二人を追っかけて大瀬しのぶ・こいじの経歴をある程度聞いておいてよかったとつくづく思うのである。

 そんな二人の追善を込めて、この項を立てることにした。二人の経歴は『「東京漫才」列伝』に詳しい。

 大瀬ゆめじは北海道函館の出身。

 中学2年の時に母と死に別れ、藤沢市の叔母の家に預けられた。高校を卒業後、大学進学のために家出。早稲田に合格し、その学生となった。

 しかし、当の大学は学生闘争で開店休業状態。バイトで知り合った友人と渋谷のアパートを借り、大学へ行かずブラブラ過ごしていた。

 その友人からコメディアンの秋凡児に誘われ、浅草フランス座に転がり込んだ。ここでコントをやったり、コメディアンの真似事をしている内にうたじと出会い、1971年4月、コンビ結成。

 うたじは長野県塩尻の出身。

 塩尻温泉の旅館の四男で、地元の長野県塩尻志学館高校卒業後、駒澤大学文学部(東洋史専攻)に進学。

 しかし、こちらも学生闘争でままならず、バイトをして金を稼いでは旅をする日々を送っていた。その中で教職を目指し、資格勉強を始めて卒業。

 在学中、旅行先の青森県五戸の教育委員長が駒沢の出身であり、面識があった事から「五戸で教員になろう」と考えていた。願書を送ろうとしたものの、大学はロックアウト中で証明書を出してもらえず、そのままなし崩し的に就職浪人になってしまった。

 ぼんやりと暮す中で、日大芸術学部に通っていた次兄の友人から「ヌード劇場の仕事があるんだが、コンビを組んでくれ」と頼まれた。次兄の友人は駆け出しのコメディアンだったそうで、本来は次兄と組む算段を立てていたという。

 その男とコンビを組んで、1970年1月11日に千葉県五井劇場で初舞台を踏んだ。

 結局、その相方と1年ほどコンビを組んでヌード劇場廻りをし、なし崩し的に漫才師となった。

 間もなく、浅草松竹演芸場でうたじと出会い、「コンビを組もう」という話となった。

 うたじ氏の話では「当時は劇場や浅草の仕事に出るにはどこかしらの団体に所属していた方が有利だった」――とのことであるが、当時売り出しの漫才師、大瀬こいじ・しのぶに入門。

「大瀬ゆめじ・うたじ」と風流な名前をもらい、1971年春に漫才協会へと参加した。

 1971年2月21日、名古屋の大須演芸場で初舞台を踏む。当初は「うたじがゆめじのジョークを本当と思い込んでしまい、それで喧嘩してしまう」と漫才師らしからぬことも多々あったという。その頓珍漢なすれ違いが後の「平行線」へとつながったともいう。

 1975年3月1日、第23回NHK漫才コンクールで第3位。最優秀賞はWモアモア、優秀賞は大空あきら・たかしであった。手元にパンフレットがある、これを引用しよう。

審査員=玉川一郎 大野桂 黒鉄ヒロシ 住田真澄 コロムビアトップ
ゲスト=内海桂子・好江 新山えつや・東ひでや(昨年度最優秀賞受賞)
司会 飯窪長彦アナウンサー
チャンチャカチャン  東京丸・京平
新婚旅行       青空ピック・アップ
ライバル同志     大瀬ゆめじ・うたじ
通信簿        大空あきら・たかし
借りたワイシャツ   大空せんり・まんり
お笑いアラカルト   桂光一・ひろみ
テレフォン物語    昭和のいる・こいる
レストラン      セント・ルイス
沖田総司       Wモアモア

 ついでに丸目狂之介の記事が出ている。

大瀬ゆめじ・うたじさん。二人はテンポとスピードをねらいにして漫才を作ってゆくそうです。『俺達漫ザイ‼』…このキャッチフレーズを入れながら「なんとか目立たなくてはいけない」と・・・ヒル寢の最中にも考えてるそうです。目立つためなら、ナマズを集めて地震の発生装置だって作りたい気持だ、といいます。若手の中でも油がのりきって…(ダカラ、ふとって)います。

 1974年2月13日、第22回NHK漫才コンクールに出演。最優秀賞は新山えつや・東ひでや。この回は少し特殊な選抜が行われた回であった。出演者は以下の通り。

審査員  玉川一郎 中村メイコ 竹前健吉 神津友好 コロムビアトップ
ゲスト  笹みどり 松旭斎すみえ 花島世津子
司会   中江陽三アナウンサー

 3番目のグループ
青空ヒッチ・ハイク 古川新山・作「珍ずし」
星セント・ルイス「南北体操」
大瀬ゆめじ・うたじ 小松良則・作「ああ我 幼なかりし頃」
 4番目のグループ
木田P太・Q太 あべゆうじ・作「昔と今」
昭和のいる・こいる「くたばれベースボール」 
高峰愛天・敬天  「プレイボーイ」
 2番目のグループ
東京丸・京平    古城一兵・作「僕のモナリザ」
春風こう太・ふく太 遠藤佳三・作「SLは行く」
Wモアモア     京田勝馬・作「フィーリング時代」
 1番目のグループ
大空はるか・かなた 緑川崇久作 「節約時代」
青空ピック・アップ 「僕はキャプテン」
新山えつや・東ひでや「ふるさと」

 しかし、この後は数年間漫才コンクールには出ず、浅草松竹演芸場を主軸に地道な研鑽が続いた。

 1979年、作家集団グループキャンセルが「平行線漫才」の原案を出してくれ、これを練り上げるようになった。

 寄席ファンならばなじみ深いネタだろう。ゆめじが「庭にあった鳥の巣を覗いたらシジュウカラだった」「うな重を食べに行って『これは養殖だろう』と店員に言ったら、『和食です』と言われた」などと小噺みたいなジョークを言う。それに対して、うたじが「始終空なのにどうして鳥の品種がわかったのか」「ウナギを洋食だというのは、和食に対する愚弄だ」と頓珍漢な会話をするものである。

 その言葉の絶妙なニュアンス、かみ合わない会話が面白かった。

 1980年2月29日、第28回NHK漫才コンクールに出演し、早速このネタを取り上げている。優勝は青空ヒッチ・ハイク。

 審査員=山田洋次・黒鉄ヒロシ・神津友好・住田真澄・加藤好雄(NHK)
 ゲスト=青空ピン児・ポン児(昨年最優秀賞) バラクーダ
 司会=古谷和雄アナウンサー
青空ヒッチ・ハイク「エスカルゴ」
大瀬ゆめじ・うたじ「平行線」
大空あきら・たかし「ジュークボックス」
大空ネット・ワーク「カラオケ時代」
桂光一・光二   「お笑い‘80」
高峰和才・洋才  「西遊記」
ぽぱい      「百獣の王人間」

 丸目狂之介のエッセイでも平行線に近いような談話が出ている。

大瀬うたじ…下手…出身は長野県
大瀬ゆめじ…上手…出身は北海道
(ご両人とも年のころなら31〜31歳程度)
大瀬しのぶ・こいじ師匠の門をたたこうとしたら…門がないので、ソノママズルズルと入りこみ…四年間、駒沢大学文学部歴史学科卒業の大瀬うたじとシミジミと相談したあげく…初めには、将来の目標を世界にハバタル、エンターテイナーになろう‼と誓いあって…今は引っ越しの手伝いをアルバイトの趣味としている。
そして2人のジンクスは
A「なにしろ四年目ですからネ…日常生活…万事…四年の四……の字にかけてんです。寄席の仕事は㋵がつくからいいんです。」
B「夜の仕事がつくから…ゲンがいいです。」
A「ダカラ3度目の正直はダメなンです。3回まではウソで・・・四度目に正直なことを言うのが…われわれのキマリです‼」
B「今日のこのお話は3回目です‼」

 1981年2月27日、第29回NHK漫才コンクールで優勝。十八番の「平行線漫才」で優勝を果たした。

審査員=神津友好・サトウサンペイ・住田真澄・中村メイコ・前川宏司・コロムビアトップ・加藤好雄
ゲスト=青空ヒッチ・ハイク(昨年度最優秀賞) 星セント・ルイス
司会=生方恵一アナウンサー
7 東京助・玉助   「初恋の思い出」
4 大瀬ゆめじ・うたじ「平行線パートⅡ」
3 大空ネット・ワーク「タダ酒も芸のうち」
1 桂光一・光二   「ことわざ問答」
2 大空あきら・たかし「うさぎ獲り大作戦」
5 高峰凡才・宮城英才「ことわざアラカルト」
6 高峰和才・洋才  「料理教室」

 そして、「年功も気合も十分」とエッセイの中でつづられている。

大瀬ゆめじ・うたじ
 芸歴がそのままコンビ歴ですでに十年。それだけに、それ相応の底力はあるだろう。それなればこそ、いくたびもくじけずにコンクールに挑戦しようとする気持は貴い。
 いままでに優勝のチャンスがありながら、ついに幸運に恵まれなかったのは何か、当然のこと反省のある二人だと思う。楽屋内の評判に、すこし生意気だというのがある。しかし、それも言ってみれば、生意気なくらいが芸になる式になってくれればと願っている。生意気を反省して若さを失ってはいけない、まだまだ突っ走ってもらいたいものだ。
 今日の舞台に、いままでの失敗をそそぐべき捲土重来の意気ありや――。
 出場は四回目。

 この優勝を経て実力が認められ、1981年4月には東宝名人会に出演。

 さらに1982年5月9日より2年間、NHK「お好み演芸会」の司会者としてメディアデビューを飾った。

 1988年11月9日、浅草公会堂の「恒例漫才大会」において真打昇進。この時、大瀬しのぶ・こいじがそれぞれ地方から駆け付け、口上に列席したという。

 ただどういうわけか、この時の漫才大会は冊子が作成されず、一枚刷りのパンフレットきりであった。遠藤佳三氏は「色々とトラブルやドタバタがあったそうでしてねえ」と苦笑していた。

 1994年3月、「大瀬うたじ・ゆめじ」として落語協会の香盤に載る。以来、落語協会の色物として活躍するようになった。

 2013年春、コンビを解消。理由は「方向性の違い」とのことであるが、不仲や漫才への情熱の限界などもあったようである。

 両者ともに漫才協会へ籍を置いて、ピンに移籍。ゆめじはしゃべくり漫談、うたじはカホンなる楽器を持った音楽漫談を演じるようになった。

 なおコンビ解消時には、うたじは「大瀬ゆめじうたじうたじ」と改名する算段だったらしく、協会関係者に驚かれた――とはナイツの楽屋噺で有名である。結局その改名はならず、「うたじ」という形で落ち着いた。

 2015年10月14日、東洋館において大空遊平・結城たかしと共に「トリオザキュースケ」を結成。うたじがカホン、たかしがギター、遊平が三味線と笛――という珍トリオ。

 しかし、このトリオは2016年春に解散し、うたじは脱退。遊平とたかしは「ふるさとコンビ」になった。

 晩年、うたじは内海桂子の参謀というべきような地位にあり、内海桂子の都々逸や音曲に合わせて太鼓をたたいたり、相槌を打って漫才風のネタをやったり――としていた。楽屋で甲斐甲斐しくしていた氏の姿を思い出す。

 2018年4月22日、国立演芸場の「三遊亭圓歌一周忌追善落語会」において一夜限りの復活を遂げた。ただ、出来の方は――

 この頃からナイツの楽屋噺でたびたびメディアで取り上げられるようになった。「大瀬ゆめじは舞台の持ち時間を守らず、短い時間で終わらせてしまう。15分を10分でおりてしまうので、わざと10分と言ったら5分で降りて来た」「うたじは『大瀬うたじゆめじうたじ』と改名しようとした」というようなネタでちょっとした話題となった。

 2020年8月、内海桂子が没した後、大瀬うたじは「内海桂子顕彰桂会の会」を発足。コロナ禍の中でも内海桂子の再評価に努めた。

 2022年8月7日、ゆめじは最後の東洋館出演を果たす。以来、闘病生活を送っていたそうで、2023年11月26日、慢性腎不全、急性心不全のため死去した。

 葬儀には相方のうたじが駆け付け、菩提を弔ったという。

 相方亡き後もうたじは淡々と舞台に出続けていた。晩年はカホン漫談を続けていたが、時々しゃべくり漫談をやることもあった。

 6月25日の落語協会総会の時にも普通に顔を出していた。

 2024年7月2日にも東洋館の仕事が入っており、出演していた。本当に急逝だったようである。

無断コピー・無断転載はおやめください。資料使用や転載する場合はご一報ください。

タイトルとURLをコピーしました