玉子家辰坊・八重子

玉子家辰坊・八重子

 人 物

 玉子家たまごや 辰坊たつぼう
 ・本 名 森 要次郎
 ・生没年 1895年10月11日~1973年3月3日
 ・出身地 東京 麻布

 玉子家たまごや 八重子やえこ
 ・本 名 森 八重子
 ・生没年 1908年4月8日~1977年3月7日
 ・出身地 石川県

 来 歴

 直球に言うと、漫才師の活躍よりも子供たちの出世と活躍に恵まれ、名前を残した古老コンビである。長らく鍋屋横丁に住んでいた。

 四男四女という子宝に恵まれ、長女と次女は漫才コンビを組んで、「森信子・秀子」。後年、信子は落語家・三遊亭小圓馬と結婚し、夫婦となった。

 三女の百合子はダンサーから伝説のボクシングトレーナー、エディ・タウンゼントに嫁いだ人物。末の娘はジャズシンガーの森サカエーーと親孝行な子供たち揃いである。

 なので、漫才師の活動の記録よりも子供たちの資料の方が多く、その資料から断片的に面影を辿るという――思えば、思えば不思議なコンビであるが、尤も、キャリアの点だけでいえば古く、喜代駒・染團治の次に来る創成期世代のメンツの一組と数えていいのではないだろうか。

 辰坊は、麻布の出身。幼い頃は町内でも有名なガキ大将だったそうで、その時、交友を結んだのが山田信一少年――後の広沢虎造であった。

 その交友は晩年まで続いたらしく、広沢虎造が中野の自宅へ遊びに来た事がある、とは森サカエ氏の証言。

 後年、関西へ上り、玉子家円辰に入門。河内家芳春・千代鶴、玉子家源丸、玉子家辰丸、玉子家政夫、荒川清丸、玉子家利丸などは兄弟弟子になる。

 師匠から漫才を習い、「玉子家辰坊」の名前を貰って独立。東京漫才が勃興する前後で帰京して、端席や地方巡業で活動をするようになる。

 八重子は、元々は松谷家という旧家のお嬢様。松谷家は、当地でも一、二位を争う富豪で、本家の立派な家でお嬢様として育てられた話や実家の蔵の中に立派な兜や刀剣、槍、お膳などが収められていた話、「オジマ」(羽咋郡志賀町大島か)という地を中心に、現在の千里浜なぎさドライブウェイ一帯を所有していた話などを娘の森サカエ氏より伺った。

 幼い頃から筑前琵琶を習っていたそうで、高名な師匠の内弟子になるために上京。後年、辰坊と出逢い、結婚。

 当然の話であるが、二人との結婚には一悶着があり、八重子一族の猛烈な反対があったと聞く。意を曲げずに結婚した二人は、漫才になるに至り、琵琶を三味線へと乗り換えた、との事である。

 漫才はオーソドックスな音曲漫才だったらしく、辰坊のかっぽれが売り物だった――とご遺族の証言。

 長らく鍋屋横丁に居を構え、活動。四男四女の子宝に恵まれ、長女と次女が姉妹漫才を組んで「森信子・秀子」、三女はダンサーでボクシングトレーナーのエディ・タウンゼントと結婚した「森百合子」、末の娘がジャズシンガーとして活躍している「森サカエ」である。

 戦時中、辰坊が一線を退き、芸能社のような仕事を始める。

 八重子は長女の信子とコンビを組み、「森八重子・信子」として活躍。自らを団長に一座を結成して、軍事慰問や巡業などを行っていた。

 森秀子氏によると、遠くは徐州や北支などの方も回っていた。最後の慰問は1945年1月だったそうで、後、少し帰国が遅れていたら、ロシア軍に抑留される可能性があったという。

 晩年は一線を退き、夫と共に子どもたちの成長を見守った。

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