荒川清丸・玉奴

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荒川清丸・玉奴

 目次

・人物
・経歴
 ・漫才以前
 ・梅坊主への弟子入り
 ・放浪時代
 ・漫才師への転向
 ・東京への進出
 ・清丸に対する一意見
 ・東京漫才ブームの中で
 ・戦争と戦後
 ・ささやかな晩年

 人物 

 荒川 清丸 あらかわ せいまる 
・本 名 荒川 清一  
・生没年 明治30年/1895年9月5日~昭和48年/1973年以後
・出生地 東京

 荒川あらかわ 玉奴たまやっこ  
本 名 荒川?  
生没年 明治30年代?~昭和48年/1973年以後  
出生地 東京?

 経歴

 ※差別的な言葉及び時代背景が出てきますが資料的価値を尊重して掲載いたします。差別の助長や誤認を促すものではありません。ご了承ください。

 ・漫才以前

 清丸は明治30年、東京府芝新網生まれ。家族七人で長屋暮らしをしていた。当時、新網は有名な貧民窟であり、多くの芸人や関係者が暮らしていた。後年、この過去が小沢昭一らによって取り上げられ、注目を浴びることとなる。本人曰く、大漁斎梅坊主(豊年斎とは別人)と背中合わせに住んでいたそうである。  

 実家は古道具屋を営んでおり、母親は清元の師匠としても活躍していた。幼い頃から芸事に囲まれた環境に居り、後々にこの素養が大いに身を助けてくれることとなった。  

 尋常小学校を四年で卒業(当時は四年、明治40年から六年になった。清丸は入れ違うように卒業をした)。その後、兜町の株屋の小僧になったのを振り出しに、万朝新聞の活版工、電気工場の見習工など職場を転々としたが、どれも物にならず、14、5歳ごろよりグレはじめる。  

 朝、工場に行くとみせて芝公園あたりをウロウロしていた。夜は金杉の毘沙門さまや芝新堀のお不動さんの縁日なんかで遊んでいた。十四、五から柔道も覚えて、品川の遊郭あたりまで遠征して、ナマイキな野郎をフンドシのあとさきに石つけて海へブチ込んだら、警察に叱られて十日食らった。

(小沢昭一「私のための芸能野史」239~240頁)

 と、本人が語るように、不良青年顔負けの荒んだ生活を送っていた。  

 その一方で、かっぽれの梅坊主一座に近づき始め、芸界へと足を踏み入れたのもこの頃であった。妹の稽古や親のおさらいなどをついて行っている間に、いつの間にか自分も音曲や踊りのイロハを取得していたというのだから、蛙の子は蛙の例えである。

 ・梅坊主への弟子入り

 清丸は芸界入りした顛末を以下のように語っている。  

 ――それで梅さん(註・梅坊主)とこに、クメちゃんという、粂松という男がいてね、静岡へ巡業にいくってんですよ。それで幕引きがひとり欲しいって、一日三十銭だって。おれといこうじゃねえかって誘いにきて、現金十円になりましたよ。それが梅坊主かっぽれ一座に入るきっかけで、名前は清松。大漁斎清松になったり、豊年斎清松になったり。

(「創」昭和48年3月号 鎌田忠良「細民窟芸人系譜」 182頁)

(喜利彦余録 当時、かっぽれ一座には、「豊年斎梅坊主」「大漁斎梅坊主」という二大巨匠がおり、互いに協力し、時には鎬を削り合っていた。名前こそ同じであるが、別人だったそうで、大漁斎は豊年斎を兄貴分として立てており、兄弟同然の付き合いがあったそうである。今日、我々がCDや写真などで目にする梅坊主は、前者の「豊年斎」の方であり、浅草を中心に活躍をしていた。大漁斎の方は横浜にあった「敷島座」という劇場や巡業が多かったという。ここで清丸が参加したのは、大漁斎の方であろう。)

 一座に参入した荒川青年は、祭りや小屋、吉原の流しを行い、かっぽれや軽口などの芸を学ぶとともに、読み書きそろばんができることを生かして、計算や手紙の代筆など、事務的な仕事もこなした。文字書きがままならぬ者の多い一座においては、この才能は大変に重宝されたそうで、豊年斎と大漁斎の手紙のやり取りなどにも関与をしたという。


・放浪時代

 だが、芸人になったところで荒んだ生活が治まるはずもなく、十七歳の折、「東京は面白くない」という理由で、東京を飛び出し、京都へと引っ越した。本人によると、借金を全て清算し、余った五円だけ持って飛んだというが、特に当てもなかったそうで、ふらりと旅に出た、というのが正しいのかもしれない。  

 そんな当てのない行動だったせいか、京都についた時には殆ど無一文に近く、寝る場所もままならないような有様だったようで、本人は、

 新橋から京都までが四円二銭で、京都で仕事にありつくために筑後屋っていう桂庵(註・職業安定所)へ紹介料五銭とられて、残りは十二銭。湯屋の下足番の仕事をもらって、行ったら都市が行きすぎると断られた。さしずめ今夜泊る処がない。

(小沢昭一「私のための芸能野史」239~240頁)  

 と、散々な目にあったことを回顧している。だが、捨てる神あれば拾う神あり、という例えの通り、このすったもんだが、荒川青年と漫才とを引き合わせるきっかけになったのだから、運命とは面白いものである。

 ・漫才師への転向

 荒川青年が玉子家圓辰の弟子になった経緯は、以下の通りである。

 当てずっぽうで油小路八条の井上電気工業ってのに入って行って、「東京から来た職人で白井松次郎ってのいるかい」ってきいたら「いるよ」っていわれてビックリした。出て来た白井もなおビックリ。「俺がここにいるのがよくわかったな」「いや全然わかんなかった」というわけで、その日の飯と宿にありついた。聞いてみると東京の仲間が何人もいて、生首の力という兄貴株が現われ、「どうしたい荒川、ここで働けよ」という具合で、その晩のうちに沢田製作所なる工場へつとめが決まる。日給四十銭。下宿代に八円。その下宿のそばに南大正座という芝居小屋があった。それに松井二葉という一座がかかる。三尺物(註・侠客や豪傑をモデルにした芝居)をやるんだが上方弁で歯切れが悪い。その一座の一人の男と心安くなって、芸の下地もあるから「舞台に出てみてエな」「出してやるよ」で、親まで半玉のかっこうで踊りをおどったり三味線ひいたりしたら、給料はなしだがけっこう祝儀が飛んだ。だけど仕出しばっかりさせられるんで不服。その頃、松井二葉が奈良の方へ巡業に出た留守に、小屋を空けるのは勿体ないからって掛かったのが玉子屋円辰の万歳一座。これが実に面白かった。梅坊主のところで軽口なんかやっていたから下地はある。よしってんでこの一座に入ってしまった。一座には末丸、弥太丸、千代丸、源丸、須賀芳、円次などがいて、私は玉子屋円太郎と名乗った。もちろんこの頃まだ〝漫才〟の語はない。「関西高級名古屋萬歳」と称していた。

(小沢昭一「私のための芸能野史」240~241頁)

 この漫才の面白さに感動した荒川青年はそのまま弟子入りを志願をして、玉子家円太郎と名付けられた。その頃、円辰一座は三曲萬歳(三味線、鼓、胡弓を中心に楽屋の楽器という楽器を持って出てくる大喜利のようなもの)で幕を開け、滑稽掛合や数え唄、道中尽くし、民謡、七福神踊り、御殿萬歳など、バラエティに富んだ芸を売りにしており、大トリが円辰・円次の掛合であったという。そこで彼は円辰が生み出した上方漫才を勉強し、自家薬籠中の物とする。

 その頃を回顧した証言をあげると、以下のようなものがある。

――修業中はね、私はおはやしの部屋に、紙と鉛筆もって坐りきりなんですよ。ネタ取りにね。人がやっていいなというのを、みなとったあんですよ。おハヤシにね三味線がはいりますね、そして太鼓たたきながら、太鼓のうえに紙と鉛筆をおいて、そして書いていたんですよ。いいネタだな、と思うのをみな書いちゃうんですよ。

(鎌田忠良「日本の流民芸」215頁 新人物往来社)

 他にも、円辰から修業には何一つも無駄なことはないと諭された逸話として、肩たたきと鼓の音というものがある。参考文献が見当たらない(小島貞二の「昭和演芸秘史」だったか)ので概要だけ書くと――

 円辰の弟子たちは毎日師匠の肩をもみ、叩くことが修行だと命じられた。しかし、芸は教えてもらえず、マッサージばかりやらされるので中には短気を起こして飛び出すものもあった。清丸も余り面白くなかったようだが、ある時、師匠から鼓を渡され、「叩いてみろ」といわれたので、これを一つ叩くと、いつになくいい音が出た。驚く清丸に円辰は「肩たたきによって、指がほぐれ、綺麗な音が出しやすくなっている。指をほぐすために肩たたきをやらせていた」と諭した。

 そんな修行生活は1917年まで続き、約三年近くの間、円辰や兄弟子の芸に触れ、上方漫才の基礎を叩きこんだ。

 1917年、当時国民の義務であった兵隊検査の呼び出しを受けて、本籍のある東京へと戻っていった。「私のための芸能野史」(242頁)によると、結果は「砲兵第一乙」だったという。乙種合格は実際に入隊する可能性があったが、その頃、日本はまだ平和だったと見えて(欧米では第一次世界大戦が勃発していたが、)これという従軍経験もないまま、また娑婆へと戻っていった。

 解放された後、また円辰一座に戻るかと思いきや、なぜか、芝にあった専売局の機械調整工として暫く勤務していたという。詳しい聞書きが掲載されている「私のための芸能野史」の中でも詳しく触れられていないので、どうしてかわからない。なお、日給は「2円43銭」と結構割がよかったようである。

 私の推測では、身内や周囲の目を憚った事や金銭事情が絡んでいるのではないかと睨んでいるが、それは推測の領域を出る事はないだろう。

 ・東京への進出

 昔から役者と何とかは三日やったらやめられないというように、堅気で収まる清丸ではなかった。

 時に大正6年の夏。彼は専売局の工員をやめ、関西で覚えてきた漫才で一旗あげようと志す。その時の事を、清丸本人は、

「そのとき、宇田川町の川升亭に、たしかにチャップリン・ウグイスが出てました。万才師など、東京中探したって、ほかに一人もいやしません。そこであたしは考えた。ようし、いま『万才』の看板をあげたら、きっと元祖になれるだろうってね。そこで、今から考えりゃァ随分ハッタリですが、『元祖・家元・宗家・萬才(この字を使った由)玉子家円太郎』(相方は玉子家玉奴)という物々しい看板を出し、あっちこっちの寄席へ頼みに行ったが、何処も相手にしてくれやしませんよ。だって、そりゃそうでしょう。万才なんて、東京の人には、正月の門付け芸人ぐらいにしか思ってもらえない。その時分、色物寄席にはピン(軽口)や掛合の達者な芸人さんがウンといたから、わけのわからない芸人なんぞ、誰も買ってくれないんです…………。」

(小島貞二「漫才世相史」 131~2頁)

 と、回顧をしている。

 そして、あろうことか「元祖・家元・宗家・萬才 玉子屋円太郎・玉奴」と称して、寄席回りやドサ回りをやり始めたという

 小島貞二などはこのような経緯を踏まえた上で、荒川清丸を「東京ッ子による東京万才の第一号」(「漫才世相史」131頁)と呼び、小沢昭一らも清丸の証言に従って、東京漫才の元祖だと記している。

 ・清丸に対する一意見

 しかし、この記述には多くの疑問が残る。特に、何を基準に「元祖」というのかというのがはっきりと定められておらず、功績の有無や弟子や後輩の育成などが殆ど問題にされていないところなどは大きな問題である。

 まず、清丸は東京生まれであるものの、漫才という芸は関西で知り、関西のやり方で漫才をやっていた。この時点で「上方落語に入門した江戸っ子」的な趣がある。悪く言うならば、単に東京で「萬歳」という看板を掲げただけであって、東京の客に受けようとか漫才を広めようという認識が薄かったように思われるのである。

 本来はそこに突っ込んで、なぜ清丸は東京漫才の元祖なのか、と小島氏なり、小沢氏が論ずるべきであるはずなのに、それをやっていない。しかも、清丸は『今から考えりゃァ随分ハッタリですが』(「漫才世相史」)などと述べている有様である。

 ハッタリという言葉をそのまま書きながらも、元祖とするのはいくらなんでも無理ではないだろうか。ハッタリだけならば、ドサ回りの芸人や三流の漫才師も「浅草の人気者!」「爆笑王の元祖!」などと名乗れるものである。清丸の発言を見ると、所謂そういう精神が働いているのではないか。一番の疑問としては、その評価を芸人仲間や当時の関係者が認めていたのかというところにある。

 確かに評価というものは、適当なものであり、あのリーガル千太でさえ、喜代駒、染団治を戦後の芸人だと平然と言っている資料もあることはあるし、松鶴家千代若も、「終戦時に東京に居たのは私たちと中村目玉だけ」などと、独断と偏見に満ちた事を口にしている。

 それでも、芸人内の評価や当時の活躍を知っている同時代の人の評価というものは、大切な資料であり、とくに後者の関係者の評価というものは芸人と違って、案外冷静な視点から評価をしている所があるので、その人の方向性を見るためには必要なものであるのはいうまでもない。

 喜代駒には秋田実や真山恵介、長崎抜天、染団治も添田唖蝉坊、松浦泉三郎など、その活躍を知っている人物が、きちんと評価をしているが、清丸はそういった評価が殆どない。口悪く言えば、当時の活躍を知らない人々が、清丸の証言に何も疑問を持つことなく、書き記しているだけのように思えてならないのである。後付けならば、いくらでもできることをしておきたい。

 第二に、清丸はこれという功績がないのも問題である。功績なくして、存在を語ろうとすることほど難しい事はない。

 清丸の動向を眺めてみても、例えば、喜代駒のようにバイタリティーや新しさがあって、弟子の育成や著名人との交流を大切にし、漫才の普及に努めたわけでもなければ、また、染団治のように、戦前の漫才をまとめあげ、協会の会長や副会長として漫才界の団結を促し、多くの弟子を育てたというわけでもない。

 一応、役員をやっていたというが、染団治のような要職にはついていなかった。そう考えてみると、「元祖」とは、流石に無理があるのではないか。それならば、日本チャップリン・梅廼家ウグイスの方が「東京漫才の元祖」として相応しいのであろうし、単に「東京漫才」と名乗ったのを評価の対象とするならば、荒川末丸の方がよほど早い。

 どうも、晩年の清丸にスポットライトが当たった背景には、東京漫才に深くかかわったというよりも、玉子家円辰のことを知っていた事、さらに貧民窟や大道芸・放浪芸といった、漫才とはあまり関係ない所にあるように思われるのである。もし、元祖とするならば、そのようなものに頼らぬとも、当時から知る人が相応の評価を与えてくれるはずである。

 皮肉になるが、この人から円辰や放浪芸、貧民窟を除くと、来歴も芸風もほとんど分からない、名前だけしか残っていない正体不明の漫才師とほとんど変わらない可能性があったのではないか。

 また、小島貞二は清丸と同門であった玉子家利丸の事は『利丸さんは”上方から来た万才の尖兵”の一人としての役割を担ったことになる』(「演芸博物館 紅篇」85頁)と、評しているが、この指摘はもはや矛盾の領域ではないだろうか。

 同じ門下同士で、同じ芸を学んだのにもかかわらず、片方は東京漫才で、片方は上方漫才だといっているのである。いくらなんでもこれでは辻褄が通らないように思われるのだが――

 下手な見解を述べるならば、小島氏も小沢氏も単に清丸が東京生まれであったから、たとえどんな芸をやっていようが、東京漫才だと主張しているようにしか見えないのである。もっと弁解や意見があればいいのだが、両人共に、真核には触れず、ただ漠然と荒川清丸の主張を受け入れている有様である。これを鵜呑みにすることは出来ない。

 さらに言うと、管理人が聞書きを行ってきた芸人さんたちも、喜代駒、染団治は知っている(評価の有無は別として)が、清丸という存在は全く知らない、聞いたこともないというような状態である。この程度の知名度で「元祖」だと評するにはあまりにも無理がある、と思われる。

 しかし、そうはいうものの、やはり東京漫才の発展に貢献した事は大いに認めるべきであろう。「上方漫才に挑戦した東京生まれの漫才師」、あるいは、先述の「上方落語に入門した江戸っ子」のような解釈で、この人を見るべきだと思う。

 ・東京漫才ブームの中で

 話が脱線しかけたので、来歴の方に戻る。

 1921年、後年、相方となる妻の玉奴と結婚。清丸と結婚するぐらいなのだから、この玉奴という人も相当な芸達者――と考えるのも無理もない話であろうが、意外や意外、

 そのころ大正十年結婚する。奥さんはまったく堅い家庭に育った人という。

(鎌田忠良「日本の流民芸」216頁 新人物往来社)

 と、鎌田忠良は記している。

 そう考えると、清丸が「元祖・家元・宗家・萬才 玉子屋円太郎・玉奴」と称するようになったのは、1917年よりもずっと後だったのではないかと訝しく思ったりもする。芸人でない堅気の人との結婚以前に、こんな称号を名乗れる方がおかしいのは言うまでもない。

 結局、二人が本格的にスタートしたのは、関東大震災の後。1924年、浅草の中央劇場に出演した時、円太郎改め荒川清丸として舞台に上がってからであった。そう考えると、このコンビのスタートは小島貞二が称える程、早くはないようである。

 むしろ、数年間の間、上方漫才とも東京漫才ともつかぬ曖昧な態度にあったといってもいいのかもしれない。ここに喜代駒的なパーソナリティーや染団治のような度胸があれば、清丸が間違いなく天下を取った事であろう。

 なお、ここで誤解してほしくないのは、荒川清丸と同門の弟子である荒川末丸や浅丸とは一切関係ないという事である。

 清丸は、昔の漫才師がなぜ「ナニ丸」と名乗ったかという理由を、

――昔の萬歳はみんなね、丸という字がなかなかつかないんだ。ナニ丸という丸は、萬歳大会でトリをとるようにならないとつけられない。自分勝手に丸をつけるとね、ほかのものに文句をいわれ、なまいきなことをするなって破かれちゃうんだ。昔の萬歳師には、辰丸、末丸、ゼン(?)丸、ヤカ丸ってみんな丸がついていたが、これはなかなかつけられなかったんだ。

(鎌田忠良「日本の流民芸」215頁 新人物往来社)

 と説明したうえで、本名の「荒川清一」からこの芸名を名づけたとしている。

 一方、後者の面々は本名とはまるで関係ない、屋号としての「荒川」である。一説によると、大阪を流れる「荒川」から、名前を取ったというが、清丸とは兄弟弟子でこそあれ、師弟関係や門閥関係はないので、そこだけは誤解しないように。

 本格的な参戦を果たした後は、主に安来節一座と合同で巡業をしたり、寄席の色物に出ていたようである。

 そして、1926年3月、かしまし娘の父親と共に、「五蝶会」なる組織を立ち上げ、自身の一座を持った。鎌田忠良は、

大正十五年三月、いまのかしまし娘の父親と二人で「五蝶会」――バクチの御開帖をもじって命名、以後二度と手を出さないという決意をこめた――をもち、七十人余の一行をかかえ、樺太あたりまで巡業した当時であったようだ。

(鎌田忠良「日本の流民芸」216頁 新人物往来社)

 と、その頃の活気と会の名前の由来を簡潔にまとめている。

 その会を結成すると同時に、師匠である玉子家円辰を招聘し、「関東関西両家元の顔合わせ」というキャッチフレーズでコンビを組み、活躍していたそうである。

 このあたりの活動を小沢昭一も鎌田忠良もサラッと書いているが、実質の活動期間は短かったのではないだろうか。円辰もこのコンビをあまり長く続けず、また関西へと戻っていったといい、正司氏も新たな一座を立てて、そこで娘たち三人(かしまし娘)を育てた事を考えると、この五蝶会というものは、短命だったように思えるのである。

 その後、東京に戻って来たようであるが、清丸は喜代駒のような派手な公演を行う事も、染団治のように吉本や松竹の専属になることなく、浅草を中心に寄席や劇場を巡っていたという。ここに清丸が東京漫才の元祖にも、リーダーにもなり得なかった理由があるのではないだろうか。

 ・戦争と戦後

 小沢昭一や鎌田忠良の本によると、戦時中は新潟県嘱託の漫才師として活躍していたようで、

 戦時中は、当時の新潟県知事のひいきをうけ、県嘱託となり、出征家族精神指導会なる陸軍中将の講演会で余興として時局萬歳を演じていたという。

(鎌田忠良「日本の流民芸」216頁 新人物往来社)

 なる記述が見受けられる。また、太平洋戦争が勃発する直前の1941年には、「東宝名人會」の弟分的な企画であった「笑和会」に出演した、と「読売新聞 夕刊」(1941年6月11日号 4頁)に掲載されている

 この「笑和会」は若手、新人、中堅などが中心となっていた公演で、今の「花形演芸会」みたいなものか。キャリアだけ行けば、清丸も「東宝名人會」に出られるだけの年期はあったはずであるが、遂に「東宝名人會」に出る事はなかった。

 しかも、「笑和会」の出演もこれくらいなものだったようで、常連にはなり得なかった模様である。ここから内海突破・並木一路、都上英二・東喜美江が輩出されたことを考えると、清丸の心中は幾許なるものであったか。

 また、昭和18年(1943)の、帝都漫才協団役員の名簿を見ると、理事兼第七区部長に就任している。何区がどこだったのか依然としてはっきりとしていないが、小沢昭一の取材を参考にするならば、浅草芝崎町界隈になるだろうか。

 しかし、戦争は泥沼化する一方で、清丸も安心して居られなかった。小沢昭一によると、

 空襲を浅草芝崎町二丁目でうける。板橋に清丸荘というアパートを持っていたのでしばらくそこへ移り、昭和二十四年に入谷にもどった。

(小沢昭一「私のための芸能野史」242~3頁)

 だそうで、戦後になってやっと平穏を取り戻したようである。

 また、玉奴とのコンビを解消したのもこの頃のようである。小沢昭一の「私のための芸能野史」を見ると、妙子、静香とコンビを変えて、活動したとある。その頃の活動を示すものとして、

新宿帝都座演藝場
「東寶特選万才大會」

 艶子・洋月 一路・突破 妙子・清丸 一雄・八重子 千代若・千代菊 佳江・亀造 三亀男・智子光児・光菊 染好・好子

(「読売新聞」昭和21年6月20日号 朝刊 2頁)

 という記事を挙げておこう。

 が、玉奴以外の人物と組んでいた証拠はこれくらいであり、それ以外は殆ど資料がない。戦後直後の漫才師の名前を載せた、マセキ興業の名簿や漫才大会などのチラシを見ても、存在を確認することは出来ない。悪く言えば、やっていたらしいが、有名無実的なのである。

 戦争前後の消息としてはこれくらいなものであり、詳細は明らかになっていない。明らかになっていないというよりは、鎌田忠良などが終戦と共に勝手に切り上げていて、恣意的に隠されているとも言えなくはない。

 ・ささやかな晩年

 終戦後も相変わらず、漫才師としての活動を続けていたそうであるが、その頃の動向はよくわからない。木馬館などに出ていたらしいが、芸人さんの話題にも上ったことがない。

 僅かに、分かっているのは1964年11月28日に開催された「東京漫才変遷史」に出演した事。この時は相方の玉奴も出演したそうで、昔取った杵柄である「三曲萬歳」を演じた、とLP全集「東京漫才のすべて」の解説書にある。

 また、清丸は1955年に結成された漫才研究会に参加をしなかった。当時の名簿を見ても入会をしたり、活躍している形跡はない。そういう意味では、時代にも取り残されているきらいさえもある(東喜代駒、大津お萬、前田勝之助は協賛として研究会に参加しており、林家染団治が副会長の要職についていた事を見ると、清丸の立ち位置がよくわかる事であろう)。

 さらに、昭和30年代の終わりに差し掛かるころから体調不良との戦いだったそうで、小沢昭一曰く、

 三十九年三月二日、狭心症で入院、四〇年三月三日退院、一年と一日入院したが、それからは病院を出たり入ったり八年間の闘病生活で、最後はもうだめだから親戚を呼んでくださいとまで言われたが、点滴でよみがえった。現在はだいぶ元気になって散歩ぐらいは出来るが、まあ静養中というところだ。当年七十五歳。

(小沢昭一「私のための芸能野史」243頁)

 と、随分とアブナイ状況が何遍も続いたようである。その後、何とか一命こそは取りとめたものの、往年の体力はなくしてしまったようで、医者通いが欠かせなくなったという。

 そんな清丸に突然スポットライトが浴びせられるのだから、人生とはどうなるのか分からないものである。

 そのスポットライトを放った本人は、誰であろう小沢昭一であった。その頃、小沢昭一は俳優の仕事をセーブし、滅びゆく日本の放浪芸や大道芸の記録と調査に力を注いでいた。

 そんなある日、小沢昭一は漫才師の大朝家五二郎の紹介で、荒川清丸に出会った。元々、五二郎、清丸に曲芸師の柳亭鏡之助を加えた鼎談を以て取材を進めており、清丸はその一員に過ぎなかったが、清丸が大道芸時代のかっぽれや阿呆陀羅経に詳しいと知るや、清丸を中心にして調査を進めるようになった。

 それ以来、入谷の家に通い詰めては、円辰や梅坊主の話や阿呆陀羅経やかっぽれ、清丸の生まれ育った貧民窟の様子などを書き留めていった。その研究・調査の一部が何回も引用をしてきた「私のための芸能野史」に掲載されている。

 小沢昭一の目に留まったことに加え、折しも巻き起こり始めていたアンガラや大道芸ブームのみぎりを受け、清丸は突然として本や雑誌に取り上げられる存在になったのである。

 そのお陰で、清丸は名前が残り、かっぽれや大道芸の研究も飛躍的に進んだ。現在でも在りし日の大道芸や貧民窟の様子がうかがえるのも、少なからず彼の貢献があってからこそである。

 しかし、その一方で、清丸が注目されたのは、古い時代の貧民窟や圓辰、梅坊主を知っているからであって、漫才師として優れていたわけではない、という点も無視できない。小沢昭一にせよ、鎌田忠良にせよ、清丸本人の芸歴や動向よりも、大道芸人としての経験や貧民窟での生活に重点と興味をおいていたように思われてならないのである。嫌な言い方をすれば、別に清丸は東京漫才の元祖でなくとも、漫才師でなくとも、彼らの姿や貧民窟の様子さえ知っていれば、よかったのではないだろうか。

 そういう点を考えると、清丸の晩年は果たして幸せであったのか、不幸せであったのか、という問題も出てくることには出てくる。が、それは本人にしかわからない感情であろう。

 両者ともに没年は不詳。入谷で消息の調査をしたことがあるが、知っている人がいなかったのが残念である。昭和50年代ごろまで健在だったというが、詳細は不明である。

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