人見明とスイングボーイズ


人見明とスイングボーイズ

(人見明・久呂須敏・荒井弥太・西八郎)

左から人見・荒井弥太・久呂須敏

前列右より、西八郎・荒井弥太
後列右より、久呂須敏、人見明

左から西八郎・久呂須敏荒井弥太

 人 物

 人見ひとみ あきら
 ・本 名 荘加 政雄

 ・生没年 1922年5月16日~2007年以降(ご健在?)
 ・出身地 京府 北豊島郡 板橋町

 久呂須くろす びん
 ・本 名 片田 勝美

 ・生没年 1922年10月15日~没?
 ・出身地 栃木県 足利市

 荒井あらい 弥太やた
 ・本 名 谷戸 雄一

 ・生没年 1927年1月15日~没?
 ・出身地 神奈川県 横浜市

 西にし 八郎はちろう
 ・本 名 片田 正雄

 ・生没年 1930年11月25日~没?
 ・出身地 神奈川県 横浜市

 来 歴

 人見明とスイングボーイズは戦後活躍した歌謡漫才グループ。メンバーが定着する以前は、南けんじなども所属していたことがある。

 人見明は喜劇俳優・コメディアンとして、あまりにも有名である。往年のクレイジーキャッツ映画や『男はつらいよ』の名脇役として出演し、独特の東北訛りのギャグや歌や踊り、とオールマイティな俳優として知られている。

 関係者に見せてもらった『1990年1月中日劇場、水前寺清子公演パンフレット』によると、人見明、の由来は、小学生の同級生だったらしく、「これを名乗れば再会できるのでは」という心から、名乗ったらしい。嘘か本当か、芸人のクセもあるのでうのみはできない。

 そんな人気を誇っただけあってか、『日本映画人名鑑』等に、詳しい情報が出ているのはいうまでもない。其中でも、特に詳しい『日本映画俳優全集 男優篇』の、経歴を簡略にまとめると、

 板橋第四尋常小学校を経て、板橋第一尋常高等小学校を卒業。卒業後、東京計器製作所に勤務のかたわら、芸事好きの同僚と喜劇グループや歌謡漫談グループを結成し、アマチュア演芸団の軍隊慰問に歩く。戦時中、横須賀第二海兵団に入隊し、海兵として働くが、終戦とともに失職。演劇一座の空気座などに出入りするが、1946年、仲間たちと歌謡漫談を組み、「スイング・ボーイズ」を結成。

 と、いう所か。然し、『歌謡漫談読本』『大正テレビ寄席の芸人たち』などにある「1946年2月25日、人見明、久呂須敏、荒井弥太の3人で結成された」とあるのが、気にかかる。

 漫談の南けんじは、スイングボーイズの創始者だったらしく、「人見明が芸界入りのきっかけだった。我々三人でスイングボーイズを結成した」(要約)と自伝『ビートたけしのへその緒』の中で語っている所を見ると、果たして久呂須・荒井の二人が出入りしていたのか不明である。

 また、後述する『東京新聞・夕刊』(1965年3月30日号)に掲載された記事に、「昭和二十二年十二月五日、つまりクリスマスに、もとバンドマン同士が集まって結成された。」とあるのが尚更に引っかかる。

 管理人としては、人見・南・君三人スタート説をとる。

 1946年年末、人見・南・君の三人で、吉本興業が主宰するコンクールに出場し優勝。1947年1月1日から、浅草花月に出演する権利が与えられ、演芸家として初舞台を踏む。

 好調な滑り出しと共に、舞台数を踏んでいったが、同年分裂。人見明は「スイングボーイズ」の名前をもらい、南賢児は君知也を連れて脱退。椰子実を加えて、「脱線ブラザーズ」を結成。その後の経歴は、南けんじ(工事中)を参照にしてください。

 残された人見は、浅草花月に出ていた空気座に出入りをして、細々と活動を続けていたらしいが、1947年12月5日、バンド仲間であった久呂須、荒井と三人で、「スイングボーイズ」を再結成。メンバーの久呂須、荒井ともに経歴には謎が多いが、バンドマンだったそうで、久呂須のギター、荒井のアコーディオン共に実力はあった。

 また、久呂須敏の芸名の由来は、アメリカのマルチタレント・「ビング・クロスビー」からとったという。中野四郎の「瓶九郎」も同じ口である。当時のクロスビー人気の証拠として、いい資料なんじゃないだろうか。

 翌1948年1月1日、高萩炭鉱の新年会で初舞台を踏む。この時、同じ会で出ていた春日井おかめの付き人と久呂須ができてしまい、人見明の仲人でゴールイン――という珍事もあったという。このトリオは面白いもので、後年、荒井が結婚した際は久呂須が仲人を勤める――という、三すくみであったという。どこか、おかしい。

 明るく朗らかな芸風で、注目を浴びるようになり、1953年7月1日、新宿劇場で行われた「東西対抗爆笑大会」では、南道郎・国友昭二と共に選出されている。

 1956年、久呂須敏の実弟、西八郎が加入し、カルテットとなる。バイオリンが入ったことにより、音の幅が増え、多くのラジオ・テレビ番組をはしごする人気グループに成長した。

 その頃の音源がレコードに残っているが、人見がエセ東北弁でまくしたてるツッコミ、久呂須が大ボケ、荒井弥太がまじめながらもとてつもない音痴、西八郎が女形風の歌い方や喋り方(女声を出せた)――という、本道的な舞台だったようである。一方で、早くコーラスを取り入れ、ダークダックス風のハモリや声楽を見せた。

「ちょいと出ましたスイングボーイズ、苦労なんぞリズムで飛ばし、いつでも楽しく歌うよ~スイングボーイズ♪」

 というテーマソングまで作った。

 1960年頃より、人見明が喜劇映画や日劇の舞台に出演するようになったため、人見がいるときは、「人見明とスイングボーイズ」、いない時は「スイングボーイズ」と、変則的な展開を見せるようになった。但し、売れた後もしばらくは同チームに籍を置き、ボーイズをやっていた。分裂したというわけではない。

 その後の人見明の活躍は映画ファン、喜劇ファンはご存知であろう。クレイジーキャッツ映画の脇役として、多くのシーンに登場。1962年のニッポン無責任時代からはじまり、1969年のクレージーの大爆発、1970年の日本一のヤクザ男まで、クレイジーキャッツ全盛期の作品そのほとんどに出演、いい役で独特の存在を示している。

 後年、クレイジーキャッツ映画が作られなくなった後も、コント55号作品や男はつらいよ、など一貫して喜劇映画への出演をつづけ、コメディアンとしての地位を確立した。

 一方、残された3人はメディア、東宝名人会の舞台を中心に活躍。

 1965年、歌謡漫談グループを集めた「東京ボーイズ協会」の発足に関与し、人見明共々4人で入会。その結成を記念して作られた『歌謡漫談読本』の中で、こんな紹介をしているので引用する。

 昭和二十一年二月二十五日、人見明、 久呂須敏、荒井弥太の三人で結成。二十七年頃、NHK若手芸能家の時間(第二 放送)で初めて電波にのる。三十一年より久呂須の実弟の西八郎が加入。
 NTV「歌のパラダイス」NHK「むだ口へらず口」TBS 「ハイカラバラエティー」LF「ドレミファ教室」とレギュラー番組が週四本と増えて、旅行にも られない日が大分続く。この間日活映画「マダム」新東宝「仙人部落」東宝映画「ヤブニラミ日本」等映画出演もする。
 この頃より人見の舞台出演が多くなりいろいろ支障が生じたので、三人の場合はスイング・ボーイズ、四人の場合は人見明とスイング・ボーイズとタイトルを変え、変則のまま現在に至る。
 十周年は何時の間にか過ぎてしまったので、二十周年記念のリサイタルは盛大に行なうつもりであり、もっともっと皆 さんに愛されるスイング・ボーイズにな りたいと思っています。
 個人的な話題としては久呂須の仲人が人見。荒井の仲人が久呂須。まだこれからだが西の仲人が荒井と、一寸珍しい関係である。
 趣味としては人見が無類の動物好き で、ハト(二十羽程) 熱帯魚から犬、 猫、猿、モルモット、ほかに小鳥が二十羽とまるで動物園のようであった。久呂須はなにか始める前にまずキューッと一杯ということになり、結局飲んでいるうちになにもやらずじまい。とにかく酒豪である。荒井は魚釣りとかけごと(麻雀とパチンコ、ポーカー)、 西はステージでの女性役そのままに編物である。
 とにかく二十一年近くけんか一つせぬチームワ ークの良さはささやかな自慢です。

(久呂須敏・記)

 また、発足を記念して、『東京新聞・夕刊』(1965年3月30日号)に、「我らボーイズ」として、紹介記事が掲載された。こちらも引用しておこう。

 ギター久呂須敏、アコーディオン荒井弥太、ギター西八郎というメンバー”元来”最近コメディアンとして舞台で単独活動している人見明をカシラに発足したのだが、そして今でも別にわかれたわけでもないのだが、そこはオトナの感覚で、適当に処理している。
 昭和二十二年十二月五日、つまりクリスマスに、もとバンド・マン同士が集まって結成された。あくる二十三年一月元日早々高萩炭鉱の慰問の仕事にありついた、一行に女流浪曲の春日井おかめがいて、その付き人だったのが、久呂須の現夫人すず江さん、「あまり寒いんでコタツにはいったんですね。その同じコタツにあたっていたのが今の女房で、これが縁となり……」極めて熱い仲となったのは当たり前。人見夫妻がなこうどとなってその秋に結婚。やがて荒井がやはり旅先で恋人を捜してきてこれが現・定江夫人。なこうどは久呂須夫妻と、まるでリレーのバトン・タッチみたいなやり方。
「さしずめ、今度は西君のヨメさんの世話は荒井の番なんですが……どうだい、もうそろそろもらってもいいんじゃないか」と両先輩が催促するが、ニシがハチ郎君、ただニヤニヤ笑うばかり。人見夫人の文江さんをはじめ、全細君の名は”江”の字がつくのも因縁だが、若い西君「そんなことこだわらずに、いきたいですね」という。
 久呂須は四角なフチの素通しめがねをかけている。岸井明のアイデアだそうだが、もちろんこんなめがねを売っているわけはなく特別あつらえ、三千円から五千円かかる。久呂須と西は実の兄弟で、西は兄帰宅で金千円なりの借金のカタにとってあったバイオリンでけいこをし、宝くじで当てた資金で外国製の楽器をふん発した。荒井は本名・谷戸(やと)雄一だが、芸名で電報を打たれると「アライヤダさんッ」と呼ばれて近所の人たちにメンボクない思いをするなど、しゃべったあと、
「都会調をネラっています。楽器よりもコーラスを中心にしたボーイズはうちが一番先じゃないでしょうか。ネタは全部雑談のうちに合作し、音楽のアレンジは荒井の担当。ぼくたちは結局脚本家・演出家・音楽家・そして演技者の一人四役なんですね」と胸を張った。

 1967年、「東京スイングボーイズ」と改名――と『日本演芸家名鑑』の中にある。人見明が抜けたことによる改名だろうか。

 その後は3人体制を確立し、ボーイズの一組として各劇場に出演したほか、後年はコーラスや楽器の才能を生かして、カラオケ代わりの生演奏や歌声教室の様な事をやって、稼いでいたという。

 また、久呂須はボーイズ協会の理事として、シャンバローの柳四郎をよく支えたという。

 1986年に解散したそうだが、1987年頃まで名簿や番組表で、「東京スイングボーイズ」の名前を確認することができる。

 1989年に入ると、東京ボーイズ協会から脱退。消息不明となる。メンバーの一人が、亡くなったか、病気で倒れたりでもしたのだろうか。なお、最後まで久呂須と西は、同じアパートの別室を借りて、ほぼ同居のような形で暮らしていたという。

 一方、かつてのリーダーだった人見明は平成に入った後も、水前寺清子や北島三郎歌謡ショーの役者として活躍。老巧な味わいを見せていたが、老年のために引退した。

 その後も健在だったようで、映画評論家の佐藤利明氏は、自身のブログの中で、2007年現在も84歳で健在である、と触れられている。2020年現在も健在らしく、佐藤利明氏は自身のTwitterで、

恩歳九七歳です。しばらくご無沙汰ですが、以前前、ご一緒した時は「ばか」と囁きかけてくださいました。

— 佐藤利明(娯楽映画研究家) (@toshiakis) April 26, 2020

 とある。

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