立見二郎・とん子
立見二郎・とん子(右)
人 物
立見 二郎
・本 名 直井 實
・生没年 1900年代?~戦後?
・出身地 ??
立見 とん子
・本 名 直井 ハナ
・生没年 ??~戦後?
・出身地 ??
来 歴
立美二郎・花柳とん子と表記する事もある。
前歴は不明だが、二郎の兄は関西で活躍した漫才師の立美三好(1898年~?)だという。
その頃浅草の御園座には荒川鶴春、ボテユと辰見三好(辰見二郎の兄)らが出演……
と『内外タイムス』(1952年10月25日号)にある。
三好は長らく中村種春とコンビを組んでおり、1926年6月8日には種春と共にラジオへ出演している。兄の関係から漫才師となった模様か。兄とはそこまで年が離れていなかったらしいので、大体の年代は推定できる。
元々は「唄狂楽」というようなピン芸をやっていたらしく、『都新聞』(1930年10月20日号)に
▲新興演藝大會 廿日より遊楽館 歌狂樂 大津お万、立美二郎出演
という記載がある。この時、大津お萬と同座しているのが興味深い。その後、漫才になった模様で、
浅草公園に民謡でデビューしたお万が、豊かなノドを認められ、立見二郎と浪曲漫才のコンビを結成、日本中はもとより朝鮮、満州をノシ歩いたのが十八才の時。
と、真山恵介『寄席がき話』にある。
1931年1月、大和家かほるとコンビを組み、浅草帝京座に出演。『都新聞』(1月23日号)に、
▲帝京座 萬歳大和家かほる、立美二郎加入
とある。
同年、春の5月、神田喜楽で行われた万歳大會に、梅の家一徳とコンビを結成して出演している様子が、『都新聞』(5月6日号)より伺える。
1932年、一度コンビを解消して、川路紫郎とほんの少しやっていたようであるが、また一徳とよりを戻した。
一徳・二郎(右)
1933年正月の広告欄に出された『都新聞』の漫才師連名の中に「梅の家一徳・立見二郎」とある事から、この頃には一枚看板だったようである。残された写真や広告から見る限り、二郎が三味線、一徳が笛を曲弾する古典的な音曲漫才だったらしい。
1933年ころより、とん子とコンビを結成。その前後で結婚したという。
相方のとん子の経歴は、よくわからないが、古くからの漫才師だったらしい。『都新聞』(1931年11月22日号)の広告に、
▲宮戸座 廿五日より五日間十一時開場昼夜二回関東関西萬歳競演會 出演者は、
定子、奈津丸、ちと世、千代若、葉子、榮丸、ぽん太、政之助、與五郎、圓十郎、一丸、源一、六郎、和可子、逸郎、春之助、月子、友衛、デブ子、花助、ヘナチョコ、時二郎、清之助、小太郎、小柳連、美佐子、琴助、君子、房江、とん子
とあるのが確認できる。ただ、これが同一人物かとなると、確証はない。
以来、浅草漫才の人気者として、浅草の劇場や余興などで活躍。そこそこ人気があったと見えて、広告などを見る限りでは三味線の曲弾きや浪曲漫才を得意としていたほか、升の上で踊りを踊る曲技的な芸を持っていたそうである。
1935年には、浅草で活動している漫才師たちと協力して新党を結成。『都新聞』(1935年7月2日号)に「漫才の在野黨が新黨樹立 二大ブロックに對抗して」という記事が出ているので、少し長くなるが引用する。
浅草興行界の演藝場のうち玉木座、万世座、公園劇場、花屋敷演藝場其他に出演してゐる漫才連中の間には予てより漫才をさらに盛んならしめるには、各自が思ひ思ひに旧態依然たるものを守つて演つてゐたのでは覚束ない、各藝人はよろしく時々顔を合して各自の藝を相互に批判し合ふと共に、更に一團となつての勉強、研究をなすこそ、その目的に副ふよのであらうとの議が起つてゐたが、それが俄に熟して丗日夜六區白十字階上に、その第一回顔合せを行つた。
出席者は寳家大坊、小坊、富士日出子、蓉子、浅田家八千代、若丸、玉子家一丸、源一、巽登喜夫、川路紫郎、天津城勉郎、大道寺春之助、天野操、金茶久、立美とん子、二郎、浮世亭銀猫、出羽三、玉子家妙子、源六等、この藝人のかうした會合は嘗てなかつた事とて、東京から初めて漫才が入つて来た頃からの懐古談に花が咲いて大賑はひ、それに、當夜は、何しろ誰も彼も舞臺を済まして十時過ぎからの集まりとて、結局議事も進まず、會名なども決めずに散會、近く第二回會合を行つて、顔触れも多数にして効果をあげて行く事になつた、ところでこの漫才連中の集結は、表面理由とする所は前記の通りだが、一面に於ては関西には吉本興行部が一手に握る関西漫才があり、東京には松竹演藝部が集めて常盤座等で演つたのが、何時か纏まつた風に取扱はれるやうになった一團もありこの一團は何れにも属しないものゝの結び合ひなので、この二者に對抗させて、経済的事情に發した結合として注目されてゐる
とある。この新党が後年の帝都漫才組合の一母体となった模様か。
1943年、帝都漫才協会に入会。第二部に所属していることが、当時の名簿に載っている。本名はここから割り出した。
敗戦前後で、消息不明になる。但し生きてた可能性は高い。
森信子氏によると、一本歯の下駄で碁盤の上に乗って曲技のように踊る「松づくし」をお家芸にしていたそうで、後年の信子・秀子もこの芸を参考にして演じた、との事。
なお、とん子との間に、娘を授かったとかで、その時の笑い話が『都新聞』(1938年3月23日号)に掲載されている。以下は引用。
★もり蕎麦八つ 二郎、とん子の女夫漫才が、23日前の晩九時頃お座敷で稼いで田島町の自宅へ歸ると、八歳になる娘がまだ寝ないでおとなしく留守番をしてゐたので、あゝいゝ子たまつたネ、ご褒美にお蕎麦をおごつてあげるから、角の蕎麦屋へ行つて盛りを三つ注文して来ておくれと云ふと、娘は喜んで注文に行つたが、やがて出前が持つて来たのを見ると盛り蕎麦が八つ、様子を訊いて見たら、娘が蕎麦屋へ行つて「お蕎麦の盛りを持つて来てね」と云つたので蕎麦屋が「幾つ?」と訊いた、これを娘は自分の歳を訊かれたのだと思つて、「八つヨ」と云つた、もり蕎麦八つのいきさつ右の如し
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